第八章 Heroic Princess -SIDEルードリン-
幼い頃から、寝物語に聞かされるのは決まって《勇者》様の英雄譚でした。
仲間達と共に数々の苦難を乗り越え《魔王》を倒した《勇者》。
恋人と死に別れながらも悲しみを糧に《黒竜》を退けた《勇者》。
精霊の力を借り不思議な異界を渡りながら《邪神》を封じた《勇者》。
どの《勇者》様の物語も等しく胸が高鳴りました。
しかもそのいずれもが、創作された物語ではなく我が王家に伝わる真実の歴史なのです。
物心ついて、全て実際にあった出来事なのだと理解したわたくしは感動に打ち震えました。
そして現在、わたくしと同世代の《勇者》様がいらっしゃると知らされた時の感動たるや……
如何程のものであったか想像出来ますでしょうか?
わたくしには魔法の才はありませんでした。
代わりに身体能力には優れていたため、剣の腕を磨くことといたしました。
理由は単純にして明快ですわ。
《勇者》様のパーティーの一員として、共に冒険の旅へ出るためです。
常識的に考えれば、一国の王女たる者が狂気の沙汰と言えるでしょう。
ですが、我が国に関して言えばそれが認められるどころか、推奨さえされるのです。
我が国は常に《勇者》様を支援し、《勇者》様と共に歩んできた国。
王家の者は《勇者》様が振るう聖剣の守護、管理を任されてもおります。
そして、《勇者》様が男性であった場合は婿に迎え彼の方を王に。
女性であった場合は王妃にと迎え、やがては国母として敬ってまいりました。
我が国は《勇者》様あってのもの。
その剣となり、盾となるは王家の誉れ。
故に《勇者》様のパーティーの一員として旅に出るのは、王族に課せられた使命でもあるのです。
《勇者》として選ばれた御方には身体の何処かに刻印が浮かび、様々な加護が与えられると言われております。
特に身体能力と魔力は常人とは比較にならない域に達し、さらには聖剣を使いこなすことで過去の《勇者》様が昇華された英霊と呼ばれる存在の力を借り受けることも出来るようになるとか。
そんな《勇者》様と並び立ち戦おうというのですから、わたくしも生半な鍛錬ではとても足りるものではありません。
王女という身分は、いっそ邪魔ですらありました。
わたくしは鍛えました。鍛えに鍛え、磨きに磨き、練りに練りました。
僅かにでも届くよう。
少しでも追いつけるよう。
微力でも積み重ねれば大きな力になると信じて。
それは《勇者》という存在への憧憬に端を発したある種の信仰でした。
周囲の者は口にこそ出しませんでしたが盲信や狂信の類に見えていたことでしょう。
事実、その通りだったろうと思います。
父王陛下はあくまでわたくしに、わたくし自身の意思で道を選ぶようにと仰りました。その上でわたくしは《勇者》様と共にある自分を、英雄譚を夢見たのです。
今代の《勇者》であるネロス様について、彼の故郷からは《勇者》として健やかに成長中である旨、毎月報告が届いておりました。
この報告が如何に杜撰で怠慢であったのかを知るには、わたくしはさらに数年を待つ必要があります。
今さらな話ではありますが……
信頼出来る監察官を密かに派遣し、《勇者》ネロス様の能力も、性格も、彼に関するありとあらゆる全てを数ヶ月毎に徹底的に洗い上げ、調べるべきだったのでしょう。
であれば、彼が歪んだ成長を遂げるのを或いは防げたかも知れなかったのに……
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わたくしが“ソレ”の閲覧を許されたのは、一二歳の誕生日を迎えた五日後のことでした。
この地に王国が誕生して以来連綿と記され続けてきた《勇者》様の記録保管庫、“勇者書庫”とでも呼ぶべき場所の最奥に、厳重に隠された一冊の本。
