魔法の一手
ついに魔王を倒した。
突然、勇者として異世界に召喚された俺の冒険がいよいよ終局した。
ああ。これでようやく元の世界に帰れる。
ようやく将棋を指すことができる。
古びた魔王城の隙間から見える空を覗き、安堵の息を吐き出した。
すると、俺の足元に魔法陣が現れて淡い白い光が身を包む。
光は天まで届きそうなほど高く昇っていき、俺の体はそれに溶け込むようにゆっくりと透けていった。
――目を開けて広がっていた景色は、ただ真っ白い空間だった。
右を見ても左を見ても、上を見上げてもただ真っ白い空間。
「どういうことだ?」
魔王を倒したら元の世界に帰れるんじゃなかったのか。
というか、恰好も異世界に居た時と同じだし。
所々に返り血がついた鎧と、勇者が使っていたという伝説的な剣。
さすがにこの格好で日本に帰ったら笑い者もいいところだ。
「通過場所みたいなもんなのか?」
辺りを見渡しながらぼんやりと呟く。
その時、後ろから右肩を軽く叩かれる。
急いで後ろを振り向くと、そこには羽衣のような恰好をした子供が立っていた。
水色の短髪と金色の瞳。悪戯っぽく笑った顔は中性的に見えて、いまいち区別がつかない。
そして、俺の顔を見るなり嬉しそうな声を出す。
「やあ、待っていたよ。君のことを」
「はあ?」
妙なことを言われ、俺はため息交じりに言葉を吐き出した。
初対面なのに何言ってるんだこいつ。
「色々聞きたいことがあると思うけど、とりあえずこれを見てもらおうかな」
パチンッという乾いた音を指で鳴らす。
すると、目の前に茶色くて四角い物体が現れる。それは2枚の座布団の丁度真ん中に置かれており、上から見ると縦横9マスの盤面が描かれている。
「将棋盤……?」
「そう。将棋だよ。君はよく知っているだろう?」
「そりゃあ……まあ」
俺は異世界に召喚される前はプロ棋士だった。
幼稚園から将棋を始め、それから約20年俺は将棋のことだけを考えて生きてきた。
仮に記憶が無くなっても、体が覚えていると断言できるほど俺の心根にしみ込んでいる。
「どうして将棋盤を用意したんだ?」
当たり前のことを尋ねてみる。
すると、性別不明の子供は声に出して笑って言った。
「ははは。将棋盤を出してやることは一つじゃないか。将棋を指すんだよ、僕と君でね」
「どうしてそんなことを」
「だって、帰りたいんでしょう? 元の世界に」
「――っ!」
子供が放った一言を耳にした瞬間、全身が騒ぎ出すような感覚を覚えた。
鼓動が一気に高鳴り、心臓が暴走を始める。
そして、生唾を飲み込みながら再び子供に問いかけた。
「帰らせてくれるのか。元の世界に」
「もちろんいいよ。けど、僕に将棋で勝ったらだけどね」
「いいだろう……」
間髪入れず答えた俺は先に将棋盤の方へ行き、大きく深呼吸をしてから座布団の上に座った。
そして、子供も同じように俺の目の前に座る。
「あ、そうだ。言い忘れてたけど、ここではまだ魔法が使えるんだ」
「魔法が使える?」
「そう。君が異世界で覚えた魔法、鍛えた体はここでは完璧に残ってる。だから例えば――魔王を殺し
たその剣で、僕を殺してみるのも手かもしれないよ」
「……」
楽しそうに囁くような小さな声で目の前の子供は言った。
その怪しげな笑い顔に、少しだけ頭をかき乱される。
「さあ準備はいいかい?」
俺は数回大きく呼吸をして、改めて子供のことを見つめる。
「ああ」
そう言いながら力強く頷き、そしてゆっくりと頭を下げた。
「「よろしくお願いします」」
二人で開始の挨拶をし、いよいよ対局が始まった。先手は俺だったので、体が覚えている通りに駒を動かしている。
自然と手が伸びた場所は2六歩。飛車先の歩の一つ進める手だった。
相手の手は3四歩。角道を開ける手で、これもまた自然の手だ。
それからパタパタと手が進んでいき、戦型は『矢倉』となった。
これは、俺が最も得意とする戦法だ。
自信満々の手つきで局面を進めていく中、全く読みにない手が飛んできた。
「はっ?」
――指された手は歩をぶつける手。つまり、戦いを始めようという合図の手だ。
一言で言えばそれだけなのだが、一番問題なのはタイミング。お互い、玉の守りが不安定の中で仕掛けてきたからだ。
「……」
ここで初めて俺は長考に沈む。水の中に身を沈める用に考え――そして、自分の読みを信じて次の手を指した。
しかし相手はノータイムで次の手を返してくる。
まるで俺の読みを全て見透かされているように。
段々とそのペースに乱され、どんどん局面が劣勢になっていった。
「ほらほら大丈夫かい? かなり厳しくなってきてるんじゃない?」
挑発をするように声をかけてくる。
俺はそんな言葉には全く耳を傾けず、ただ一心に局面を見続けていた。
「君が異世界に行っている間、僕はずーっと将棋のことを勉強していたんだよ。君がよく矢倉を使うのは知っていたからね。ちなみにこれは、『最新系』というやつらしいよ。つまり、君が指していた矢倉の形はもう古いってことだよね。どうだい? そろそろ魔法とか使った方がいいんじゃ――」
「――うるさい」
さすがに聞き流せなくなり、氷のように冷えついた声で小さく鋭く言い放った。
「さっきから聞いてればぶつぶつと。最新系? そんなの知らない。もしそれで悪くなるなら、それを越えればいいだけの話だ」
そう言いながら俺は持ち駒を手に取って、さらに言葉を続ける。
「それに魔法だと? ふざけるな。俺は勇者である前に一人の将棋指しだ。そんなの使うわけないだろ!」
――魔法を使うのは、盤上だけで十分だ。
そして俺は持っていた駒を天高く掲げ、力強く盤上に打ちつけた。
「たかが数年しか将棋をしていないお前が、将棋を語るんじゃない」
「いいねえ……。僕はそれを待っていたよ♪」
舌を出して不気味に笑う子供。
そこからは完全な泥仕合が始まった。劣勢な俺は、逆転勝利を狙うために入玉を目指し、相手はそれを何とか阻止しようと迫ってくる。
――まだだ。まだ足りない。もっと、脳が焼き焦げるまで考えろ!
俺は自分の持ち駒全てを使って攻撃を凌ぎ、玉一つで相手の陣地まで駆け上がっていった。
「嘘だ……」
今まで余裕そうな態度をとっていた子供が、初めて焦りの声を上げる。
もう俺の玉は捕まえられない。完全に入玉は成功し、負けることは無くなった。
「これが俺の魔法だ」
そう言うと、子供は力が抜けたように頭を下げて
「負けました」
弱々しい声色で敗北を認めた。