戒めの仮面 1
魔術学院日本支部の一室。そこに置かれているのは、剣が突き刺さった台座だ。異能研究機関ネザー、その日本支部が運び出して来た、本物の聖剣。
剣崎龍が現在持っているものと同じだが、あちらは龍が転生者として持ち越した力の一つだ。一方で、こちらは現代までの長い時を渡って来たもの。その証拠に刀身は錆びついてしまい、昨日蓮が振るった際の輝きは微塵も見れなかった。
「つーわけで、お前にはこっちを使ってもらう」
「俺がこんなこと言うのもなんですけど、いいんですか?」
「当たり前だろ。剣がお前を選んだんだ。俺は例外として、こいつを使えるのは今この世界でお前だけだしな」
部屋に集まっているのは龍と蓮以外に三人。
葵にカゲロウ、朱音だ。
朱音やサーニャを始めとした、昨日の依頼について来ていなかった面々には、葵が自分の口で事情を説明していた。
もちろん蓮とのあれやこれやは伏せてくれていたが、逆にあれ以降葵からなにか言ってくるような様子もなくて、完全に色々とタイミングを見失っている。
どうするべきか寝る前も考えたが、まあ答えなんて一つしか出なくて。それを実行出来るのなら、そもそも解散する前にどうにかなっていたわけで。
「蓮くん頑張れ!」
「師匠なら抜けますよ!」
当の本人は、蓮のそんな心情など全く理解している節もなく。朱音と一緒になって無邪気に応援してくれている。
もしや悶々とした夜を過ごしたのは俺だけなのか?
視界の端で忍び笑いを漏らしてるカゲロウが見えた。あの半吸血鬼の友人は、蓮の苦悩を理解してくれているのだろう。だからって笑うのは酷いと思う。
ともあれ。
台座の前に立った蓮は、深呼吸を一つ。昨日はたしかにこの聖剣の力を借りたけど、改めて引き抜くとなれば緊張してしまう。
「……よし」
意を決して右手を伸ばした。
柄を握った瞬間、覚えのある魔力が身体に流れ込んでくる。昨日、あの時に蓮も使った、黄金の魔力が。
いける。確信を持って力を込めれば、剣は容易く台座から抜ける。
そして錆びた刀身は瞬く間に本来の輝きを取り戻し、刃こぼれ一つない美しい姿へと変貌した。
聖剣エクスカリバー。
選定の剣の力が、今ここに、糸井蓮の元へと渡った。
「ふぅ……」
「「おぉ〜」」
ぱちぱちぱち、と拍手する葵と朱音。龍とカゲロウは満足そうに微笑んでいる。
緊張の糸が切れて大きくため息を吐き出せば、聖剣はひとりでにどこかへ消えてしまった。蓮は特になにかしたわけでもないのに。
まさかなにかやらかしてしまったのかと不安になるが、どうやらそうじゃないようで。
「普段はアヴァロンにあるんだよ。必要となった時、求めに応じて向こうから来てくれるさ」
「なるほど……なんか、生き物みたいですね」
「ああ、全くだ」
肯定する龍は微笑んでこそいたが、どうしてかその目は、どこか寂しげな光を宿している。深く追求することも憚れたので、蓮は切り替えるようにカゲロウの方へ振り返った。
「よし。じゃあカゲロウ、今日も相手頼むよ」
「今日もか? オレは別に構わんけど」
「今日もだ。たしかに聖剣は力強いけど、剣術はまだまだだからさ。ちゃんと鍛えないと」
何か言いたげなカゲロウに、頼む、と頭を下げれば、返ってきたのは呆れたようなため息。
「分かったよ。ほら、そうと決まればさっさと行くぞ」
「ああ。そう言うことだから、また後で風紀委員会室に顔出すよ。なにかあったら呼んでくれ」
「うん、行ってらっしゃい」
「頑張ってくださいねー」
葵と朱音に見送られ、蓮はカゲロウを連れ立って部屋を出る。
カゲロウには申し訳ないけど、しばらくはこんな感じで逃げの言い訳になってもらおう。
◆
「良かったんですか?」
「なにが?」