――《勇者》不適格者――
王家が管理する《勇者》様の記録の中でも、公式には抹消された『存在しない存在』に関する極秘資料。
よくよく考えてみれば当たり前だったのです。
《勇者》様は神ではなく、刻印を授かったあくまで人間。
人間は過ちを犯すもの。
分不相応な力を得て増長し、心を歪ませ悪の道に堕ちる者がいてもなんらおかしいことはなかった。
にも関わらず、幼かったわたくしは愚かにも一切疑っていなかったのですわ。
《勇者》に選ばれる御方は、漏れなく聖人君子に違いないのだ――と。
その心には一片の闇すら抱かず、どこまでも真っ直ぐに正義の道をひた走れる清廉な御方なのだ、と。
不適格とされた《勇者》は、当然王家に加えるわけにはいかずその殆どが辺境へ飛ばされ軟禁状態のまま生涯を終えておりました。
中には、本当に稀ながら、罪を重ねすぎて処刑された方も幾人かおられました。とは言えまさか断頭台で《勇者》の首を刎ねるわけにもいかず、牢獄で毒を呷らせ、密かに……といった体で処したようです。
俄には信じ難い記録の数々に、わたくしは暗澹たる想いに囚われました。
この時点でわたくしはまだ見ぬ《勇者》ネロス様のことを盲信しておりましたので、まさか彼が不適格などと頭の片隅にも浮かばなかったのですが、かつての不適格《勇者》と同じ時代に生きた王族の方々は果たしてどのような想いで彼らを見ていたのか、想像しただけで身震いがしました。
わたくしに当てはめれば、それは人生の否定に他なりません。
途端、手にした本を取り落としそうになってしまいました。
そして……嗚呼、わたくしは本当に、なんと愚かであったことか。『これ以上考えてはいけない』と心に蓋をして、自らの盲信を継続させる道を選んだのです。
幼稚さ故の逃避であったのだと、今は理解しております。
一二歳の小娘の唾棄すべき弱さ、卑しさ、浅ましさ。情けないにも程があります。
そうしてわたくしは、より一層の精進を続けました。今にして思い返せば所詮は逃避の結果、上辺のものに過ぎません。
けれどそれ以外、恐怖に抗う方法を知らなかったのです……
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一五歳になった《勇者》ネロス様がついに王都へ招かれたその日、わたくしは焦がれに焦がれた御方とついに逢える慶びで感無量でした。
聞けば、先日《勇者》様の故郷に出向いた使者が目にした御姿は同性であっても思わず見惚れてしまう程に凜々しく、雄々しく、勇ましく……まさに《勇者》の武威と叡智とを兼ね備えた絶世の美男子であったとのこと。
一方のわたくしはと言えば、逃避に過ぎなかった精進とは言え重ねれば血となり肉となるは必定。
実戦に慣れておくため数年前から身分を隠して冒険者ギルドに登録して数々のダンジョンに挑み、また騎士団の魔獣討伐部隊に加わって戦功を挙げ、国王陛下主催の武芸大会でも並み居る強豪を押し退け二年連続優勝……
わたくしはいつしか王都でも指折りの騎士――“疾風の《姫騎士》ルードリン”として名を馳せておりました。
『今のわたくしならば《勇者》様とだって並び立って戦える!』
ですがその自信は、実際にネロス様と手合わせをしてみて呆気なく砕け散りました。
技術や駆け引きでは上回ったわたくしでしたが、それでも《勇者》の加護を得たネロス様の力はあまりにも圧倒的すぎました。
通用しないのです。
磨いた剣技が、防御の立ち回りが、意識を逸らしてからの急襲が。
速度を重視したわたくしの剣には重さが足りていないことは理解はしていましたが、こうも純粋に力で押し切られてしまうとは。全てを小手先と断じられたかの気分でした。
