第十話 ヘビ人間と少年
「ねーキルマー」
「どうしたの」
「ティッシュ取って。ジュースこぼしちゃった」
「いいよ」
差し出されたティッシュ箱に、細長い尻尾が絡みつく。
シーツを濡らしていないかと指先で確認してから、ヨルミは胸元の染みに触れた。
「うー、べたつくかな」
「新しい肌着、持ってこようか?」
「着替えてるとこ見たいの? えっちだねー」
「僕の性的嗜好は至ってノーマルだから、安心してよ」
「…………ふうん」
窓から差し込む夕日の光がヨルミの横顔を照らす。
彼女は目立たない程度に口を尖らせ、部屋の隅にある勉強机と向き合っている少年を一瞥した。こんな日だというのに、彼の視線は、いつもと同じように教科書とノートの間を行ったり来たりしている。近辺は綺麗に整頓され、足元にあるゴミ箱さえ、からっぽにしてあった。
ヨルミは、液体の染み込んだティッシュをくしゃくしゃに丸めて放り投げる。それは綺麗な弧を描き、ゴミ箱の中へ沈んでいった。
「ナイスシュート」
「へへーん。まだまだいけるっしょ」
シングルベットが小さく軋む。狭い部屋の中を、長い影がゆらりと横切る。
ペンを握る少年の耳元で、細長い舌が艶めかしく震えた。
「今勉強中だから、邪魔しないでほしいんだけど」
「いーじゃん。ちょっとしたマッサージですよー」
「それならティッシュも自分で取ってほしかったな」
「へへ。それはそれ、これはこれ」
細長い指が伸びる。ヨルミは手の甲を埋め尽くす鱗で少年の頬をくすぐった。
この手のイタズラは、今や彼女らの間で日常茶飯事だった。近所の公園で出会い、家に転がり込んできたヨルミは、以来、キルマーの前では気ままな同居人としての振る舞いを続けている。
「なんでもいいけど、尻尾はやめてね。あれ結構苦しいから」
肩口を彷徨っていた尻尾の動きがピクリと止まる。
変わらずペンを走らせる少年を見下ろし、ため息を吐く。蛇の遺伝子を与えられた人間は「じゃあやーめた」と言って、スルスルとベットへ戻っていった。
ヨルミはベッドの端にある、ツルツルのリモコンを手に取り、部屋の壁に向けて振った。埋め込まれたホログラムディスプレイが起動し、ニュース映像が映し出される。
「たった今、レヴェンフォール第七師団が”大穴”に向けて侵攻を……」
チャンネルが切り替わる。テレビスタジオの中で、パリっとしたスーツを着込んだ自称専門家が、兵士の練度や戦術的妥当性といった言葉を交えながら、今日これからの出来事を論じていた。
ヘビ人間はそれを鼻で嗤い、何度もチャンネルを切り替える。
国家の存亡をかけた大攻勢。
最強の軍隊。
人類は”大穴”に勝利する。滅亡に、死に、抗い続ける。
「────あーぁ。つまんない。ねえ、なんか面白い話してよ」
吐き出したくなる気持ちをこらえながら、ヘビ人間は言う。くだらない妄言で汚れてしまった耳を、少年の声で、言葉で洗い流してほしくて、ヨルミはホログラムディスプレイを消した。
スナック菓子を漁ろうとして、自分の腕が視界に入る。夕日が照らし出すそれは、おおよそ人間のものとはかけ離れている。
無意識に、口から舌打ちが零れていた。
「……紙ってさ、あんまり使ってる人いないんだよね」
「だろーね。キルマー以外で見たことない」
「昔はさ、情報の伝達手段として、紙は必需品だったんだ。和紙とか、羊皮紙とか、種類も色々あってさ。けど、通信技術の発展とかで、どんどん役割が無くなって、今じゃすっかり見かけなくなっちゃった」
「なんて言うんだっけ。ショギョームジョー? ってやつだ」
ペンの先で、ノートの表面がガリガリと削れていく。
紙が、現代において珍しい品だというなら、そんなふうに扱ってしまうのは勿体ないだろうと考えながら、ヨルミは自分の腕をさする。
「そういう、古い技術を失われないようにしたいって人たちがいて、僕はその人たちから紙を買ってる。好意で、格安にしてもらったうえでね」
「なんでキルマーは紙にこだわるの?」
滅びゆく技術、滅びに抗う人々。
ヨルミの中で、人類と紙の命運が、どこか重なって見えた。ニュース映像を思い出し、またしても不快な気持ちになる。
過去の記憶が、急速に浮上する。穴の中に潜んでいた”アレ”と、指示を出す暇もなく捻じ切れた上官。指揮系統は崩壊し、戦友は塵芥の中に消え、過酷な訓練の日々は無力感に握りつぶされた。がむしゃらに走り続けた彼女は、気が付けば、見ず知らずの住宅街に辿り着いていた。
