第七話 偽りなき赤とマッチ売り
「おや、こんな夜に淑女がひとり。まったく危険じゃあございませんか」
夜闇に沈むリンクス通りに、赤いマントがヒラリと舞った。
大きなフードを目深に被り、マントによって輪郭がぼやけた男は、隠し持ったナイフの感触を、指先で確かめる。
「ご婦人、どうされたんです。夜逃げか逢引きか、あるいはもっと危ない遊びを?」
「あらあら優しい殿方。こんな怪しい女を心配してくださるなんて、きっと本物の紳士ね」
「それじゃあ」と言って、古びた上着の女が立ち去ろうとするも、男が立ち塞がった。
「お待ちなさいな。あんた、まだ質問に答えてないぜ」
鐘の音が、暗い路地裏を駆け抜けていく。今日もどこかで誰かが死んでいるのだ。
動こうとしない男に対して、女は小さくため息を吐く。「いじわるな方」と笑いながら、サイズの合っていない上着の懐に指を入れた。
「じゃあ────────死んでもらおうかぁ!」
男の足元を埋め立てていたレンガが、勢いよく砕け散る。
赤いマントを翻し、男は粉塵の中に素早く紛れた。
「待ってたぜ、”マッチ売り”!」
「そういうお前は”穢れなき赤”。王室直属のエージェントだね!」
真っ赤なマントは手練れの証。女王への拝謁を許された、諜報機関の構成員のみが羽織る象徴だ。
今日を逃すわけにはいかない。決意を胸に、男は窓の縁を駆けあがり、瞬く間に二階建ての高さへ到達する。相手の武装を見定めるため、ナイフを構えて飛び降りた。
「腐った女王の下僕に会えるなんて光栄だ。あたしも有名になったものだよ!」
金属の擦れ合う、甲高い音が塵を裂く。
ナイフは寸分の狂いなく、その切っ先を心臓に突き立てたはずだが、男の眼前で小銃が銃口を晒していた。
側面に刻まれたエンブレムは燃え盛る炎。死の媒介者にして武器商人たる”マッチ売り”のシンボルマークだ。
男は大きく跳躍して、ニヤリと笑う。
「観念するこった。ここは包囲されてる。クライアント共々終わりさ」
”穢れなき赤”は、”マッチ売り”の拠点や下部組織をいくつも潰してきた。男が参加してきた作戦は、両手両足を使っても数え切れない。
それでも、忌まわしい死神の活動は衰えなかった。火の無いところに火を点けて、火の有るところで火を増やす。頭目である彼女こそ、国に漂う黒煙の根源だ。
「包囲だって? そいつぁ何人だい。五人、十人、それとも百人か?」
「あんたが想像する以上さ」
「笑わせるんじゃないよ!」
女が上着を脱ぐと、弾薬ベルトが露になった。”マッチ売り”が組織でなく個人の忌み名であった頃、あるいはそれよりさらに前。彼女の周囲には絶えず争いがあった。スラムの男たちは些細な事で殴り合い、女たちは罵り合っていた。
だから、マッチ売りの女が最強の個に拘りを持つのは、必然であった。
「しみったれの赤が何人いようと同じこと。全部蹴散らしてやるさ!」
「強がりはおよしなさい。ガキを失った今の”マッチ売り”なんざ、杖を奪われた老人みたいなもんだ」
女は顔をしかめる。
かつて、逃走の最中に死んだ構成員を思い出す。気まぐれとはいえ拾ってやったにも関わらず、恩知らずにも死んだ少年のことを。
男が腰を落とす。その姿勢を見て、”マッチ売り”は直感的に、相手が打って出るのを悟った。
「お黙りよ。足手まといのガキなんざ、いるほうが邪魔ってもんさね」
「口だけなら何とでも言えるさ」
壁面が爆ぜ、歪んだ鉄柵が路地に倒れ込む。迫り来る弾丸を捌きながら、”穢れなき赤”は突き進む。
男は、路地裏を焼き尽くさんばかりの殺意を意に介さず、ナイフの切っ先へ意識を向けていた。そうするだけで、弾丸は男の身体を逸れていく。
刃をあてる必要は無い。飛んでくる場所に、置いておけばいい。
男は、そう教えてくれた師匠のことを思い出していた。
「クソ忌々しいね! あの女王に仕えているというだけでも吐き気がするのに、お前のやり方は無性に腹が立つ!」
「まるで見透かされてるようだろう────────なあ、ばあさん?」
女は目を見開いた。
彼女の年齢は、老人扱いするには若い。傲慢な女王によって家族を奪われた少女時代を、まだ鮮明に覚えている。
そんな”マッチ売り”をいたずらっぽく「ばあさん」と呼んだのは、ただ一人。
「お前…………っ!」
銃声が止む。
女の身体に、ナイフが沈んでいった。
倒れ込む彼女を抱きとめたのは、真っ赤なマントに身を包んだ男だ。流れ出る血が、”穢れなき赤”の衣服を黒く染めていく。フードの下に隠れていたのは、いくらか大人びた少年だった。
女はその顔を覚えていた。初めて銃器を触らせた時の気後れした態度を、手料理を振舞ってやった時の笑顔を、人を殺す時の冷徹な眼差しを、はっきりと覚えていた。
「この、恩知らずの……ガキッ!」
「すまないね、ばあさん。こうするしかなかったんだ」
数年前、”マッチ売り”に捨てられた彼を拾ったのは、”穢れなき赤”に所属していた師匠であった。少年はそこでナイフ捌きを学び、諜報員としての教育を受け。
そして、女王の恐るべき野心を知った。
「安心してほしい。あんたの尊厳は、俺が守る。」
少年、今や青年となった彼も、女のことを忘れた日は無かった。スラムの厄介者を温めてくれたのは、紛れもなく、一本のマッチだったのだ。
彼は女王に忠誠を誓ってはいない。己を穢れなきなどと自称するつもりもない。厄介者と厭わず育てててくれた”マッチ売り”と、命を救ってくれた”穢れなき赤”の師匠に、恩を返すためだけにここにいる。
彼に、選択肢は無かった。
女の吐息が漏れ出た後に、焚火の爆ぜる音より小さな慟哭が、短く、路地を流れていった。
「……殺したのか」
夜の路地裏に灯された、最後のマッチが消えた後、闇の中から出てきた同僚が、男に尋ねた。
「撃ってきたなら、やり返す他ないでしょう?」
「陛下はお怒りになるぞ。”オルキュロス”の血筋はこの者で最後なのだから」
都市の片隅で二つの赤いマントが相対する。
男は肩を竦めて、それから、自分の衣服よりも赤い空を見上げた。
「なに、滅びるんならそれまでの話。陛下の千年王国は、最初から馬鹿げた夢だったんですよ」