風紀委員会室へ向かう道すがら。朱音から尋ねられた葵は、分かっている癖にそう言ってすっとぼけてみせた。
事情を聞かされている朱音からすれば、なんとも白々しく見えてしまっているだろう。葵自身にもその自覚はある。
「師匠のことに決まってるじゃないですか。好きなんですよね?」
「うーん、まあ、そうだけど……」
相変わらずの直裁な物言いに苦笑いしつつ、それでもしっかりと肯定を示す。
今更そこを誤魔化したところで意味はない。自分の気持ちにも、蓮の気持ちにも、ちゃんと自分で向き合うと決めたのだから。
とは言え、だ。昨日、実際に蓮と話した末にケムに巻いて逃げたのは事実。ああやって揶揄うことができるのは、ひとえに碧のお陰だろう。家に帰ってから馬鹿みたいにめちゃくちゃ悶え苦しんで己の発言に後悔しては、碧の小悪魔スキルに何度感謝したことか。
ちゃんと向き合うと決めたものの、だからと言って素直になれないのが複雑な乙女心。
だけど、同じ乙女なのにそのあたりを分かってくれない朱音は、簡単に言ってのけるのだ。
「じゃあ師匠にちゃんと言えばいいじゃないですか」
「それが出来たらこうはなってないんだよ」
「はー、あれですか。葵さんも母さんとか父さんと同じパターンですか」
「あの二人と一緒にはしてほしくないかなぁ」
恋愛偏差値クソザコナメクジな二人と一緒にしてもらっては困る。だって私、あの二人と違って蓮くんの気持ち聞いてるし。
問題は、聞いてるくせになにも行動を起こせてないことなんだけど。
あれ、あの二人よりも重症では?
葵はそれ以上考えるのをやめた。
「ともかく、今はいいの。私が戻ってきたのは、蓮くんのこともあるけど。朱音ちゃんとかサーニャさんとも、一緒にいたかったからなんだからさ!」
「そう言われたら悪い気はしませんが。また別問題なのでは?」
「うぐっ……」
思わず納得してしまったけれど、そんなこと言われても仕方ないじゃないか。朱音も恋の一つくらいしたら理解できると思うんだけど、この子はそういうの出来なさそうだしなぁ。親があれだから。
「なんにせよ、さっさと決着つけた方がいいと思いますが。伝えたいことは、伝えられるうちに、ですよ」
◆
仕事があるらしい朱音と別れた後、一人で風紀委員会室に戻ってきた葵は頭を悩ませていた。もちろん、蓮のことである。
別に恋人同士になりたいとか、正直そこまで考えていなくて、ただ一緒にいられるだけでもう十分すぎるくらいなのだ。
この時点で、葵自身が恋愛偏差値クソザコナメクジと評した二人と同じ道を辿っているのだが、本人が知る由もなく。
「はぁ……どうしようかな……」
誰もいないのをいいことに、だらしなくソファで横になる葵。中途半端に行儀よく靴は脱いでる。
天井を見上げながら呟いてみたものの、いい案が浮かんでくることもない。むしろ浮かんでくるのは蓮の顔ばかりで、自分はいつのまにこんな馬鹿になってしまったのだと嘆息する。
こういういかにも乙女っぽい思考回路は、愛美さんの領分なのに。
しばらくそうやって頭を悩ませていると、それなりに時間が経過していたらしい。風紀委員会室の扉が開いて、蓮がやって来た。
「あ、蓮くんおかえりー」
「ただいま、って……葵、なんて格好してるんだよ……」
片手で顔を覆ってため息を吐く蓮。視線は明後日の方に向いていて、紳士だなぁ、なんて感心したり。
「ごめんごめん。一人だとついだらけちゃって。カゲロウは?」
「事務所に向かったよ」
ということは、変に気を遣われてしまったか。まああの半吸血鬼のことだから、葵にではなく蓮に、なのだろうけど。
あるいは、朱音が仕事だと言ってこちらに顔を出さなかったのも、葵に気を遣ったからなのかもしれない。
スカートを翻して立ち上がった葵は、紅茶を淹れにティーポットの方へ。その時蓮の視線が少しだけこちらに向けられたが、それを揶揄うには流石に勇気がいる。