流石はわたくしが恋い焦がれ、待ち続けた御方! ――と感動したと同時に、《勇者》と常人を隔てる壁の厚さに膝を突きそうになったものの、《魔王》討伐の旅に出るまでは暫くの猶予があります。
己の不足を埋めるため、わたくしはさらなる研鑽を積みました。
そうすることで《勇者》様への愛を示そうだとか、要は浮かれていたのです。
ネロス様が故郷より連れていらっしゃった“幼馴染みの恋人”であるロルテとは、将来的に彼女の恋人を婿に迎える可能性が高いわたくしとでは気まずい関係になってしまうのではと危惧していたのですが、不思議なことに彼女がわたくしを敵視するようなことはまったく一切これっぽっちもありませんでした。
ロルテと友誼を結んだわたくしは、彼女と二人で鍛錬を重ねました。
冒険者ギルドで依頼を受け、二人で達成し喜びを分かち合ったりもしました。
身分など関係が無い。わたくしの、初めての友達。
彼女は心から信頼出来る掛け替えのない仲間です。
そうやってわたくし達が修行を積む一方、ネロス様は『今のうちに英気を養う』と仰って、《魔王》討伐の大任などまるで気負っていないご様子で、日々放蕩三昧でした。
あれを『《勇者》様の豪胆さ』と捉えていた当時のわたくしは……ええ、まったく、救いようのない阿呆でしたわ。
ロルテはそれとなく遠回しに恋人の真実を伝えてくれていたようなのですが、あの頃のわたくしは愚鈍にも気づきもしませんでした。
……ごめんなさいロルテ。思い出したら申し訳なさに圧し潰されそうになったので、今度王都にあるわたくしのお気に入りのカフェでパフェでも奢ります。勿論、おかわりも自由ですわ。ええ、好きなだけ。
ですが、もし言い訳を許されるのなら。
わたくしがまんまと騙されてしまった最大の理由は、一見修行もせず遊び呆けているばかりと思われていたネロス様が、そんな思惑から外れて《魔王》討伐へ向けての非常に頼もしい仲間を二人もスカウトしてきたからなのです。
二人というのは言うまでもありません。
《盗賊》のクルギと《重戦士》のランです。
彼女達と出会い、その実力を確認したわたくしは『ああ、流石は《勇者》様! 放蕩を装い、その実誰よりも先を見据え行動なされていたのですね! さすゆう!!』と感動に目が眩んでしまったのです。
クルギのことは、以前より聞き知っておりました。
王国一の大盗賊にして民から絶大な人気を得ている義賊。
犯罪者である以上わたくし達の立場としては裁かぬわけにはいきませんでしたが、本音を言えば王国の多くの機関が彼女を欲していました。
当然です。仮に彼女の能力を間諜に活かせれば、外交においてどれだけ事を有利に進められるか恩恵は計り知れません。内政においても言わずもがなです。
実際、何度か司法取引が持ちかけられたそうですが、彼女は頑として首を縦には振らなかったと聞いておりました。
にも関わらず、ネロス様はパーティーのメンバーとして彼女を加えることに成功していたのです。
ランと手合わせをして、わたくしは心底驚愕いたしました。
よもや騎士団にこれ程の人材が埋もれていようとは……いったい我が国はどれだけ見る目のない者を抱えているのか。……わたくしも含めて、ですが。
剣も槍も不得手とのことでしたが、そんなものはランの絶対的なフィジカルを前にしては些末も些末です。純粋に身体能力だけで言えば、彼女のそれは《勇者》の加護を持つネロス様にすら匹敵する恐るべきものでした。
彼女が守護神として盾を構えてくれるだけでどれだけパーティー全体が安定するか、想像しただけでわたくしははしたなくも笑いが止まりませんでした。
勝てます。
相手が《魔王》であろうとも。
ロルテの魔法による大火力と、クルギの支援能力、ランの守備力。
