2話
「――着きましたよ」
がらがらと音を立てていた車輪が止まり、御者のぶっきらぼうな声が、馬車の窓から差し込む光と共に、アルスの意識を現実へと引き戻した。
長い時間、揺られてきた旅路の終わり。
「ありがとうございます…」
アルスは、小さな会釈と共に御者に礼を言うと、なけなしの金から運賃を支払い、馬車を降りた。
目の前に広がるのは、生まれ育ったトカット村とは、何もかもが違う世界。
天を衝くようにそびえる巨大な城壁、ひっきりなしに行き交う人々の波、そして、活気に満ちた喧騒。ここが、王都。
アルスは、新しい景色を、呆然と見上げる。
すると、脳裏に、村での出来事が、走馬灯のように駆け巡った。
(…本当は、あの村で、先生やみんなと一緒に、ずっと暮らしていたかったな…)
もし、僕があの時、グレンの挑発に乗らなければ。
もし、僕の中に、あの「もう一人」がいなければ。
そうすれば、今、この場に、こんな孤独な気持ちで、一人で立っていることなんて、なかったはずなのに。
たらればを繰り返す思考が、アルスの胸を締め付ける。
(だめだ、このままじゃ…折角、僕を信じて送り出してくれた先生に、申し訳ない…)
アルスは、ぶんぶんと頭を振って、感傷を振り払う。
そして、これから始まる新しい生活に向けて、決意を固めた。
とりあえず、推薦状を書いてもらった、魔術学院を探すことにしたアルス。
しかし、街中を見渡しても、それらしき建物は、どこにも見つからない。
村の中なら、教会や広場といった大きな建物は、どこからでも見えたのに。この街は、あまりにも広すぎるのだ。
(街の人に、聞いてみよう)
そう思い、アルスは、道端で果物や干し肉を並べる、威勢のいい露天商に声をかけた。
「す、すいません。少し、道を聞いてもいいですか?」
「…すまねぇな、坊主。客じゃねぇなら、今は手が空いてねぇんだ」
そう言って、露天商は、山積みのリンゴを磨く作業に戻ってしまった。あっさりと突き返されてしまうアルス。
(このままじゃ、入学試験の時間に、間に合わないかもしれない…!)
焦りが、じわじわと胸の奥から込み上げてくる。
アルスは、もう一度、今度は先ほどよりも大きな声で、露天商に食い下がった。
「す、すいません!お願いです!せめて、どこに何があるかを示すような、地図みたいなものはありませんか!?」
必死の形相のアルスに、露天商は、やれやれといった表情で、磨いていたリンゴを置いた。
「…あそこの、広場の噴水が見えるか?あそこにある、でかい看板に、この区画の主な施設の場所が、凡そ書いてあるはずだよ」
「本当ですか!?ありがとうございますっ!」
アルスは、救いの神に出会ったかのように、露天商に深々と頭を下げると、教えられた噴水を目指して、人混みをかき分けながら、必死に駆け出した。
アルスは、人混みをかき分け、ようやくたどり着いた広場の中心で、巨大な案内看板を見上げていた。
そこには、びっしりと、おびただしい数の施設名と地図が描かれている。
「困った…そもそも、今自分がどこにいるのかも、よく分からない…」
村の案内板なら、せいぜい五つか六つの場所しか書かれていなかった。それに比べて、この王都の複雑さは、まるで迷宮だ。地図を見ても、現在地が分からなければ、目的地への道筋も立てられない。
どうしようかと、途方に暮れて俯いていた、その時だった。
頭上から、澄んだ、優しい声が降ってきた。
「…迷子かい?」
僕は、ハッとして振り返った。
「す、すいません!魔術学院という場所を探していて!」
そう言って顔を上げた僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
そこに立っていたのは、陽光を浴びてキラキラと輝く金の髪、そして、吸い込まれそうなほど澄んだ碧眼を持つ、一人の青年だった。
まるで、幼い頃に先生に読んでもらった、絵本の中から抜け出してきたかのような、気高い姿。
青年は、そんな僕の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
「奇遇だね。私も、ちょうどそこに行くところだったんだ。良かったら、一緒に行かないかい?」
僕は、彼の姿を、ただ、ぼーっと見つめていた。
この、ごちゃごちゃとした、埃っぽい王都の広場で、彼がいる場所だけが、まるで違う世界の光景のように、輝いて見えた。
「どうしたんだい?私の顔に、何か付いているかな?」
青年が、不思議そうに首を傾げる。その仕草すら、絵になる。
はっと我に返った僕は、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「すっ!すいません!あまりにも、その…昔読んだ絵本の中の騎士様が、そのまま出てきたようなお姿に見えてっ!」
青年は、僕の言葉に少し驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに、はにかむように微笑んだ。
「そう…それは、光栄だな…。では、行こうか」
青年は、すっと、僕の前に手を差し伸べてきた。
「私はフレデリック。君は?」