「はい、紅茶」
「ありがとう」
ソファに座った蓮に紅茶を出してあげて、その隣に腰を下ろす。紅茶を飲みながらも不思議そうにこちらを見る蓮。にっこり笑顔で見つめ返して、少し距離を詰めた。
「あの、葵? なんか距離近くないか?」
「そう? そんなことないと思うけど」
そんなことある。部屋にはソファが二つあって、わざわざ隣に座るだけでもなんかあれなのに。その上二人の間には野球ボール一つ分しか距離がない。
明らかに近すぎる。
もちろん葵も分かってて近づいているのだけど。俄かに赤くなり始めた蓮の顔を見ていると、ほんの少し嗜虐心が湧いてしまったり。
「もしかして、嫌だった……?」
「いやっ、そんなことない。嫌じゃないよ」
「なら良かった」
あわあわする蓮を見て、葵は笑みを深くする。
そもそも、今まで距離を近くしていたのは蓮の方じゃないか。膝枕されたり、髪の毛触られたり。それなのに今になって、ちょっと近づいただけでこのザマとは。
愛美さんが織さんのこと揶揄う気持ち、ちょっと分かっちゃった気がするなぁ。
と、男性陣としては勘弁してほしいところに共感してしまっている葵。
「でも、いきなりはちょっとビックリするから、勘弁してくれ」
「前向きに検討する方向で善処しとくね」
「碧の悪いところだけしっかり受け継いでるんだな……」
「まあね」
得意げに微笑む葵だが、もちろん蓮を揶揄うためだけに近づいたわけではない。
改めて、実感を得たかった。
自分はここに戻って来たんだと。蓮のことが好きなんだと。そんな蓮の隣に、自分は今いるんだと。
その実感を。
すぐ隣から聞こえる声が、感じる体温が、葵の胸の奥にあたたかく染み込む。この人のことが好きなんだと、全身が叫んでる。
「あ、そうだ。ねえ蓮くん。昨日のことなんだけどさ」
「え、昨日の?」
「うん。私、途中で視覚共有切れてたって言ったじゃん? あの時あの子となにしてたのかなーって」
「あー……」
蓮が黒霧と呼んでいた、もう一人の葵。
ここから先は見せられないから、と。あの子は言っていた。だがそんなことを言われてしまえば、なおさら気になるというものだ。あの子が見せたくないと言うのなら、その気持ちを尊重したかったけど。
今となっては私自身でもあるんだし、別に問題ないよね。とか思ったりしてる。
が、どう言うわけか蓮の顔が急に真っ赤になった。
待って、待って待って本当になにがあったのなにしたのあの子は⁉︎
「秘密、かな。こればっかりは、葵にも言えないよ」
けれど、そう言って優しい笑顔を浮かべる蓮を見て、葵は詮索するのをやめた。
それはきっと、あの子と蓮の、二人だけの物語だから。
◆
事務所に帰ってきた朱音は、チマチマと残っている書類仕事を片付けていた。
以前にも増して依頼は少なくなったが、それでも全くないわけじゃない。二週間に一人程の頻度で、些細な依頼は舞い込んでくるのだ。
中には以前の花蓮と英玲奈の持ち込んだ依頼のように、裏の魔術師が絡んでいた、なんてパターンもあったり。
しかしまあ、基本的には平和なものだ。
ここ最近は棗市にもあまり魔物や魔術師の襲撃は起きないし、仮に起きたとしても朱音の結界で即通報からの即排除が可能。けが人や死者だって、今まで一人も出ていない。
朱音の正体もバレていないし、このまま両親が帰ってくるまで頑張るだけだ。
「にしても、頑張りすぎじゃねぇか? 結界張ってんのに見回りもして、魔力探知なんか一日に何回やってんだよ」
「私の勝手ですが。見回りも探知も、やる回数が多いのに越したことはありませんので」
蓮との特訓を終えて事務所にやってきたカゲロウが、ティーテーブルの方の椅子に腰掛けて苦言を呈する。
