戦後処理
1481年文明13年 1月 尾張国海西郡 荷之上城
塩畑城の戦いで父 良信が織田伊勢守敏広の首を取り終結した。その後は伊勢守に従っていた国人や地侍共を捕えた。それからその者らの沙汰を本家の五郎久定と京にいる祖父 大和守敏定らと連絡を取り決めることなった。
そういう自分は足軽衆を休ませた後に服部左京進のいる荷之上城へと向おうとすると既に服部党は逐電したらしく焼け落ちた荷之上城を接収し河内の地を実効支配する事とした。
さて、此度の戦で父 良信は祖父の弟である織田左馬介敏信の養子となり伊勢守が支配していた尾張国上四郡の旗頭となる事になった。
これによって我ら弾正忠家は一家臣の分家から実質的に親族同盟程に格上げとなった。
しかし、伊勢守に従った国人や地侍はその当主が毎ごとく首をはねられるか蟄居させられることとなった。その事を強く進言した本家の五郎久定と慎重論を唱えた父 良信とのひと悶着があったが祖父 敏定によって上記様な次第となった。
本家としては反乱分子の粛清と武威を示せたし、我が弾正家の旗役としての国衆の取りまとめの足を引っ張れるというところで落ち着いた。
ちなみに父に伯父 久定と仲が悪い理由を聞いた所、父と久定は異母兄弟であり、年齢が同じであるそうで久定の母の方が身分が高かった故に久定を兄とし一応の嫡子としたらしい。しかし、久定は粗忽な面があり家臣らもそれを気にして父 良信と影では比べられていることを気にしているとのことらしい。更にはそのような有様から祖父 敏定も久定を少々疎んでいる面があるらしい。そして、その反動なのか比較的に父 良信は寵愛を受ける面があるらしい…
さて、自分はというと新たに得た河内を取りまとめる為に英秀や政則、信勝を筆頭にして人員を割いて新たな開発の指示を出したり普請の計画を練ったりしていた。
そんな中で父 良信の名代として伯父 久定と共に上洛するように命じられたのであった。