第五章 Happy Birthday -SIDEロルテ-
全てが変わってしまったのはいつだったか。
それは間違いなくネロスの、わたしの幼馴染みの七つの誕生日だった。
ネロスとわたしは王都から離れた小さな田舎街で生まれ育った。
家が隣同士で同い年。画に描いたような典型的な幼馴染み。
小さい頃のネロスは、今からは想像もつかないくらい普通の子だった。当時から多少は癇癪持ちの気はあったけれど、のどかな田舎街での平和な暮らしの中ではそうそう当たり散らしたくなる事件も起こらず、わたし達の関係も概ね良好だった。
一方のわたしはと言えば、魔法の才能はあったけれどそれ以外はどうにも地味で垢抜けず、性格も内向的だったためかネロス以外の友達はあまり出来なかった。
強いて言うなら、運悪く身体の発育が良かった。同年代の娘達と比べると、群を抜いていたと思う。
どうしてそれが運悪くなのかと言えば、七歳の誕生日に《勇者》の刻印を授かったネロスへの生贄に選ばれた理由の大半がそこにあるからだ。
ネロスに《勇者》の刻印が浮かび、国からも正式に認められた後、街は大層盛り上がった。
なにしろ、これといった産業もなく、観光地として旅行客を呼び込むような魅力も無い貧しい田舎街に降って湧いた幸運だ。当時子供だったわたしは正確な額は知らないけれど、国から出る補助金だけでも相当なものだったのだろう。
国はネロスをすぐさま王都に招き寄せたりはせず、一五歳までは故郷で《勇者》教育を受けさせるという施策をとった。
数十年前、刻印が出た直後の幼い《勇者》を故郷から強引に引き離して教育したところ、彼は愛を知らず、守るべき者も持たず、暴虐な振る舞いの果てにどうということもない魔獣にあっさりと殺されてしまったのだという。
その二の舞を怖れ、国は《勇者》が精神的に成熟するまではきちんと故郷で愛を注がれて育てられるべきという方針を執るようになった。
考え方自体は間違っていないと思う。
実際、七つかそこらの子供が突然親元から引き離され、『お前は《勇者》となって凶悪な魔物や魔獣と死ぬまで戦い続けるのだ』なんて命じられたなら正義の心もへったくれもなく殆どの子は壊れてしまうだろう。
でも、故郷に全部丸投げなのもそれはそれで問題だったのだ。
ネロスの両親も、ご近所の皆さんも、その他の街の住民も。
みんながみんなネロスを甘やかし、褒めそやし、溺愛した。
将来《勇者》となった彼が故郷の田舎街に恩返しをしたくなるように。故郷の田舎街が色々と有利になるための便宜を引き出せるように。
普通の子供だったネロスが最悪の暴君と化してしまうまでに、一年もかからなかった。
彼は変わってしまった。
大抵の我が侭を周囲が許してくれると理解してからの彼は、酷くなる一方だった。
全ての責任が周りにあるとは言わない。元々彼自身の性根にそういった要素はあったのだろう。それでも、ごく当たり前に育っていればあそこまではならなかったはずだ。
そうして、『さすがにこのままでは不味いか?』と気づいた街の人達が、彼の狼藉の範囲を制御するために選んだ生贄が、わたしだった。
両親が反対しなかったのは、将来的に『娘が《勇者》の妻になる』ことの利点を考慮した結果だったのだろうなと思う。当時のわたしの目にも、父と母にはそういった計算高さが見て取れたから。
それが娘にとっても幸福に違いない、だなんて免罪符くらいは頭の片隅に用意していたのかも知れないけど、あんな両親のもとに生まれてしまったのは間違いなくわたしの不幸だった。
わたしがネロスに初めてを奪われたのは、一二歳の時だった。
本格的に性に興味を持ち始めた彼は、親どころか街公認の恋人であるわたしの純潔をただただ肉欲のままに引き裂き、貪った。
恋人同士の甘い語らいなんて欠片もなかった。
きっと獣の交尾の方がまだ情愛が存在していると思う。
自分の上に覆い被さり、猿みたいに腰を振る幼馴染みをわたしは無感情に見上げていた。
