フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン
とかげはすっかりこの店が気に入りました。
早くに両親を亡くして学校へ行ったこともなく、小さい時から働きづめで外国の言葉の意味も音楽も知らない自分が少しも恥ずかしくありませんでした。
こんなしゃれた店で働いている人が、こんなにやさしくて温かくて、とかげはしみじみ嬉しいと思いました。
それに、バーテンの言葉には深い労りが感じられました。
「いつかきっとよいことがありそうな気になりますよね」
それは自分だけに向けられたものではないようにとかげには思えました。
バーテン自身にも、それ以外の人たちにもかけられた言葉のように感じられたのです。
「おいらは今まで、元気で働けることがありがたくて幸せだと思ってきた。
それは今も変わらない。
でも、さっき、この素敵な曲の名前を聞いたとき、『私を月まで連れていって』なんて言ってくれる人がいたらなあとも思ったんだ。
それって、今のおいらには、そういう人はいないってことだからな。
そういう、ふとしたときに気づいてしまう淋しさみたいなものを、こんな素敵な店で働いているこの人も抱えているんだろうな。
この人だけじゃない。
客が入らなくて紅茶の店からお酒の店に変えたって言っていたマスターも、たくさんの牛や豚や畑を持っている地主さんだって、みんな心のどこかでは淋しいんだ。
それなのに、ここのマスターもバーテンさんも、なんてやさしいんだろう。
客商売だから愛想がいいのとは違うことくらい、おいらにだってわかるさ。
雨宿りに飛び込んだおいらを追い出しもせず、嫌な顔もしないで、温かいお茶を淹れてくれたんだからな。
いろんなことがあってもこんなに温かい人たちのいるこの店に、おいら、また来るよ。
少しづつ節約して工夫してお金を貯めて、おいら、きっとまたこの店に来るんだ」
紅茶を飲み干して店を出るとき、マスターは、
「ついでのときでいいですよ」
と言って、傘まで貸してくれたのです。
抱えていた花束まですっぽり入るような大きな黒い傘でした。
「ありがとうございます。
おかげで花束を濡らさずにお届けすることができます。
今日は地主さんの奥さんのお誕生日なんですよ」
「そりゃあ、おめでたい。
わたしたちからもお祝いを申しますよ。
どうぞ奥さまによろしくお伝えください」
傘も花束も小さいとかげには重かったけれど、とかげの心は明るく弾んで、軽々とした足取りで帰り道を急いだのでした。