ゼンウェール自治領
「ティリアはどこへ行ったぁーっ!!」
ガッシャーン――!
陶器の砕け散る音が、広すぎる屋敷に響き渡った。
控えていた獣人の女性が、震えながら欠片を拾い集める。
ここはゼンウェールの地。
帝国から派遣された常駐監察官――ボルドゥン・ヘルマーの屋敷。
金と宝石をこれでもかと貼り付け、獣人たちの恭順を嘲笑うかのように輝いている。
その装飾が、かえって悪趣味さを際立たせ、周囲の獣人たちの貧しい住まいとはあまりにかけ離れた、品位も教養も欠いた豪奢の塊。
肥え太った代官ボルドゥンは、脂ぎった顔を怒りで顔を真っ赤にしながら、目の前に跪くグレイゼルを睨みつけた。
鼻持ちならぬ傲慢さを、全身から放つ男。
「まさか……逃げたのではあるまいな?」
グレイゼルは頭を垂れ、感情を押し殺す。
「いいえ。そのようなことはございません。
薬草を摘みに出て……恐らく、道に迷ったものと」
「ちっ……役立たずの野蛮な畜生どもが……!
わしの支度が終わらんではないか!! 探せ!! 一刻も早くだ!!」
怒声が響く。
悔しさに、グレイゼルの奥歯が、軋みを上げた。
今すぐこの男の喉笛を噛みちぎりたい――
その衝動が胸を灼く。
だが次の一歩を踏み出せば、村ごと炎に呑まれる未来が見えた。
(……駄目だ。今は、まだ――)
拳を握りしめ、グレイゼルは深く頭を下げた。
「……御前、失礼いたします」
ボルドゥンに背を向ける。
重い扉が閉まった瞬間、張り付けていた表情が崩れた。
ようやく呼吸が戻る。
外の空気は冷たい。
だが、己の内側に沸き立つ熱は、冷えることはなかった。
そのとき、影から狼の獣人がすっと近寄ってきた。
「カザン……」
カザンは、目の奥に獰猛な光を潜ませたまま、口を開く。
「外まで響き渡ってたぜ、あのクソ野郎の声。
……ティリアを探しに行くんだろ?」
「……ああ」
グレイゼルは、既にティリアの痕跡を辿り、森で血と壊れた罠を見つけたこと、その気配が途切れていたことを告げる。
カザンは唸るように呟いた。
「……ってことは、もしかしたら、誰かが助けてくれたのかもしれねぇ、ってわけか?」
「そうだ」
「……あんな場所で?」
「ああ……とても信じがたいが。
……そうであってほしいと願っている」
カザンは苛立ちを隠さず、突然、グレイゼルの胸ぐらを掴むと、荒々しく物陰へと引きずった。
「なあ、おい、グレイゼル!
お前はいつまであのクソ野郎の靴を舐めて生きる気だ!
お前はそんな腑抜けじゃなかったはずだろ!」
睨み合う二つの金の瞳。
グレイゼルは静かにその手を払いのけた。
「……落ち着け、カザン」
「落ち着いてられっかよ!」
牙を剥き出し、唾を飛ばす。
「“仕事”とやらで帝都に連れて行かれた連中……音沙汰なしだ。
おかしいと思わねぇのか……?」
沈黙――。
グレイゼルの瞳の奥が、静かに光を宿す。
「わかっているさ……誰よりも。
お前の焦りも、怒りも――全部だ。
だが、今はまだ……その時ではない」
カザンの拳が震え、沈黙が落ちる。
喉の奥で、呻きにも似た息が漏れた。
「本当は……お前だって、わかっているはずだ。カザン」
拳を固く握ったまま、カザンは舌打ちし、地に唾を吐きつけた。
「くそっ……ああ、わかってるさ!
悔しいが――今の俺たちには何もできねえってことをな」
やり場のない怒りが空気に溶ける。
グレイゼルは、静かに仲間の肩へと手を置いた。
「いつか、必ず『機』は来る。
その時まで……焦るな」
カザンは顔を上げ、牙を覗かせると不敵な笑みを浮かべた。
「フン……そうこなくちゃな。
その時が来たら、俺の遠吠えが合図だ。
俺の遠吠えで、帝国の連中が慌てふためく日が――楽しみで仕方ねぇよ」
冷たい風が、二人の毛並みを揺らす。
いつか必ず、自由を――。
彼らは、静かに牙を研ぎ続ける。