数年間に渡って醸成された諦観が完成したのはあの時だ。
以来、わたしは希望を捨てた。
自分は《勇者》の幼馴染みで、恋人で。
思考に蓋をし、感情に鍵をかけ、この関係は当然のものなんだと受け入れることにした。
最近は魔物の動きが活発化しているとの噂が流れてきている。
《魔王》に復活の兆しがあるらしい。
ならば《勇者》は、世界の平和を守るためどうしても必要となる。
わたしは《勇者》を支えなくちゃいけない。
彼の幼馴染みで、恋人だから。
必死に魔法の修行をして、夜は娼婦のように彼に身を捧げ。
それが一六歳までの私の人生。
ようやく転機が訪れたのは、ネロスの、《勇者》パーティーの一員として復活した《魔王》討伐のために旅立ってから数ヶ月後。
とある村での、一人の少年との出逢い。
その出逢いが、わたしの全てを変えた。
あの日、わたしは生まれ変わったのだ。
ただの《村人》、メルダート・コーグ。
メル君と出逢ったことによって。
■■■
「メルダート・コーグと言います。短い間かとは思いますが、案内役、精一杯務めさせていただきますのでよろしくお願いします!」
彼は見るからに純朴そうな、礼儀正しい少年だった。
年齢はわたしより一つ下で一五歳。若いけれど村一番の弓の使い手で、《魔王四天王》の一人である《閃雷》のアグミーサが迷いの森の奥に築いた砦まで案内が出来そうなのは彼しかいない、と。
案内役を欲したわたし達にそう推薦してくれた村長さんからは『数年前に流行病で両親を亡くし、今は村の外れで一人で狩人をして暮らしている』と聞いていて、生い立ちと境遇からもっと偏屈そうな人を想像していたわたしは正直面食らってしまった。
どうせ短いつき合いになるのだろうし、人柄は大して気にするつもりもなかったのだけれど、メル君はとても優しく紳士的で、端的に言えば好ましい男の子だった。
樹と草が鬱蒼と生い茂り歩きにくい大森林で、彼は慣れないわたし達の行軍を一から十まで手助けしてくれた。
疲れにくい森の歩き方。
触れるとかぶれてしまう草。
食料となる植物の見分け方や獣の捕り方。
色々なことを教わった。また、わからないことを訊けば懇切丁寧に教えてくれた。
《勇者》パーティーの案内役に選ばれたことで、彼自身は張り切っている様子ではあった。
でも、わたしが優しいと感じた言動の一つ一つは、彼にとってはごく当たり前のことだったのだろう。
旅立ってから多くの人々がそうしたように、わたしが《勇者》パーティーの一員だから――というわけじゃなくて、ただ歳の近い女の子だからそうしただけの。
でもそんなさりげない自然な優しさや思い遣りが、嬉しかったのだ。
だってそれは、十年近くもの間わたしには与えられなかったものだから。
クルギさんも、ランさんも、ルードリン様も。
ここしばらくずっと悪かった雰囲気が、旅を始めた最初の頃に戻った――ううん、違う。
あの頃よりももっと、ずっと良くなった気がする。
メル君が特別だからじゃない。
彼がどこまでも“普通”だから。
その“普通”は、わたし以外にも傍若無人さを隠さなくなってきたネロスによって傷ついて、ささくれ立っていたみんなの心を柔らかく癒やしてくれた。
パーティーとしての在り様にも、彼は小さからぬ影響を与えていた。
今までわたし達《勇者》パーティーは、リーダーであるネロスの指示という名の我が侭につき合わされてひたすら非効率的な戦い方を強要されてきた。
わたしは、彼の恋人だったから。
クルギさんとランさんは彼に恩義を感じていたから。
ルードリン様は《勇者》のことを信じていたから。
だけど本当はみんな気づいていた。この先も同じような戦い方ではすぐに限界がくると。どれだけみんなから諫言されてもろくに鍛錬もせず、《勇者》の地力と聖剣頼りなネロスじゃやがて通用しなくなると。
その逼塞した現状に風穴を空けてくれたのがメル君だ。