ヨルミが所属していたヴィンハルツ特殊作戦隊は、現在も全員が行方不明扱いとなっている。
「だって不便だよ。お金もかかるし、管理も大変。もっと楽な方法があるじゃん」
あの時から彼女は、人類のために戦うことを諦めた。
身体に傷はない。傷を負わせる必要もなく、アレは人間を殺す。偵察という任務は果たせず、戦友たちに手も差し伸べられず、むざむざ逃げることしか出来なかったヘビ人間には、今や何の価値も残されていなかった。
「技術が失われるのは勿体ない! みたいな感じ? でも、時代ってあるじゃん。仕方ないと思うんだよね。やっぱり、無くなっていくものには、相応の理由があるっていうか、なんか、そんな感じ……」
「好きだからだよ」
ヘビ人間は手を止めた。少年が口にした言葉を、理解するだけの時間が必要だった。やっとの思いで「好き?」と復唱すると、キルマーは「うん」と頷いた。
「表面のザラザラした感触とか、ペン先を沈み込ませる時の触感とか、そういうの」
キャスターが床の上を転がる音で、ヨルミは顔を上げる。少年が、彼女の眼前にノートを差し出していた。
身動きできないでいるヨルミの手を、キルマーが掴んだ。尻尾に食い込ませていた爪が抜け、鈍痛が引いていく。彼女はザラザラした手触りを撫でてから、ぎこちない動きで、ノートを受け取った。
「だから使ってるんだ」
彼は、失われゆく技術の保存とか、そういう大きな視点の話には興味が無くて、ただ好きだから使っているのだと言った。
「よ、よく分かんないよ」
「ほら、もっとよく触って」
キルマーの手が、ヨルミの腕に絡みつく。細い外見に似合わない、ごつごつした手の平にドキリとさせられた。
確かな実態がそこにある。話で聞いていたそのままの情報を体感する。
「ヨルミのことも好きだよ」
「…………えっ!?」
少年の指が離れる。彼はヨルミに向き合ったまま、数歩下がって、椅子に腰かけた。ヘビ人間の背後から差し込む夕日が、キルマーの顔を赤く照らしている。
「鱗。ほら、時々マッサージしてくれるじゃん。ぶっちゃけ下手だけど、鱗の感触は好き」
ヨルミの唇がわずかに開く。
公園で出会ったあの日から、少年がこのように率直な言葉を述べたことはなかった。彼は決して彼女を拒まなかったが、受け入れてくれたようにも見えなかった。
だからヨルミは、自分がいつ見捨てられてもおかしくないと思っていた。逃亡兵など、厄介事のタネでしかないからだ。
「……話が逸れた。とにかく、だから僕は紙を使うんだよ」
ああ、そうだったと、ヘビ人間は思い出した。
頼もしい上官のことが、戦友たちのことが、彼女は好きだった。仲間のためならどんな死地へも赴けると信じて疑わなかった。それらを失った時、彼女の中に、戦う意味は残されていなかった。
「キルマーって、感触フェチなの?」
「え? うーん……言われてみると、そうかも」
「全然ノーマルじゃないじゃん」
「性的嗜好の話じゃないから」と少年が笑う。
年相応の無邪気さを思わせる微笑みに、ヨルミは、言葉を失う。
「………………あー、駄目だなあ。キルマー、そんなふうに、女の子に向かって笑っちゃだめ。だって」
好きになってしまう。その言葉を呑み込んだ。
一緒にいたいと思ってしまう。その思いを呑み込んだ。
ヨルミは、自覚してしまった少年への好意を胸に秘めながら、やっとの思いで立ち上がった。
「だって、ヘビ人間は好みじゃないんでしょ?」
キルマーが返事する前に、彼女は腕を突き出した。
「ちょっと用事が出来たから、行くね」
「戻ってくる?」
「もちろん。この部屋でダラダラするの好きだし」
ヨルミは自分の腕を見て、少年が触れた箇所を撫でる。ザラザラとした鱗の感触が、指先に伝わった。
「じゃあ、行ってくる」
「…………ん。行ってらっしゃい」
外へ出ると、ヨルミは大きく息を吸い込んだ。手首に巻き付けられた腕輪に触れると、ノイズ混じりの挨拶が流れてくる。
「────────こちらヴィンハルツ特殊部隊所属、ヨルムンガンド」
神を喰らう蛇。彼女に与えられた極秘のコードネームは、古の神話に由来する。ヴィンハルツ特殊部隊に所属する隊員は、皆一様に神殺しの伝説を名乗った。
それは、部隊が命じられた任務と密接に関係していた。
「作戦司令部に伝達。これより、ラグナロク作戦に復帰する」