わたくしは技と速さで敵を翻弄しつつ戦況の把握に努め、全員で《勇者》ネロス様を支える。
完璧な布陣です。
……完璧な布陣の、はずだったのです。
いざ《魔王》討伐の旅に出たわたくし達は、最初の一月くらいは勢いで乗り切れたものの、それからは苦戦の連続でした。
力が足りていないわけではないのです。
けれどその個々の力を活かすための、パーティーとしての連携が、致命的なまでに噛み合ってはおりませんでした。
理由は、明白です。
どれだけわたくしが愚かでも、こうも現実を突きつけられてしまってはもはや目を背け続けることなど出来ません。
ネロス様が、あまりにも身勝手すぎるのです。
彼の《勇者》の力は強力無比でした。
一対一であれば殆どの魔物を寄せ付けません。
しかしそれは、どうしようもなく独り善がりで考え無しな力押しなのです。
相手が多少なりと知恵の回る魔物であれば、多対多においてネロス様はパーティーの穴以外になり得ませんでした。
ネロス様は、わたくしが前衛に並び立ち積極的に魔物と戦うのを許しませんでした。
ランが後衛を守ろうとするのを認めず自身のみを庇わせました。
ロルテの強力無比な魔法を先制の一撃のみに限定しまともに使わせませんでした。
クルギの優秀な攪乱能力を理解せずに後衛の守備のみを言いつけました。
無駄に戦闘に時間をかけ、自らがもっとも多くの敵を屠ったと自慢げに主張するネロス様の姿に、わたくしは泣きそうになりました。
注意すると、王女であるわたくしには一応は殊勝な態度で謝罪してくださいます。しかし反省はその場限りに過ぎず、喉元過ぎればまた同じ事の繰り返しです。
……こんなのは、違います。
わたくしが幼い頃から恋い焦がれた《勇者》様の姿とは、あまりにかけ離れている。
それは所詮は理想の押しつけに過ぎなかったのかも知れません。ですがネロス様は《勇者》なのです。彼自身、それを受け入れてここまで来たはずなのです。
ならば今からでもやり直せるはずと、わたくしは拙い希望に縋りました。わたくしの愚かな夢である以上に、その希望は全ての人々のためのものなのですから。
彼が『支えてくれる存在が必要だ』と言えば、身体だって捧げました。
王族ともあろう者が婚前交渉など本来はあってはならないことですが、殊《勇者》パーティーに同行するに限りそれすら許されます。
辛い旅の途中、《勇者》を支え、慰めるために人の温もりが必要とされるのであれば躊躇わずそうするべきだという王家の習いは、わたくしを縛る呪いでもありました。
けれど、身を捧げたところで何が変わるものでもありません。
あの日見た、《勇者》不適格者の記録が毎晩悪夢となってわたくしを苛みました。
わたくしは必死でした。
気分屋であるネロス様の機嫌を損ねないよう細心の注意を払いつつ、上手く誘導して彼を方向転換させていこうとひたすら腐心しました。
世界のために。
人々のために。
《勇者》のために。
なんて、滑稽なのでしょう。
ネロス様をこうなるまで放置してしまったのは王家の過ちです。
それは同時に夢ばかり見て現実をおろそかにしたわたくしの咎です。
ロルテもクルギもランも、磨り減っていくわたくしを心配してくれました。わたくしは本当に、素晴らしい仲間に恵まれた。それだけは、幸いでした。
日増しに魔物が強力になっていく中、力押しに無理が生じてきました。
ネロス様はどれだけ諫言しても旅の間まるで訓練の類をしてくださる様子はなく、あれだけ彼との間に感じていた隔絶した差が、次第に感じられなくなっていきました。
不安ばかりが募ります。
この先、魔物の力は一層強大になっていくはずです。
《魔王》だけでなく、その腹心たる《四天王》もいずれ劣らぬ剛の者と聞きます。
なんとしてもネロス様に改心していただくか、それとも……
……それとも?