随分と懐いたらしいアーサーが足元にやって来て、カゲロウにモフられていた。
「そりゃそうだけどな。学院の仕事もあって、事務所の仕事もあって、そのうちぶっ倒れてもしらねぇぞ」
「それこそ私の勝手です」
「心配するやつらの身にもなれって言ってんだよ」
少し強めの語調で言われてしまい、流石の朱音も押し黙ってしまう。
カゲロウ本人はどうか知らないが、少なくともサーニャには心配を掛けてしまっているのは事実だ。もしかしたら、葵や蓮にも。
申し訳なくは思うものの、だからと言ってなにかを変えたりするつもりはない。それは無理をしているとかじゃなくて、朱音には確信があるからだ。
もしも自分がダメになった時、サーニャ達が助けてくれると。
両親が相手ならそうはいかなかった。むしろ両親を助けるためにこの時代へ来たのだから、あの二人も助けてくれるだろうけど、その優しさに甘えるわけにはいかなかったから。
だから、朱音が甘えられる相手というのは、両親ではなくて親代わりの吸血鬼なのだ。
「みんなの心配なんて、分かってますよ。私は、あの人たちにとって子供で、葵さんや師匠にとっては歳下の妹分。そりゃ心配されます。それでも、この街は私が守らないといけないので」
「……ま、分かってんならいいんだけどな」
カゲロウだって、朱音の強さはこの数ヶ月でよく分かった。
魔術や異能は強力だし、戦えば勝てるやつはいないだろう。転生者という性質上、多少は今の年齢に引っ張られるとは言っても、精神的な強さも持ち合わせている。
そんな人間が、一度崩れてしまえばどうなるのか。カゲロウを始め、サーニャたちが心配しているのがそこだというのは、朱音も理解している。
なにせ朱音の生まれた未来は、文明の崩壊した滅びの世界。生き残った人間は数少なく、敵はグレイただ一人。
つまり、今のこの状況、不特定多数の人間がいるこの街を守るというのは、朱音にとっても全くの未知。弱点も死角も多く存在する中で、果たして守りきれるのだろうか。
書類仕事の手を止め、鼻根を抑える。
難しいことを考えすぎたせいか、頭が痛くなってきた。
たしかに絶対の自信を持って守りきれるとは言い切れないが、とはいえやるしかないのが現実だ。
その力を、朱音は持っている。ならば後はその使い方次第。
椅子から立ち上がり、ハンガーに掛けていたブレザーを羽織る。アーサーが近寄ってきたが、それを手で押しとどめた。
「少し散歩してきます。留守番お願いしますね」
「本当に散歩だけか?」
「当然ですが。私だって休憩くらいはちゃんと取りますので。夕飯までには戻ります」
信用ないなぁと溜息吐きながら、朱音は事務所を出た。手早く北側の住宅地まで転移して、いつもの公園まで歩く。
今日は平日だけど、丈瑠はいるだろうか。猫たちは元気にしてるだろうか。
あの公園で過ごす時間は朱音にとって、今やサーニャたちと過ごす時間と並ぶ、数少ない癒しの時間だ。
公園に立ち入った瞬間に妙な気配を感じて、朱音は咄嗟に身構えた。
「これは、まさか……」
ブレザーの下、腰のホルスターに手を当てながら、いつも猫たちが潜んでいる茂みまで近づく。今は丈瑠もいないから、有事の際には戦える。
もしあの猫たちに危険が迫っていたら。考えるだけで怒りが湧きそうになるが、冷静を努めながら茂みをかき分けた先。
そこには、悪い予想通りの光景が広がっていて。
「嘘でしょ……」
かつて、朱音をここに誘った黒猫が、その姿を豹変させていた。
全身の筋肉が不自然なほどに膨張し、毛は逆立って、爪や牙も長く伸びている。
なにより顕著なのは、その身に帯びた魔力だ。ただの猫であるはずだったのに、魔力なんて持ち得るはずがない。
つまり、魔物化だ。
