森での出会い
森の中へと足を踏み入れた瞬間、湿った土と草の匂いが鼻をかすめた。
鳥の声も、風のそよぎも、どこか遠ざかっていくように感じる。
カナは息をのみ、目を凝らす。
黒い影が、そこに倒れ込んでいた。
足を罠に挟まれ、苦しげに息をしている、まだ子どものような幼い獣――。
黒い艶のある毛並み。
長い尻尾。
尖った二つの耳をピンと立て、輝く金色の瞳がカナを睨みつける。
「……グルルル」
獣は牙をむきだし、低く唸った。
今にも飛びかかろうとする気迫があるのに、体は動かない。
エフィが罠へ視線を落とした。
「これは……違法な罠ですね。我が領地では禁止されているものです」
カナは不安げに呟く。
「……では……」
「十中八九、帝国の者が仕掛けた物かと」
その言葉に、カナの背筋に冷たいものが走る。
「帝国……どうして、こんなところに?」
「分かりません」
エフィは険しい表情のまま首を振る。
「……帝国の意図が読めません」
カナはすぐに、ディオリアへ視線を向けた。
「ディオリア、周囲に何か感じる?」
輝く羽を揺らしながら、光龍が静かに答える。
『大丈夫。周りに人の気配はないよ』
カナは少しだけ肩の力を抜いた。
そして再び、金色の瞳と向き合う。
(……これは……黒猫? いや、違う)
艶やかな黒。しなやかな体躯。
――そして、明らかな強さを宿した眼差し。
カナははっとした。
(黒豹だ! 黒豹の……子ども!)
*
カナはごくりと喉を鳴らした。
「黒豹……の子ども……」
唸り声は低いが、恐怖に震えているのが分かる。
罠が骨の近くまで食い込んでいるのだろう。
血が土を黒く濡らしていた。
エフィが静かにカナの隣に立つ。
しかしその視線は、獣を威嚇しないよう、油断なく研ぎ澄まされている。
「カナ様……」
胸が痛む。
助けたい。放っておくなんてできない。
けれど、近づけば噛まれるかもしれない。
カナは一歩前に進み、黒豹の子と視線を合わせた。
「……助けたいの。痛いよね……怖いよね……?」
黒豹の子は耳を伏せ、牙を見せる。
だがその金色の瞳には、わずかに縋るような迷いが宿る。
カナは静かに手を伸ばした。
「大丈夫。私たちは、敵じゃない。痛いの、取ってあげるよ」
ディオリアが、ゆっくりと黒豹へ歩み寄った。
『僕たちは、君を助けに来たんだ』
穏やかな声。
一拍置き、優しく続ける。
『……だから、動かないでね』
その言葉と同時に、ディオリアは足を振り下ろした。
がしゃり――鈍い音を立て、罠の鎖が踏み砕かれる。
黒豹の身体がびくりと震えたが、暴れることはしなかった。
エフィがすぐさま前へ出て、罠を改める。
膝をつき、血と泥にまみれた金属を確かめ――静かに息を呑んだ。
「……これは……」
声が、わずかに沈む。
「相当、暴れたのでしょう……」
指先で位置を確かめながら、続ける。
「両方の後ろ足とも……恐らく骨が砕けています。
仮に外せたとしても……もう……」
言葉の先は、言わずとも明らかだった。
黒豹の金色の瞳が、わずかに細まる。
そこに浮かんだのは、なお消えぬ強い警戒――
そして、それ以上に深い諦め。
――ここまでか。
そう語るような、静かな覚悟。
その様子を見て、カナは一度、きゅっと唇を噛みしめた。
そして、顔を上げる。
「……エフィさん」
凛とした声が森に落ちた。
「外せますか?」
一瞬も目を逸らさず、はっきりと言い切る。
「この子を――助けます」
森の空気が、ぴんと張り詰めた。
エフィは驚いたようにカナを見つめ、その瞳に宿る決意を受け止めると、ふっと微笑んだ。
「……かしこまりました。仰せのままに」
すっと頭を下げると、エフィは腰から短剣を抜き、罠へと視線を落とす。
「少しでも暴れれば……足が無くなるかもしれません。
……どうか、大人しく」
黒豹の子の喉から、低くくぐもった唸りが零れる。
しかし、もう動けないほど衰弱しているのは、誰の目にも明らかだった。
カナはしゃがみ込み、そっと囁く。
「平気だよ。怖くないから……」
その声に応えるように、黒豹は一つ震え――ぎゅっと目を閉じた。
助けを、信じるように。
「今……外します」
エフィが短剣に魔力を込め、罠を押し広げた瞬間――
「ギャン――!!!」
罠が弾ける音と同時に、鋭い悲鳴が森に響き渡る。
そこまで黙ってじっと見ていたディオリアが、息を吐くと囁いた。
『……この子は、ただの獣じゃないよ』
「……え?」
カナは驚いて振り返る。
ディオリアは、黒豹の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめていた。
『ねえ……そうでしょう……?
僕たちの言ってることが分かってるはずだよ』
黒豹は震えながらも、ディオリアを見返す。
その中に宿る光は、明らかな知性が宿っていた。
風が、黒豹の身体をふわりと優しく包み込む。
黒豹はみるみるうちに、黒い耳と長い尻尾を持つ、少女の姿へと変わっていった。
カナとエフィは、愕然と目を見開く。
少女の唇が、かすかに動いた。
「あ、りが……とう……」
それだけをやっと絞り出すと、少女は気を失ったのだった。