――彼を、不適格者として切り捨てる――
もしも、そう出来たなら……いっそ楽になれるのか、と。
理性が、感情が、幾度も幾度も鬩ぎ合いました。
この期に及んでいつまでも子供の頃の夢にしがみついたまま、盲信を続けていられる余裕などありません。ですが、それでも、《勇者》の力無くして《魔王》に勝てるかと言われると、あまりに分の悪い賭けでした。
いったいどうするべきなのか。
何が正しい、最良の選択なのか。
悩んで、迷って、グルグルグルグルといつまでも答えを出せないまま精神の袋小路を狂ったように回り続けて……
もし仮に、あのままわたくし達だけで旅を続けていたならおそらくは遠くない未来全滅していたのは疑いようもありません。
そうならずにすんだのは、一人の少年のおかげです。
メルダート・コーグ。
彼は紛れもなくわたくし達の、……わたくしの、救世主でした。
■■■
メル様の加入によって、全てが良い方向へと向かい出しました。
彼はただの《村人》でした。
弓の扱いにはそれなりに長けていたものの、例えば騎士団の熟達した弓使いと比べて特筆した力量があるとも言えません。
客観的に見て“弱い”はずのメル様が、しかしわたくし達のパーティーの噛み合わなかった隙間にカチリ、とはまったのです。
信じられない気分でした。
『森での戦闘は皆さん不慣れでしょうから』とネロス様の反発を宥め彼に指揮を委ねてみた途端、パーティーが息を吹き返したのですから。
……いいえ。
わたくしは、知っていたのです。
これがわたくし達パーティーの真価であると。
ネロス様の我が侭を撥ね除け、各々が十全と実力を発揮出来たならこれは当然の帰結であるのだと。
知っていたからこそ、辛かった。
ロルテが、クルギが、ランが、メル様との交流で次第に笑顔を取り戻していくのを遠目に見つめながら、わたくしは後悔と自己嫌悪を繰り返しておりました。
けれど良いこと尽くしではありません。
『もしかしたら、ネロス様もメル様から影響を受け、これまでの自身の行いを省みてくださるのでは?』という甘すぎる期待は早々に打ち砕かれました。
ネロス様のメル様に対する罵倒は目に余りました。
自身が絶対強者たる《勇者》であり、あいてはたかが《村人》であるという卑しい選民意識に凝り固まった唾棄すべき言動の数々。
初めのうちは、わたくしの目のある範囲では控えていたようなのです。ですがそれも僅かな間のことで、あっという間に時と場所を選ばず堂々とメル様に当たり散らすようになりました。
わたくしは諫めました。
ですがどれだけ諫めようとまったく効果はありませんでした。
ネロス様を除くパーティー全員がメル様に好意的なのは誰の目にも明らかだったはずです。
恋愛感情云々を抜きにしても、仲間として、人として、メル様に好感を抱きこそすれ嫌う人はむしろ少数かと思います。実際に彼の故郷でも旅の途中立ち寄った街や村でも彼は老若男女を問わず好意的に受け入れられていました。
そして多くの人は好感を持った相手を傷つけられた際、腹を立てるものです。『私にとって大切な人を暴力的に罵倒する彼ってとっても男らしくて素敵♥』なんて言い出す女性がいたなら、狂人のソレでしょう。
どう考えてもまともな精神状態ではありませんのですぐに病院へ連れて行き、適切な治療を受けさせるべきです。或いは魅了や洗脳といった魔術の支配下にある可能性もありますからやはり一刻も早く専門家に診せるべきですね。
なのにネロス様は、心の底から『強者こそが常に正しい』と信じていたようです。『女は強者にこそついてくる』と一抹も疑ってもいない様子でした。
ロルテが実際にはネロス様と恋人でもなんでもない、愛しているどころかむしろ憎んですらいることにわたくしももう気付いておりました。
クルギもランも、彼に恩や愛情を抱いていたはずが、いつしか彼女達の心は彼から遠く離れ、冷め切ってしまっていました。
わたくしは……どう、だったのでしょう。
もうとっくにわからなくなっていたのです。
幼い頃からの信仰が、強さへの憧憬が、人生を懸けてきたことの意地が、複雑に絡まりすぎて己の想いなど見えなくなっておりました。
そんな愚昧なわたくしにも、メル様は優しいのです。
優しすぎて、温かくて、眩しいのです。