黒猫は唸りを上げてうずくまり、なにかを必死に堪えているように見える。きっと完全に魔物化していないのだろう。その周りには他の猫たちが心配そうに近寄っているが、いつ暴れまわるかも分からない。
どうしてこの子が。一体誰が。疑問は次から次に湧いてくるが、それを解消していく暇はない。今はこの黒猫をどうにかしなければ。
「たしか、葵さんたちの異能なら……」
元に戻せる。
人間が獣型の魔物に変質していたことは、朱音も報告を受けていた。その時には葵とカゲロウの異能で元に戻したのだと言う。
いや、あの二人を呼ばなくとも、自分のドレスなら可能だ。黒猫の中にある魔力を奪いさえすれば、元に戻せる。
そうと決まれば早くしなくちゃ。魔力を練り上げ、ドレスを顕現させようとして。
ふと、頭によぎるものがあった。
丈瑠は、猫と話せる異能を持っている。そして黒猫以外にも、この場にはいつもの猫が集まっていた。
もし、猫たちが丈瑠に、このことを話してしまえば。朱音の正体が露見することになる。
嫌われる、かもしれない。
一瞬だ。ほんの一瞬、躊躇いが生じた。
それが致命的な遅れになってしまうのに。
うずくまっていた黒猫が、立ち上がった。
「ぁ……!」
魔力を急激に増した黒猫の体が変貌する。
二本の後ろ足で立ち、小さかった体は朱音と変わらぬほどにまで大きくなっていた。瞳には明らかな敵意、害意が見て取れる。
理性を失い、朱音のことはおろか、周りにいる仲間の猫たちすら認識できていないのだ。
完全に魔物と化した黒猫が、大地を蹴り朱音に飛びついてきた。懐の短剣を抜こうとして、寸前で思いとどまる。
咄嗟に一歩横に避けたが、鋭い爪は朱音の左腕をブレザーの上から抉っていた。
「躊躇ってる場合じゃない、か」
今度こそドレスを顕現させようとするが、悪いことと言うのは重なるものだ。
振り返って黒猫と向き合った、その先。公園の入り口に、見知った男の子がいた。
「桐生?」
「丈瑠さん……⁉︎」
いつものようにキャットフードの入った袋を持った、猫たちの飼い主がわり。大和丈瑠が、そこに立っていた。
「こいつは、もしかして……」
「丈瑠さん、逃げてください!」
あれだけ愛情を持って接してくれていた丈瑠のことも分からないらしい。
跳躍した黒猫が、丈瑠へと襲いかかる。
背に腹は変えられない。自らの保身なんて二の次だ。私の目的は、この街を、この街に住む人たちを守ること。
なら、躊躇ってなんていられない。
「集え、我は疾く駆けし者!」
短縮した詠唱を口にして、黒猫の跳躍よりもなお速いスピードで丈瑠の前に躍り出る。爪が振るわれるよりも早く、黒猫の腹に拳を叩き込んだ。
短い悲鳴を上げた黒猫は距離を取り、威嚇するように唸りを上げている。
「桐生、君は……」
「丈瑠さんは逃げて下さい。それが出来ないなら、そこでジッとしていて」
背後から頷いた気配を感じて、朱音は構え直す。
これでもう、バレてしまった。隠すことはできない。怖がられただろうか。もう前までみたいに、一緒に猫のお世話は出来ないだろうか。
ああ、それでも構わない。
丈瑠を守って、黒猫を元に戻せるのなら。嫌われたっていい。
再び仮面をつけると決めた時から、覚悟はしていたのだから。
手元に仮面を転移させて、顔につける。一瞬だけ振り返ると、丈瑠が小さく呟いた。
「君がルーサーだったのか……」
仮面越しに合った目には、やはり恐怖と驚愕の色が。
朱音の表情は、丈瑠には見えない。見られるわけにはいかない。こんな、泣き笑いみたいな顔、まさしく朱音が隠したかった弱さなのだから。
「位相接続、敗北せし時の略奪者」
ドレスを身に纏い、右手を差し伸べる。
ただそれだけの動作で、黒猫の体内にあった魔力が朱音の元へと奪い取られた。
いや、魔力だけじゃない。異能の力も混じっている?
