フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン
マスターが丁寧に紅茶を淹れている間、バーテンはジュークボックスにコインを入れて曲をかけました。とかげの初めて聴く曲でした。
男の人がゆったりとのびやかに歌っています。
「いい曲だなあ…。
外国語だから、なんて歌っているのか、わからないけれど」
「『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』という曲ですよ。
私はこの曲が大好きでしてね。
それで、この店の名も『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』」
「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
とかげは繰り返しました。意味は解らなかったけれど、素敵な呪文のような響きに聞こえます。
「『私を月まで連れていって』という意味ですよ」
バーテンが気を利かして説明してくれました。
「いい曲でしょう。曲名もいいでしょう。
私はこの曲が好きでねえ…。
自分の店を持ったらこの曲名を付けるんだって、早くから決めていたんですよ」
この時、とかげは初めて自分のいる店の名前を知ったのでした。
フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン。|《私を月まで連れていって》
なんていい名でしょう。
おいらも誰かにそんなことを言われてみたいなあ。
そうしたら、どこへだってその人を連れていきたいと思うだろう。
その人と一緒に飛んでいきたいと思うだろう。
とかげはうっとりと考えました。
「私はこの名が自慢でね。
紅茶の店からバーに変えるときも、名前だけはそのまま残したんですよ。
それと、ジュークボックスも前の店のときからあったんです。
まるで、こうなるのがわかっていたようでしょう?」
マスターが言うと、
「本当に、いつかきっといいことがありそうな気になる名前ですよね」
バーテンも同意しました。