《勇者》というおとぎ話の偶像ではなく、メルダート・コーグという一人の少年が、強く、強く心を揺さぶるのです。
好みなど人それぞれではあるのでしょう。愛情よりも打算が勝る女性も多いでしょうし、わたくし達王族や貴族は恋情よりもまず政略です。
ですが、それでも。
強さを驕る男性よりも、一貫して優しい男性の方が、素敵だと……
少なくともわたくしは、そうだったのです。
決定的だったのは、《魔王四天王》の一人、《双葬》のランクロスとの戦いでした。
ランクロスの剣技はネロス様を、それにわたくしを上回っていました。特に防御の技術に関しては、お手本にしたくなる程の妙技でした。
そんな彼の弱点が魔法防御の薄さにあると見抜き、ロルテによる攻撃を中心に連携をシフトさせてからも苦戦は続きました。
ネロス様が無自覚の盾にされていたためです。
ランクロスは天才的な剣技に加え、卓抜とした体術と立ち回りでネロス様の動きを巧みに操作しロルテの魔法への盾にしたのです。
わたくしはどうにかネロス様をランクロスから引き離そうと攻め続けました。
しかしランクロスだけでも手に余るというのに、ネロス様が相変わらず考え無しに突っ込むものですからもはや《魔王四天王》と《勇者》を同時に相手にしているようなものです。
何度も諦めかけました。
腕を斬られ、脚を斬られ、痛みに顔を顰めつつひたすら剣を振るいました。
ランクロスがわたくしを完全に仕留められたであろう機会は、少なくとも二回。
わたくしを救ったのはメル様の放った矢でした。
ただの《村人》の矢です。
当たったところでほんの僅か相手の意識を逸らすのが精々。
その僅かが私を救ってくださいました。
メル様を邪魔だと判断したのか、ランクロスは何度か彼に向かい衝撃波を飛ばすなどそれこそ《村人》が受ければ一撃で致命傷となる攻撃を放っていました。
かろうじてランが防いでくれましたが、そんな危険な目に遭いながらもメル様はわたくしへの援護射撃を続けてくださったのです。
《勇者》であるネロス様がパーティーの輪を乱し足を引っ張る一方で、《村人》である彼が、命懸けで。
《勇者》とは、果たして何なのでしょうか。
刻印さえあればそれで《勇者》なのでしょうか。
わたくしの心はようやく決まりました。
遅すぎるくらいでした。
本当に、わたくしは……暗愚で、救いようのない……
駄目な……女です。
ですから、慰めないでください、メル様。
ネロス様――《勇者》ネロスを追放したことに、後悔はありません。
幼い頃からの愚かな妄信にようやく決着がついた……それだけの話なのです。
これはネロスに失恋したのが悲しいのではなく、《勇者》という偶像に恋破れた、馬鹿な女の結末に過ぎないのです。
いっそ嗤って欲しいのに、こんな時までお優しい。
ああ……なんて、酷い御方。
この先わたくし達は《勇者》抜きで《魔王》討伐に向かわねばなりません。
聖剣の力もわたくしでは引き出せて三割程度。
なのに今、心はこんなにも絶望とは程遠い。
不安などあろうはずもございません。
生きて帰りましょう、共に。
刻印も聖剣も持たない、勇者であって《勇者》ではない、それでもわたくしの……大切な人。
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……おかしいですわ。
わたくしが――王家の女がこの行為でなすべきは『戦いに疲れた《勇者》の心を癒やし、慰め、支えること』だったはずですのに。
どうしてわたくしがメル様に慰められているのでしょう?
わたくしに全てお任せくださいと言ったはずですのに。
これでも閨の技術には自信もあったのですよ?
その辺も、必要なことだからと徹底的に叩き込まれましたし。
実際ネロスのことは容易く翻弄出来たのですが……
メル様は、メル様は……昼間はあんなにもお優しいのに、夜は、鬼畜です……
女王制の国にメル様を送り込めば数日で落とせます。
間違いなく断言出来ます。
逆傾国です。
もはや対国兵器と呼んで差し支えありません。
……いえ、送り込む気などありませんけれどね?
そんな勿体ない……じゃありませんでした!
メル様には、ずっとわたくしの隣でこの国を治めてもらわねばならないのですから。
お願いいたしますわよ? メル様♥
あと二回で完結です。