彼が『皆さん、森での戦いにはまだ不慣れでしょうししばらくは僕の指示に従ってください』と言ってくれたことで、わたし達は初めてネロスの我が侭から離れた戦闘が出来た。
……ありえないくらい、やりやすかった。
クルギさんもランさんもルードリン様も、みんな驚いていた。
わたし達は、わたし達の真価が全然見えていなかったんだ。
自分以外が敵にトドメを刺すのをネロスが嫌がったせいで、わたしはわたしの魔法による火力がどれだけ戦況に影響を及ぼすのか正しく理解していなかった。
自分以外が前衛で活躍するのをネロスが厭うせいで、ルードリン様はご自身の剣技や体術がいかに相手を翻弄出来るのかまったくわかっていなかった。
自分が突っ込むのに邪魔になるからとネロスが鬱陶しがったせいで、クルギさんは毒やトラップが戦闘中どれだけ効果的に作用するのかを掴みきれていなかった。
自分が傷つくのをネロスが怖れたせいで、ランさんはその高い防御力や腕力がいかに他のメンバーの助けになれるのかをまるで把握出来ていなかった。
アグミーサの砦を攻略し終え、村へ戻るまでのほんの一週間程の間に、メル君はわたし達にとってかけがえのない仲間になっていた。
メル君自身の能力は、確かに高くはない。ただの《村人》にしては優秀、というのが贔屓目無しの客観的な彼個人への評価だ。
だけど彼は、そんな自分の能力や適性をちゃんとわかっていた。わかっていたから、どうすれば非力な自分がみんなの役に立てるのかを考えて、的確に行動していた。
メル君の弓矢は強い魔物にダメージを与えられるだけの威力はない。だから彼はあくまで牽制と割り切り、クルギさんと協力して矢に爆弾や煙幕をくくりつけるといった工夫をして上手に敵を攪乱してくれた。
ランさんは前衛で守備につくより後衛を守った方が効果的なんじゃないかと提案して、彼女に弩の使い方を教え、さらにわたし達全員の協力のもと強力無比な仕掛け鎧《皇騎凄》を完成させたのもメル君だ。
それに威力は低いものの、狩人として磨かれた矢の命中率自体は非常に高く、速度を活かして同時に複数の敵と斬り結ぶルードリン様への援護射撃はとても見事だった。力任せで雑に突っ込んでは敵を討ち漏らしてばかりのネロスに比べ、メル君の援護を得たルードリン様の前衛はわたし達中~後衛の戦術の幅も大きく広げてくれた。
さらに彼は、誰もが諦めていたネロスへの諫言も諦めなかった。
正式にパーティーに加入してからも、メル君は相変わらず適当なネロスに地形の把握、敵の特性の見極め、連携の大切さをどれだけ邪険にされても訴え続けた。
ネロスが彼の訴えをろくに聞きもせず撥ね除けるたび、わたしはメル君に謝った。
『どうしてロルテさんが謝るの?』と訊かれて、『わたしはネロスの恋人だから』と答えた時、喩え様のない胸の痛みに襲われた。
嫌だった。
メル君に自分があんな最低男の恋人なのだと告げるのが。
辛くて、苦しくて、泣きたかった。でも、そんなことをしたら優しいメル君に無用な心配をかけてしまう。
それがもっと嫌で、我慢した。
その頃から、わたしはネロスに抱かれるのに途方もない拒否感を覚えるようになった。
とっくに諦めていたはずなのに。
汚れきったこの身体に今さら未練なんてなかったはずなのに。
あいつに抱かれた汚らしいわたしをメル君に見られたくなくて、わたしは懸命に言い訳を並べ立ててネロスを拒絶した。
拒絶を続けていたある日、酔っ払っていたネロスがついにキレて、殴られた。
殴られたのは別に初めてじゃない。あいつが《勇者》になってからは、しょっちゅうだ。
でもその日は、殴られて、無理矢理犯されそうになって……逃げ出した。
わたしは泣いていた。
ずっと我慢してきたのに、限界だった。
自分があんまり惨めで、嫌で嫌でたまらなくて、涙が止まらなかった。
汚い。
わたしは汚い。
見せたくない。
見られたくない。
そんなわたしを真っ先に見つけてくれたのは、一番見られたくなかったメル君だった。
