国境の森で
ディオリアが森の奥、木々に囲まれた小さな開けた場所へと、静かに舞い降りたその瞬間。
大地に触れた衝撃よりも早く、ティリアの全身が、ぴくりと震えた。
(――これは……)
風に混じって届く、懐かしく、決して間違えようのない気配。
幼い頃から幾度となく背を追い、そして守られてきた――兄の匂い。
(……兄様……近い……!)
そう思った刹那、茂みが大きく揺れた。
現れたのは、背の高い、精悍な青年だった。
ティリアと同じ漆黒の耳。
同じ金色の瞳。
引き締まった体躯の後ろで揺れる黒い尾が、彼の感情を隠しきれずに語っている。
その瞳が、大きく見開かれた。
「ティリア!!」
呼び声と同時に、ティリアは弾かれたように駆け出していた。
「兄様……っ!」
青年――グレイゼルはその身体を受け止め、力いっぱい抱き締める。
「お前は……! 一体、どれほど心配したと思っている……!」
「ごめんなさい……兄様……」
震える声を胸に押し込めるように、ティリアは顔を埋める。
「帝都に連れて行かれたのだと……半ば、覚悟していた……。
だが……無事で、よかった……本当に……」
やがて、グレイゼルはゆっくりと腕を解くと、一歩下がり、その場に膝をついた。
地に手をつき、深く頭を下げる。
「……お初にお目にかかります。
ゼンウェール自治区族長、グレイゼルと申します。
この度は……我が妹の命を救っていただき、何と感謝を申し上げればよいか……」
その背に、深い礼の重みが宿る。
ティリアが一歩、前へ出た。
「兄様。
こちらの方が、ヴェルデン王国第一王子、レイナルト殿下。
そして、そのご婚約者であられる聖女、カナ様。
こちらは、クラヴィス辺境伯領のご息女、エフィ様。
そして……光龍、ディオリア様です」
そう言うと、ティリアは森で起きたこと、助けられ、迎えられ、ここへ戻るまでの経緯を語った。
胸に手を当て、静かに微笑む。
「カナ様が、私を見つけ、傷を癒してくださいました。
ここへ戻れたのは……すべて、この方々と、隣国の皆様のお陰なのです」
聞き終えたグレイゼルは、長く息を吐き、視線を伏せる。
「……そう、でしたか。
本当に……どれほどお礼を申し上げても、足りぬほどです……」
一瞬の沈黙の後、彼は再び頭を下げた。
「本来であれば、皆様を村へお招きし、歓待すべきところですが……。
帝国の監察官の目を考えれば、それも叶わず……。
誠に、申し訳ありません」
深く頭を下げるグレイゼルの前へ、レイナルトが進み出る。
「……グレイゼル殿」
グレイゼルは、はっと顔を上げる。
「はい、レイナルト殿下。
……どうか、私のことはグレイゼル、と」
「分かった」
レイナルトは小さく頷くと、静かに言葉を続けた。
「では、グレイゼル。
単刀直入に言おう」
彼は腰を落とすと、膝をついたグレイゼルの肩に手を置き、目線を合わせる。
「王国は――君たちの後ろ盾になる、心づもりだ」
一瞬、森の音が遠のいたように感じられた。
グレイゼルの目が、信じられないものを見るように見開かれる。
「レイナルト殿下……っ! そ、それは……」
グレイゼルの瞳が、大きく揺れる。
その背後で、エフィが力強く頷いた。
「グレイゼル様。
私は、王国辺境伯の名代として、ここに参っております。
私の言葉は、そのまま父――辺境伯ギルノードの意思とお受け取りください」
柔らかな微笑の奥に、揺るがぬ決意を宿し、エフィは告げる。
「辺境伯領は――お力添えを、お約束いたします」
グレイゼルは、思わず両手を地に着くと、低く呻いた。
「ああ……。
幾度、夢見たことか……!」
喉から、掠れた声が漏れる。
「俺たちは……自由に、なれるのか……。
あの、帝国の束縛から……!」
金色の瞳に、抑えきれぬ涙が滲む。
「にい、さま……!」
ティリアの目から涙が溢れる。
彼女は震える両手を口に当てた。
レイナルトは立ち上がると、グレイゼルへと手を差し伸べた。
「立て、グレイゼル。
涙はまだ早い。
それは――喜びの日のために、取っておけ」
グレイゼルは顔を上げ、その手を力強く掴んで立ち上がる。
金色の瞳が、決意の光を宿して輝く。
「はい、殿下。
この身、この命――ゼンウェールのために」
レイナルトは頷いた。
「その言葉、我、レイナルト・アルセイン・ヴェルデン、確かに受け取った」
森の静けさの中で、新たな歴史の歯車が、回り始めた。




