第五話 魔術師と魔王
「ようやくここまで来た……」
「お待ちなさい。すみません、バフをお願いできますか」
「任せて────────攻勢強化。これでバッチリ」
「おっサンキュ!」
魔族たちが居付く古城。統率者である魔王が待つ大広間の扉を前に、若者たちが集っていた。
勇者が笑いかけると、魔術師はとんがり帽子を目部下に被り、そっぽを向く。
「あ、当たり前のことをしただけよ。礼はいらない」少女の長い言い訳に、少年は「プロ意識すげー」と感心するばかりで、発言の真意を汲み取ることはしなかった。
「まあ……その、ドンマイです」
「……もうっ!」
やり場のない憤りを態度で示そうと、帽子をつばを上げた時には、扉を押し開ける勇者の背中が見えていた。
そのマイペースぶりに、腹が立たないと言えば嘘になる。けれど、そんな彼だからこそ、という思いもまた本心だった。
仕方がないと、魔術師は自分に言い聞かせた。旅の終わりまであと少し。勇者との関係や、将来のことは、魔王を倒してから考えればいい。
そして少女は、いつものように少年の背中を追いかけた。
「ちょっと! 待ちなさ────」
大広間に踏み込んだ瞬間、少女の背中に、冷たいものが走る。
北の海に飛び込んだような、底の見えない冷たい絶望。これが魔王の力なのかと、身体の小さな魔術師は、生唾を呑み込んだ。
「まさかここまで来るとはな」
「今日こそ決着をつけてやる!」
円卓の向こう側、ひと際大きな玉座に座っていた怪物が立ち上がり、手をかざす。辛うじて人の姿をしているが、醜く歪んだツノが、それの人ならざるを表わしていた。
節くれだった指先から放たれる光が、瞬きする間もなく、円卓を砕く。
破片が舞い散る瞬間、奇妙なことに魔術師は、魔王と視線が交わったような気がした。
「無詠唱……気を付けて、今までの連中とはレベルが違うわ!」
「ほう……貴様、感じ取ったか」
叫び声に呼応するように、大盾を構えた聖騎士が前に出る。聖印を受けたそれは、あらゆる魔術を弾く力を持つ。魔族の爪から勇者を守り、幹部の火炎魔術を押し込め、裏切り者の祈祷師が発した呪いを拒絶した。
彼はパーティーの守り手であり、戦場で幾度も仲間の命を救ってきた。
「二人とも下がりなさい! まず相手の────────」
それは刹那の出来事だった。
放たれた光が、彼の大盾を貫いた。鎧を砕き、胴体を突き抜けた。噴き出した血飛沫が大広間の床を赤く濡らし、聖騎士は、うめき声をあげながら倒れ込む。
聖印が無効化されている。あまりの衝撃で、その事実に行き着くまで、勇者たちは多くの時間を消費した。
「弱い」
影。
二人を覆い隠す闇。
目の前に現れた魔王が、脆弱な人間を見下ろしていた。捻じれたツノの下で、虚無を孕んだ黒の瞳が、殺意すらなく、冷徹に捉えて離さない。
「逃げっ……!」
「遅い」
勇者が腕を振り上げる暇もなく、大きな手の平が、彼の顔面を包み込んだ。言葉もなくもがく少年の身体がゆっくりと浮かぶ。
「や、やめ……」恐怖で固まる魔術師の、絞り出すような懇願は、頭蓋骨の砕かれる音でかき消された。
ドサリ。力なく倒れる勇者の身体は永遠に沈黙した。あまりに凄惨な光景に、年端もいかない少女は、言葉を失った。
「……さて。おい、魔術師」
魔王の、節くれだった太い腕が歪む。獣のそれを思わせる鋭い爪は消え、中から細腕が現れる。尋常ならざる業を前に、人間はなす術を持たない。
少女は、少年の遺体に寄り添いたかった。彼が死に際に感じた痛みを、彼を失った悲しみを、どうにか埋め合わせたかった。
けれど、怪物の虚無を湛えた眼差しが、それを許さなかった。
「貴様────────”オルキュロスの巫女”の素質があるな?」
少女は応えない。応える勇気も、気力も、とうに失われていた。
それに、魔王が口にした”オルキュロスの巫女”が何であるのか、さっぱり分からなかった。
「探していたぞ、滅びの鍵。呪いの姫が繋いだ、終わりを終わらせる生命よ」
「……ど、どうして」
「なんだ?」
「どうして、こ、こ、殺さないんですか。わ、わた、私は、もう、てい、抵抗し、しません。なので、あの、殺して、殺してください」
幼い頃から、魔術の研鑽を積んできた。彼女は高貴な家の生まれであり、魔王が現れた時、自身の血に宿る責任を果たすために努力した。
父も、母も、誰もがそれを当然と思った。誰もがそれを褒めなかった。勇者だけが、彼女の努力を認め、彼女の足跡と苦労を見てくれた。
だから、彼女は報いようと思って、けれど、全て無意味となった。
「なぜ生きようとしない」
「わ、私の戦いは、もう、終わったので……」
十秒にも満たない戦闘の中で、魔術師は何もできなかった。聖騎士の信仰が打ち砕かれるのを、勇者の頭が握りつぶされるのを、黙して眺めることしかできなかった。相手がその気になれば、きっと杖を掲げる暇もなく終わる。実力差は歴然だった。
それに、少年の死は、少女が抱えていた自信と尊厳を徹頭徹尾、破壊した。彼女が覚悟していた以上に、それは大きな衝撃となって、少女の心を殺してしまった。
「……ふん。やはり今の人類は脆弱だな。滅びを前に立ち上がる気概もない。終わりは必然か……」
「お願いです、ころ、殺してください……」
「案ずるな。我が手を下さずとも、じき貴様は死ぬ」
「それは、どういう……?」
心臓が、大きく跳ねる。
冷たい海に放り込まれるような、肌を刺す痛みと苦しみで、少女は咳き込んだ。
「これは……」
「かつて、この城の地下深くには、大いなる呪いが眠っていた」
「オルキュロス」と少女が呟くと、魔王が頷く。
「世界は滅びる。人類は滅びる。お前たちが弱いから、人類は何度でも滅びるのだ。そのことを悔いながら死に絶えるといい」
少女の感覚が失われていく。視界は闇に包まれて、音という音が遠ざかっていく。感情さえも置き去りにされて、どこまでも続く黒の中に落ちていく。手を伸ばせども届かない。何をしても辿り着けない。這い寄る孤独が個を食い潰していく。
やがて、失われし永遠が現れた。