「僕は、アルスです!よろしくお願いします!」
「フフッ…よろしく、アルス。さあ、行こうか」
僕は、フレデリックにその手を引かれて、人混みの中を歩き出した。
差し伸べられた彼の手は、温かかった。
村で孤立してから、ずっと一人だった。
同年代の子に、こんな風に、何の偏見もなく、優しくしてもらえたのは、本当に、久しぶりのことだった…。
嬉しくて、少しだけ、泣きそうになった。
魔術学院に向かう途中、僕は、隣を歩く彼の横顔を、盗み見ていた。
喧騒に満ちた王都の雑踏の中を、彼は、まるでそこだけ空気が違うかのように、凛として歩いている。
「その…フレデリックさんは、魔術学院にどのような御用で?」
「入学したくてね。…あと、私のことは呼び捨てで構わないよ。私も、アルスのことはアルスと呼び捨てにするから」
「わ、わかりました!」
フレデリックは、僕の緊張した返事に、くすりと笑うと、不意に立ち止まって、僕の唇にそっと人差し指をあててきた。
「敬語も、禁止」
「…は、はい」
「フフッ…返事は、まぁ及第点かな」
悪戯っぽく笑うフレデリック。その距離の近さと、整いすぎた顔立ちに、心臓が大きく跳ねた。
僕は、ただ、絵になるなぁ…と、その光景に見惚れていた。
「その…フレデリックは、なぜ学院への入学を?」
「…子供の頃からの夢なんだが、笑わずに聞いてほしいんだ………私は、将来、騎士になりたくてね。そのための力が欲しくて、この学院に入学したいんだ」
フレデリックは、少し照れたように、はにかみながら答えた。
その姿は、僕が幼い頃に夢見た、理想の騎士の姿そのものだった。
「なれま…なれるよ、絶対に。フレデデリックなら」
「ありがとう。アルスこそ、どうして入学を希望してるんだい?」
どうして、入学を目指すのか?
僕は、その問いに、すぐに答えられなかった。
明確な夢や希望があったわけじゃない。ただ、そうするしかなかった。
なぜなら…
「…村に、僕の居場所が、なかったんだ…」
降りかかってきた火の粉を、僕はただ、必死で振り払っただけだった。
グレンが諦めるまで、何度も叩き伏せたから?
乱暴者と、村中の人から言われたから?
もう、どうでもよかった。今更、誰かに説明する気にもなれなかった。
ただ、そこには、僕の居場所がなかった。そうとしか、答えようがなかった。
フレデリックは、そんな僕の顔を、寂しげに、痛ましげに見つめた。
「…そうだったのか…。悪いことを、聞いてしまったね」
「い、いや、別に大丈夫だよ。それに、こんな都会に来られたことは、孤児院の先生に感謝しなくちゃいけないし…」
フレデリックの眉間に、わずかに皺が寄るのが見えた。
「…アルス…君…親が…」
「よくある話だよ。食い扶持に困って、赤ん坊の我が子を捨てるなんてさ。特に、田舎の方だとね…」
僕は、事実だけを、感情を乗せずに、淡々と述べた。
そう、この残酷な世界では、別に不思議なことでも何でもないんだ。
孤児院の弟たちだって、みんな、似たような境遇の子ばかりだったから。
「…アルス。学院に入学して、もし、何か困ったことがあれば、いつでも私を頼ってくれ」
「そんな、まだ入学できるかどうかも、分からないのに…」
「出来るさ。…君なら、必ず」
フレデリックは、僕の言葉を遮るように、力強く、そして、どこまでも優しく、そう言ってくれた。
何の根拠もないはずなのに、彼の言葉は、不思議な説得力を持って、僕の心に、温かく染み込んでいった。
僕たちは、その後、言葉少なに行人たちの波をかき分け、ついに目的の場所へとたどり着いた。
目の前には、天を衝くほどの巨大な時計塔を持つ、壮麗な学び舎がそびえ立っている。ここが、魔術学院。僕の新しい人生が、ここから始まる。
入学試験の会場につくと、フレデリックは、残念そうに眉を下げた。
「…私は、別の会場なんだ…アルス。君の健闘を、心から祈っているよ」
「ありがとう…。フレデリックも…。あ、あのさ…もし、僕が入学できたら…その…」
フレデリックは、不思議そうに小首を傾げた。
「なんだい?言ってごらんよ」
その、どこまでも優しい声に、僕は、勇気を振り絞った。
「と、と、とと、友達に、なってくれるかい…?」
言ってしまってから、心臓が、破裂しそうなくらいに鳴り響く。
こんなことを、誰かに自分の口から言うのは、生まれて初めてだった。
ましてや、今日会ったばかりの人に、言うなんて…。
(引かれてしまったかもしれない…。気味悪がられたかもしれない…)
不安に苛まれながら、僕は、恐る恐るフレデリックの顔を見た。
フレデリックは、一瞬、きょとんとした顔で僕を見ていたが、やて、その表情が、春の陽だまりのように、ふわりと綻んだ。
「…私でよければ、喜んで」
フレデリックは、そう言って、もう一度、僕に手を差し伸べてきた。
僕は、その手を、今度は、迷わずに、強く、強く握った。
「ありがとう…!」
別の会場へと向かう、フレデリックの、騎士のように凛とした背中を見送りながら、僕は、一人、静かに決意を固めていた。
ここを…この魔術学院を、僕の、新しい「居場所」にするんだ、と。
先生と、そして、今日できた、たった一人の友達のために。
(第2話 完)




