フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン
そのとき、誰かが怒鳴ってカウンターに小銭を投げると、バタンとドアが乱暴に閉まりました。
どたどたと足音が響いて、何人もが、店の外へ出ていきました。
いつの間にかジュークボックスの音楽も止んでいました。
とかげは目を大きく見開いたまま、ゆっくりグラスに口をつけると、ごくりと大きくのどを鳴らしました。
まるで固い塊でも飲み込んだようでした。
店の中は、今は静まっています。
けれど、まだそこここに、さっきの音の尖ったかけらが散らばっているような気がしました。
「何だい、今のは? さっきの音は、何だい?」
やっとのことでそう尋ねると、バーテンがぽつりと答えました。
「…ジュークボックスの曲が入れ替わったんですよ」
「そりゃ、どうしてまた?
以前のほうが、ずっとよかったよ。
さっきのナイフみたいな曲は、この店には似合わない」
「……仕方ないんです。ここだけの話…」
バーテンは、自分ととかげしかいないのに、一段と声をひそめました。
「『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』は借金だらけだったんです。
…ずっと、お客の入りがよくなくて…。
マスター、なんだか元気がないなあとは思っていたんですが…」
「この店、なくなるの?」
「…いえ、それは大丈夫でした。でも……。
いっそ、そうなったほうが良かったかもしれない…。
貸し主が、支払いを待ってやる代わりに戦略を変えろ、って、店のやり方に口出しを始めたんです。
あんな辛気臭い店じゃ、客なんて入るもんか、もっと流行を取り入れなりゃ、って。
改装する余裕なんてないだろうから、せめてジュークボックスの曲を、ジャズなんかじゃなく歌謡曲にしろよ、って。
そうしたら、借金が払えるようになる、って。
そうなるまで待ってやるから、って」
「…そりゃあ、ひどい」
「マスターも本当は嫌なんです。
でも、言うことを聞かないと店を取られることになるし。
…マスター、曲を入れ替えてから、閉じこもっちゃって出てこないんですよ。
…すっかり塞ぎ込んじゃって」
とかげは、何と言ったらいいか、わかりませんでした。
いつも自分を温かく受け容れ、励まし勇気づけてくれた人たちが、突然、力を失くして打ちひしがれているのです。
何かしたい、何かしなければ。せめて何か、希望を持てる一言を言ってあげたいのに…。
そうは言っても、引っ込み思案で口下手なとかげでした。
「…ビール、もう一杯もらうよ」
やっと言えたのは、そんな一言でした。