何も言わずに泣き続けるわたしの、メル君は黙って隣にいてくれた。
言ったらダメだ。
心の底に汚らしい澱みとなって溜まった負の念を、僅かにでも口にしたらきっと止まらなくなる。
メル君はきっと、わたしを慰めようとしてくれるだろう。
優しく、気を遣って、癒やそうとしてくれる。
そう期待してしまう自分が嫌だった。
卑しい。浅ましい。
汚くて、小賢しくて、狡い女。
ああ、その通り。
わたしは狡い女だから。
狡くて弱い女だから、結局は話してしまった。
わたしの生い立ち。
ネロスとの関係。
幼馴染みの恋人を、本当は一度たりとも愛しいなんて思ったことがない、むしろ憎んでさえいるという本音を、今まで誰にも話したことなんてなかったのに、全てブチ撒けてしまった。
気づいたら、泣いていた。
わたしがじゃなくて、メル君が。
泣きながら、わたしのことを抱きしめてくれていた。
『かわいそう』とは、彼は口にしなかった。
代わりに『そんなの違う、間違ってる!』と泣きながら怒鳴ってくれた。
わたしのしょうもない人生に。
哀れで惨めな十年に。
自分は無力で、何も出来ない。それが悔しい――って。
そう言って泣いてくれたメル君を抱きしめ返して、わたしもまた泣いた。
溢れ続ける涙と一緒に理解した。
――ああ、わたしは、彼が……メル君が好きなんだ――
初恋を自覚した瞬間、わたしは、わたしになれた気がした。
これからようやくわたしの本当の人生が始まるんじゃないかって、そんな風に思えた。
■■■
メル君への恋を自覚して暫く経った頃。
あのクズがメル君を呼び出したのに気づいた私は慌てて宿を飛び出した。
わたしのことなんて都合のいい奴隷としか思ってないくせに、くだらない所有欲と独占欲からいつかあいつがメル君に危害を加えるんじゃないかとはずっと懸念していた。
まさに的中だ。
伊達に幼馴染みなわけじゃない。
あいつのトチ狂った思考くらいは読めるのだ。
メル君に斬りつけようとするあいつの足下に《アイスジャベリン》を放ち、わたしは今度こそ今までの人生と決別する覚悟を決めた。
ネロスのために生きた、《勇者》に捧げられた最低最悪の記憶。
クソッタレめ。
もう《勇者》なんて怖くもなんともなかった。
メル君とわたしの連携の前に、あいつはいっそ哀れなくらい無様に、あっさりと敗北した。
こんな虚しい勝利もあるんだなぁと感心してしまったくらいだ。
わたし達にあらん限りの罵声を浴びせかける目の前の男のちっぽけさに、わたしは嗤ってしまった。
ほんとう、どうしようもない男だ。
こんな男に全てを捧げていた自分にも呆れてしまう。
けど、これでやっと、わたしは歩き出せる。
わたしみたいな女がこんな気持ちをメル君に抱いていいものかどうかとか、他の仲間達の気持ちはどうなのかとか色々と前途多難そうではあるけれど。
それでも掴みたいと思った。
幸せを。
歩みたいと思った。
今度こそ、本物の人生を。
寄り添うわたしの手を、メル君がおずおずと握ってくれる。
この温もりがあれば……きっと大丈夫。
わたしは、そう信じることにしたのだった。
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……そう言えば。
あいつはしょっちゅうメル君のことを粗チンだなんだと馬鹿にしてたけど、後日まったくの虚偽だったことが判明し――
それどころか、……えーと、ですね?
二回りは大きいんですけどッ!?
しかもあのクズより遙かに上手で……リードするつもりが完全に、はい。敗けてしまいました。完膚なきまでに。啼かされました。
あいつとの何百回がメル君との一回で完全に上書きされて、そこからはもう勝負にすらなってませんでした。
クズはアッチの方もクズだったんだなぁ、って。
ともあれ。
もうあんなヤツのことはどうでもいいので、これからはいっぱい幸せにしてね、メル君♥