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文明13年 1481年 3月初旬 山城国洛東 佛光寺
佛光寺…それは言い伝えによれば親鸞上人が承元の法難と呼ばれるとある事件から赦免され京に戻ってきた際に今日の蓮如上人のように山科にて草庵を設け活動を再開した拠点が興りとされている。
その後親鸞上人と高弟らの布教により荒木門徒や阿佐布門徒(現在の麻布)など言われる関東での布教と組織化に成功し、それらの支持を母体にしてその勢いを以て西国へと布教していった。
その西国においての布教をも成功裏に終えたが本願寺の実質の開祖覚如上人との対立が始まった。ここにおいて本願寺と佛光寺の対立の歴史があり今日に至る。
さて、その対立の中で東西の信徒の巡礼拠点としてより一層の聖地化をする為にか山科より洛東・東山へと拠点を移し開堂したのが今日の佛光寺である。
時は流れ地方においては堅調にその勢力を保ち伸していたが、畿内とりわけ洛内にてその伸長へ待ったをかける勢力がいた。その中心となる勢力が延暦寺であった。
浄土真宗である佛光寺は農村や商工業者への布教には成功していたが公家や幕府中枢といった身分の高い人々への布教が進んでいなかった。
それ故に、またはそれを阻むかのように延暦寺は迫害と弾圧を行った。その結果、幾度も門徒は傷付き、遂には応仁の乱により御堂は焼失した。
そして、現法主である経豪は現在はかつての勢いを取り戻せずに延暦寺からの迫害に対抗していた。しかし、教えを同じくしつつわかりやすく親しみやすいとの評判の蓮如らの動向に思案しているのであった。
そしてそんな中で、彼の一休禅師からの紹介で田舎の童子から手紙が来た。最初は田舎の童子であるからして小僧に適当に茶を濁して返事を書かせた。
すると一休禅師が自ら来て声高にその童子について話した。曰く、身内ではなく初めて弟子と思える人物であると。また、その童子の動向から目を離してはいけないと…
一休禅師がそこまで言うのだから手紙に目を通し自ら返事を書いた。また、童子についても探って見れば禅師の言うとおり決して只者ではないということがわかった。そして、遂にその童子が一度会い話を聞いてほしいと請われ会うこととなった…
う〜ん…必要最低限度の建物だけは再建してかるようだが、門は破れかぶれで今昔物語や文豪の作品に出てくる羅生門の様である。
「頼もう!先触れを出した織田大和守が孫 仙法師にございまする!経豪法主に面会に参った」
そう言うと赤ら顔で潑剌とした幼いとも言える小僧が来て案内された。連れられて歩いていれば境内のあちらこちらに幼い子どもや小僧の真似事のような子供たちが沢山いて驚いた。
しばらく行けば一つだけ真新しいお堂があり中に入った。戸を開いた瞬間に貧民独特の臭気と少し温い空気が外へと漏れ出て我が身を抜けていった。中には外の子らの親だろうか、多くの貧しい身なりの人々が多く居て身を寄せ合いながら一人の僧を囲んでいた。
そしてその中をかき分け小僧の背を追い、一つ空いた茣蓙に招かれ腰を下ろし対面した。
「ようこそ、おいて下さいました仙法師殿。拙僧が法主を勤めさせていただいている経豪にございます」
「お初にお目にかかります。改めまして武衛家家臣尾張守護代織田大和守が孫 仙法師にございます。この度はご無理を以て失礼致しました。御面会叶い光栄ございます」
そう挨拶する中、貧民は興味と好奇をもってして思い思いの雑談に耽っている。
「法主、驚きましたな…まさか彼様に多くの門徒と共に御面会致すとは思いもしませんでした」
「いえいえ、雑多で申し訳ありません。されど恥ずかしながら春といえど外は冷えまする。多くの人々が飢えと寒さに脅かされるのを見て忍びなく少しでも避けられ得るならばと思い声をかけ開放したところこの様になりました」
う〜ん、中々の優男然とした僧なのだが心意気はやはり立派な名僧であるといえるな…それでいてこれだけの「数」の人々を集めれば否が応でもその人の格を高く見てしまう…本人の徳と計算された徳…生粋の宗教家であるといえる。やはり本願寺の隆盛の要となった僧の一人だ。
この様な僧が多くいたからこそ民草はそれこそ妄信的に信じ信長公の天下統一を十年は送らせたと言われる勢力へとなり得たのであろう。
「ははは…では、お布施として炊き出しでもいたそう。衣食足りて礼節を知ると古の管子も申します。食べて満たされてより話をすれば心身共により良い結果が生まれるというものです」
「それはありがたい。黄金よりも勝る喜捨と言えるでしょう!準備ができるまで我らを結んだ一休禅師の話などをして待ちましょう」
そう言うとの自分は半蔵らに頼み炊き出しの手配を頼んだ。周りの者達も単純に喜びながらわれら二人の話にまた耳を傾けるのであった。
遅れて申し訳ありませんm(_ _)m