王都前夜
旅は順調に進んでいた。
広々とした街道には、日差しがやわらかく降りそそぎ、
馬車の車輪が小気味よい音を立てて進んでいく。
カナは窓の外を眺めながら、見慣れぬ景色に心を弾ませていた。
途中、小さな街に泊まった日のこと。
宿の軒先には、焼きたてのパイや果実酒の香りが漂っている。
食堂では、旅人たちが肩を並べて食事をしていた。
「ここは焼きリンゴパイが名物らしい。好きか?」
「はい。甘いものは、大好きです」
差し出されたパイは、表面がこんがりと焼かれており、
中から熱々のリンゴとスパイスの香りが漂ってくる。
カナはひとくち齧ると、思わず頬がゆるんだ。
「おいしいです!さくさくしてて……」
「だろう?
旅の途中で、こういうものに出会えると、気持ちが少し軽くなる」
旅を共に続け触れ合う中で、
エリアスはもはやカナのことを「カナ」と呼び、口調も砕けたものになっていた。
食後には、街角の小さな屋台で、薄く蜂蜜の入った果実水を買った。
暑さで火照った頬を冷やしながら、ふたりは日陰のベンチに並んで腰かけた。
やさしい風が通り抜け、カナの髪がふわりと舞った。
*
王都へ向かう旅も、終わりが見えてきた。
最後の宿泊をすることになり、夕暮れのにぎやかな通りを、ふたりで歩いた。
屋台の串焼きや、小さなパン屋の甘い焼き菓子。
エリアスが「せっかくだから」と何種類も買い込んで、カナに半ば無理やり手渡してくる。
「こういうのはな、あれこれ食べ比べるのが楽しいんだ。そうだろ?」
言われるがままに一口かじると、外はぱりっと香ばしく、
中はふわりと甘くて、カナは目を丸くした。
「……おいしい、です」
そんな様子を見て、エリアスは満足げに頷く。
「カナ、君はもっといろいろ食べた方がいい。
学園に入ったら、食事なんて忙しくてゆっくりできないぞ。
今のうちだ」
「そう……なんですか?」
「俺のときはそうだった。だから、こういう時間は貴重なんだ」
広場では音楽が鳴り、行き交う人々の笑い声があたたかく響く。
カナはその喧騒に少し目を細めて、言った。
「ありがとうございます……とっても楽しいです」
ふいに風が吹き、カナの髪がふわりと舞った。
その風に、小さく透明な羽音が混じる。
「……精霊?」
カナがそっと囁くと、空気がわずかに揺れ、風の精霊が彼女の肩に舞い降りた。
エリアスも感じたらしい。
目を見開いたが、もう驚きはしなかった。ただ、静かに頷く。
「君は……やっぱり、すごいんだな」
「……そうでしょうか」
カナが小さく笑う。
夜の帳が静かに降り始めていた。
「明日には王都だ」
エリアスがぽつりと言ったその声が、ふたりの間にそっと響く。
「君は、最初の頃に比べて、ずいぶんしゃべるようになったな。
……いや、悪い意味じゃなくてだな」
「……そうですか?
……ちょっとだけ、慣れてきたのかも」
小さな声ながら、自然に出た言葉だった。
エリアスは少し驚いた顔をしてから、笑った。
「いい兆しだ。
――王都は……まぁ、騒がしいが、面白いぞ。
昼には城門が見えるだろう。
君にとっては、きっと新しい世界だ。
……怖いか?」
エリアスがそう尋ねると、カナは少し間を置いて、小さく首を横に振った。
「……少し、怖いけど……。
でも、楽しみでもあります」
エリアスは満足そうに頷き、立ち上がる。
「ふむ。上等だ。
――さて、そろそろ宿に戻るか」
「……ふふ。はい、そうですね」
その笑みに、エリアスは少し驚いたような顔をしながらも、なにも言わずに隣を歩き出した。
茜の空が夜の帳へと移り変わる中、二人の影が静かに並ぶ。
精霊の森で目覚めたあの日から、まだそれほどの時が流れたわけではない。
けれど、確かに世界は広がりつつあった。
これから訪れる王都で、自分が何を見て、誰と出会い、どんなふうに生きていくのか──。
カナは、そっと胸元のペンダントを指先でなぞった。
明日、旅は新たな章へと進んでいく。