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第六話 助手と教授

 キーボードを叩く音が、部屋の中に響き渡っている。

 いつもより二倍は速いタイピングによって紡がれるメッセージが、文字バーからコミュニティページの中へ吸い込まれていく。画面の騒々しさに反して、研究室はひどく静かであった。


「教授……」


 背後からおずおずと声を掛けたのは、パソコンの前に座る老人の助手、フルカサだ。

「うん」短い返事に、感情は宿っていない。小柄なアツミ教授は、昨日からずっと、メッセージのやり取りに心血を注いでいる。


「少し休まれたほうが……」


「コーヒーお願い。砂糖多めで」


 一時間前も、同じやり取りをした。

 その一時間前も、さらに一時間前も。老人は決まって砂糖山盛りのコーヒーを一杯だけ所望し、フルカサはそれを用意した。


「ここに置いてあります……」


「あれ、気が利くね」


「まあ、四度目なので……」


 くしゃくしゃになった紙コップが、足元のゴミ箱に放り込まれる。熱々の液体を、今の短時間でどうやって飲み干したのかと、助手は目を丸くした。

 教授の肩越しに覗いてみると、外国の言葉で書かれた膨大なメッセージが、濁流のように流れていくのが見える。


「どうにか……なりそうですか?」


「ならないねえ」


 教授はいきなり画面を指さし、「ほら見て」と言う。

 何を見ればいいのか。最初にさされたはずの文言は、とうに上へと消えてしまっていた。


「……今のは?」


「バルベルデの教授さんから。特異交信体らしい男の子がいたんだけど、間違いだったって。やっぱり古い民間伝承をアテにするのは間違いだったかも。だとしたらお手上げだ」


「あそこ、最有力候補じゃありませんでした……?」


「うん。候補者の報告は世界で千件を超えてるけど、どれも外れ。遺伝子経路の追跡がダメとなると、演算も基礎レベルから組み直してもらうしか……あっ」


「どうか神のご加護を」そのメッセージを最後に、某国の教授がコミュニティページを退会した。文字の濁流は、無情にも顔も知らない誰かの祈りを呑み込んで、なお勢いが加速していく。

 教授は手を合わせ、黙り込んだ。決して長い時間ではなかったが、終わった後に、老人は助手にもう一度コーヒーを求めた。


「僕は彼を笑わないし、怒ったりもしない。終わりを前に、自分の人生や家族に寄り添うのは、とても人間的な行動だから」


「でも……それじゃあ、私たちは何なんですか」


「何って?」


「人生とか家族じゃなくて、終わりそのものに向き合ってるじゃないですか。こんなことに意味があるんでしょうか……」


「今のところ、ないね」と言って、教授は再びパソコンの前に身を乗り出した。

 フルカサには恋人がいる。同じゼミの子だ。単位をやるという誘いに後先考えず乗っかって、こんな場所に来ていなければ、今頃彼女と過ごしていただろう。もしくは電車が動いていた数日前に実家へ帰り、両親と最後の瞬間を過ごしていたかもしれない。

 若い大学生は、自分のアホさを呪った。


「でも、それは諦める理由にはならないよ」


「そうなんですか?」


「フルカサくん、ケータイ持ってる?」


 フルカサがスマートフォンを取り出すと、アツミ教授は「動画サイト。名前何だっけ、ゆう……まあいいや。とにかく開いて。なんか配信してるみたい」と催促した。

 調べてみると、確かにとあるチャンネルが話題になっていた。聞いたこともない配信者だったが、世界の終わりを実況するという特異性と、それを共有している連帯感が、人々を惹きつけているようだった。


「ナコトチャンネル……元ネタはロマールの伝説でしょうか」


「よく知ってるね、と言いたいところだけど、どうだろう。若い子たちみたいだから、オカルトで聞きかじった固有名詞を引っ張ってきただけかもしれない」


 忙しい教授に代わって、フルカサは配信を見る。少女がやたら赤い空について触れていた。彼女のコメントは驚くほど薄味だが、見に来た人はそれなりに楽しんでいるようだった。


「彼らはどうして配信をしようと思ったんだろうね」


「さあ……?」


 会話の間も、キーボードの上を滑る指は止まらない。

 今や研究室に流れる音は、パソコンが繋ぐ声なきコミュニケーションのほかに、ナコトチャンネルの元気一杯な実況が加わっていた。


「僕は、後悔したくない」


 背中を丸めた教授は、ぽつりとつぶやく。


「妻が待ってる。今朝、僕が仕事に行くと言っら、彼女はいってらっしゃいと見送ってくれた。世界中が無駄だと笑っても、彼女だけは、僕を信じて待っている」


「……良い人ですね


「だろう。もしここで、何もかも諦めて帰ってしまったら、僕は惨めな敗北者として、しぼんだ花みたいな顔で家に帰る羽目になる。そんな格好悪い姿、見せられないよ」


 ゼミの中で、老人がこのような子供っぽい意地を見せたことはなかった。彼はいつも単調なリズムで喋り、騒がしい生徒を静かに嗜めるように振舞っていた。

 だからフルカサは、その姿を少しだけ意外に思った。

 赤い空を背景に、少女が誹謗中傷や開示請求といった言葉を口走っている。ちょっと目を離した隙に何があったんだろうと気になったが、教授も聞いているであろう手前、勝手に流れを再確認するのは憚られた。


「なんか、一生懸命ですね」


「もしかすると、みんな同じなのかもね。世界の終わりに抗う僕らとか、インフラを維持してくれてる誰かさんとか、配信をやってる彼らとか。後悔したくないから、そこにいるんじゃないかな」


 タイピングの音が止まる。

 フルカサがスマートフォンから目を離すと、さらに背を丸めて縮こまっている老教授が見えた。「どうしたんですか」という問いかけに、アツミは「誹謗中傷だ」と答えた。


「フルカサくん、コメントしてもらえる? もしかしたら、特異交信体が見てるかも」

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