第二話 騎士と姫
風が吹いている。
残らず破られたガラスが大理石の床に散らばり、引きちぎられたカーテンが、横たわる死体を覆い隠している。入り込む粉雪が、黒ずんだ血だまりの中に落ちて、消えた。
今や王城は、クェルキア谷のリチャード邸よりも凄惨な廃墟と化していた。
「姫様、姫様、起きておられますか」
大ホールの奥。かつて欲深な貴族たちが使っていた円卓は破壊され、二つの影が、その中央を占拠している。
騎士の膝に頭を預けていた麗人は、呼びかけを受けてゆっくり瞼を開いた。
「あら、ブタじゃないの。まだ死んでいなかったのね」
「そう焦らずとも、もうじき全て終わります」
「”オルキュロスの目”はどうなってるのかしら?」
「姫様が目覚めさせてから、変わらず鎮座しております」
王国最後の王族である姫は、上体を起こそうとして、力が入らないことに気が付いた。穴を空けてしまった代償は、常人の身には重すぎる。
顔をしかめ、なおも諦めない姫を、騎士が静かに制した。
「止めないで。わたくしはこの目で見届けたいの。父の、母の、兄の、腐った貴族共の骸をひとつ残らず見届けて、唾を吐きかけてやりたいの」
騎士は首を横に振る。兜によって表情こそ伺えないが、いつもの仏頂面があるのだろうということは、姫をして容易く想像できた。
彼は冗談を言わないし、乗らない。その実直さに何度イラつかせられたか分からない。
「心配せずとも、俺が吐いておきました。手間は掛けさせません」
「あら、そう……ブタにしては仕事が早いのね」
「逆賊共の末路、仔細を報告いたしましょうか」
「……父の分だけ、お願い」
姫の父である国王は、とかく心の小さな男であった。態度の裏側に悪意を見出し、言葉の隙間に翻意を繕うことを常としていた。疑心こそが王の真理であり、本質であった。
そして彼は、そうした性分を隠すのが得意な男であった。
だから姫は、彼を王として、父として慕ったのだ。
「逆賊は俺に命乞いをしました。自分と妻を助けてほしいと。積み上げられた騎士たちの骸を前にして、あの者は糞尿を漏らしておりました」
「ああ、ついに家畜以下の生物に堕したのね。いい気味だわ」
「刃を突き立てられる間際、せめて、あなたを殺すようにと懇願しました。世界を滅ぼす呪いを、後世に残してはならないと」
「……そう」
父はある時、姫を幽閉した。彼は娘を呪いと罵り、人々から、陽光から、世界のあらゆるものから隔離した。そして「生まれるべきではなかった」と言ってのけた。
鉄格子の向こう側から見下ろす瞳によって、姫はようやく、父の中に愛情が存在していなかったのを悟った。
「あなたも、わたくしのことを……」
「なので殊更時間をかけて、苦しみを与えました。最期に心臓を貫かれるまで、あの者の意識は、ただの一度も失われませんでした」
姫は、兜の隙間から男の眼差しを見つめようとして、やめた。
幽閉されてから、他者の心情を慮るのをやめた。他者の思いを推し量ることをやめた。彼女は、他者という存在を意識外へ追い出し、ひたすら復讐の道を突き進んだ。
そうしなければ、目の前にいる忠臣の心を汲み取ってしまえば、決心が鈍ってしまう気がした。
「……ブタ、手を握りなさい」
「よろしいのですか」
「許可すると言っているの。平民上がりは一生かけても与えられない栄誉よ」
「……失礼いたします」
彼女の生命力は、その多くがオルキュロスの目に奪われ、まるで降りしきる雪の中に独りでいるような感覚であった。痛みさえも感じる吹雪の中で、ふと、指先にぬくもりが伝わる。
姫はふう、と息を漏らした。
「────────離さないで。世界が終わるその瞬間まで、わたくしの傍にいて」
「それは命令でしょうか」
はるか彼方から、地を震わせる音が聞こえた。
滅亡を報せる終末の声。忌まわしき”目”が、全てを等しく滅ぼすために目覚めようとしている。
今や、王国でただ一人の王族となった姫は、騎士にどんな命令でも下せる立場にあった。彼女が死ねと言えば彼は自らの喉にナイフを突き刺し、傍にいろと言えば、静かに付き従うだろう。
だから彼女は、ぬくもりを握りながら言った。
「いいえ、お願いよ」
何の拘束力もない、単なる懇願。
騎士は「お願い」と呟いた。何度か言葉を繰り返して、やがて何も言わなくなった。
「ブタには難しかったかしら……」
姫は笑ってみせた。
笑って、沈黙を塗りつぶそうとした。それが彼女に出来る精一杯の抵抗だった。呪いと恐れられ、蔑まれ、遠ざけられた人間にとって、沈黙はあまりにも恐ろしい存在だ。
ふと、頭を預けていた膝の感触が消える。呪われた姫は咄嗟に「ああ、やっぱり、お願いなんてするものじゃなかった」と思った。
小娘の懇願に、人心を捕らえるほどの力はないのだと。
「失礼します」
ふいにやってきた柔らかい感触に、姫は反応できなかった。
それは誰も触れたことのない、彼女の唇であった。
「はっ……なぁっ! こ、このブタ、いったい何を……」
「申し訳ありません。姫様があまりに愛おしくて、つい」
「ついじゃないわよ! どうして……」
今さら。
今さらこんなことをしても、滅びは止まらない。
騎士は「姫様」と声を掛け、彼女を優しく抱きしめた。
「愛する無礼をお許しください。故郷を失い、死を待つばかりだった俺にとって、貴女こそが無二の光なのです」
「……本当に、まったく、信じられない無礼だわ。立場を弁えないブタには、罰が必要ね」
「なんなりと」
「じゃあ────────────」
二人は、明日の朝食について話した。
明後日の予定を確認し、一週間後の天気について話し、一か月後に泊まる宿を決めた。これから数年後の未来について言葉を交わし、最後にもう一度だけ唇を重ねた。
それから。
それから、世界は滅びた。