ともあれ、容易く元の姿を取り戻した黒猫は、衰弱しきった様子でその場に倒れていた。簡単な治療を魔術で施し、ドレスを解く。仮面を外して、丈瑠と向き合った。
「これが、私の正体です。騙していてごめんなさい」
「そんな、騙してただなんて……僕は……」
それ以上言葉が出ないのか、丈瑠は苦々しい表情で俯いてしまった。
予想していた反応だ。ここにいる猫が本来の住処を追いやられ、丈瑠が保護することになったのは、紛れもなくルーサーのせいなのだから。その本人が目の前にいて、今まで仲良くしていた相手だったのだから。
胸に痛みが走るけど、自然と笑みが漏れていた。互いにそれ以上なにも言葉を交わさず、朱音は公園を後にする。
もう、ここには来れない。
でも絶対に、こんなことをした犯人を突き止めてやる。
誰の前で、誰に手を出したのか。犯人に思い知らせてやらないといけない。
◆
「え、織くんと愛美ちゃんが?」
都内のなんの変哲もないマンション。魔術なんて全く関係ないそこが、人類最強夫婦の家だ。
有澄が作った絶品の夕飯を平らげた後、蒼は使い魔経由で受けた報告を有澄と共有していた。
「ああ、ネザーが本格的に動き出したらしい。その結果、あの二人は孤立無援に近い状態。どういうわけかグレイに助けられて、今はフランスにある怪盗の隠れ家に匿ってもらってるんだってさ。クリフォード邸の人たちも一緒に」
今日、つい先ほどのことだ。織と愛美が学院に嵌められて、指名手配のような状態に陥った。明日にも本部の人間が日本支部にやって来るだろう。
二人は暫く怪盗の元で厄介になるらしいが、機を見て戻って来るのだという。
「かなりマズイですね……」
「うん、マズイ。幸いなのは、グレイもネザーと敵対してることかな。同時に相手をしなくて済みそうだけど……」
人類最強と呼ばれる蒼ですら、異能研究機関ネザーのことは分からないことだらけだ。
その目的も、トップが誰なのかも。
分かっているのは、プロジェクトカゲロウが位相に関する計画だったということと、手段を選ばないということか。
徐にテレビへと手を向ければ、有澄もそれに釣られた。
夜のニュース番組は、魔物や魔術師と呼ばれる異形の怪物、またはテロリストについて語られている。
『政府はその対応として、特殊部隊を擁立したようです。各地に配属される特殊部隊は、魔物や魔術師と呼ばれる者たちの対応に当たるとのこと』
キャスターの読み上げた事実を元に、コメンテーターたちが勝手に持論を展開していく。
それを聞きながら、蒼はため息を一つ。
「魔術師と一括りにされてる以上、日本支部も危ないかもね」
「部隊の実績がある程度認められたら、攻め込んでくる可能性もありますね」
「そして、確実に裏でネザーが糸を引いている」
最も混乱が予想されるのは、桐生探偵事務所のある棗市だろう。あそこは魔術師が、朱音が常駐しているのだから。
「手は打ってあるんですか?」
「打ちようがない、ってのが残念なところだね」
いざとなれば、蒼自身が表に出なければならない。自分たちは敵ではないことを示さなければならなくなる。
間違いなく、今は世界の転換点だ。
「でもまあ、どうにかするさ。子供たちの未来は、僕たち大人が守ってあげなくちゃね」




