地獄の底に潜む真実 1
夏休みが終わり、二学期が始まった。
だからと言って夏は終わっていない。むしろまだまだこれからと言わんばかりに、外の気温は三十度以上を保ったままだ。
「本当に勘弁して欲しい……」
教室の自席で机に突っ伏してる葵は、呪詛のような言葉を吐いた。暑いし、しんどいし、肌はピリピリするし。いっそ雨でも降ってくれればいいのだけど、残念ながら空は雲ひとつない快晴。
こうなったら異能を使って、雨を降らせてやろうか。
本当に実行するわけでもないが、なんとなく演算を開始してみる。蓮もカゲロウもまだ来ないし、暇つぶし程度に。
と、思ったのだが。一分もしないうちに終わってしまった。暇つぶしにすらならないとは。我ながら演算速度が速すぎるなぁ、なんて自惚れてみたり。
冷静に考えれば、その演算能力だっておかしなものではあるのだ。いくら葵の異能に必要だからと言っても、そもそもが普通の人間は、この異能発動のための演算を行うことなんてできない。
異能は魂に宿る。そしてこの演算能力は、葵の脳に、つまりは肉体側に宿っているもの。仮に葵が普通の人間と同じ脳なら、この異能は宝の持ち腐れだった。しかし実際には、異能の力を十全に発揮できるだけの肉体を与えられている。
まるで、異能のために生まれてきたような。
バカな妄想だと切り捨てられないのは、自分と同じ異能を持っているやつがいるから。
通常、魂に宿るとされる異能は、この世に全く同じものが二つ以上存在することはあり得ないとされる。同じに見える異能でも、そのプロセスは違う。
朱音の場合はかなりの例外だ。あの子は、織と愛美本人ですらあったのだから。
でも、葵とカゲロウ、そしてあの出灰翠という少女は。みんな同じ異能を持っている。
情報操作。
可視化された情報を元に演算を行い、その変換、抹消、遮断、更には新たな情報の構築までも可能とする異能。
葵はその中でも、特に情報の変換を得意としている。先日戦った限りだと、翠は遮断を得意にしているのだろう。
だが、その異能自体は全く同じものだ。
プロジェクトカゲロウ、シラヌイ、ネザー。
そのあたりが葵たちの異能と、無関係なわけがない。
カゲロウの情報を視れたら一番早いのだろうけど、恐らくはカゲロウ自身の異能によってロックが掛けられている。何度試しても視れないということは、カゲロウの演算能力が葵を上回っているのだろう。非常に癪だが。
「葵、おはよう」
「あ、二人とも。おはよう」
考え事をしていたら、蓮とカゲロウの二人が登校してきた。カゲロウは蓮の後ろで大きな欠伸をしている。さしもの彼も、こんなに晴れていたら少しはつらいのだろうか。
「今日も暑いな」
「ねー、ホント嫌になっちゃう……」
「あと二ヶ月ちょいの辛抱だろうな」
「その二ヶ月が長いんだよ……」
いっそ本当に雨でも降らしてやろうかと思ったが、なんか怒られそうなのでやめた。ていうか、昼の葵ではそこまで大規模な力を使えない。
「そう言えば、葵は校外学習の話聞いた?」
「あぁ、なんか二年のこの時期に毎年のあるんだっけ? 愛美さんから話は聞いたことあるけど」
例年、二年生は夏休み明けに校外学習という名目で別の学院支部、もしくは本部へ行く。愛美も去年は中国支部に行ったと聞いてるし、今年はそこ以外のどこかになるのだろう。
逆に、海外の生徒たちが日本支部に来ることはない。正確には、来る意味がないのだ。
日本支部は魔術学院の中でも少々異質。前学院長によって現代の高校と変わらない形に作り変えられた。故に生徒たちは高校生に該当する年齢だが、それは他の支部と比べると平均年齢が低いということになるのだ。
そんな若造しかおらず、おまけに魔術の講義も少ない日本支部。来たところで特に意味はない。
「どうせだったらイギリスの本部がいいかなぁ。織さんと愛美さんに会えるかもだし」
「オレは本部なんか嫌だけどな。今まであいつらに散々追い回されてたんだ。そんな魔術師連中の本拠地とか、行きたくねぇよ」
「そんなことあったんだ」
半吸血鬼なんてのはたしかに珍しい。そもそも、吸血鬼を含む魔物自体が魔術師から敵視されているのだ。本部にいるガッチガチの魔術師なんかは、そりゃカゲロウをこぞって狙うだろう。
その場で殺されるだけならまだマシで、捕まればどんな実験や研究の餌食となるのか、分かったもんじゃない。
「まあ、その辺日本支部は緩いし、学院長が臨機応変だから」
「だといいけどな」
蓮の言葉に返しながら、カゲロウはチラリと教室内を一瞥する。
その視線の意味は葵も気づいてるし、恐らくは蓮もだろう。
たしかに日本支部は他の支部と比べれば、色々と緩いところはあるだろう。魔術の講義や鍛錬は午後からのみで、今まで生徒たちが受ける依頼は魔物討伐以外がメインとなっていた。
グレイとの戦いがあって以降、生徒たちの意識もある程度変わったとは思うが、それでも本部や他の支部に比べるとまだまだ。
だが、魔術師であることには変わりない。
魔物は駆除するべき敵。半吸血鬼は珍しい個体だから実験や研究に。
そんな思考が、ここの生徒たちにだって当然ある。それを表に出さないだけで。
カゲロウだけじゃない。サーニャだってそれは同じだ。
二人には学院長の後ろ盾があり、サーニャは実際にこの日本支部を救ってくれたこともあるから、生徒たちは黙って見ているだけ。
さてでは、そんな中。葵までカゲロウと同じだと知られれば、どうなることか。
早まるバカがいないことを、祈るのみだ。
◆
午前中の授業が終わってすぐ、葵たち三人は学院長室へ呼ばれた。
こうして足を運ぶのにも慣れたものだが、同時に厄介ごとの予感しかしないので、出来れば丁重にお断りしたいのが本音だ。
「悪いね、わざわざ呼び出して」
以前と違い、部屋の中には学院長である蒼本人のみがいた。おそらく有澄は図書室だろう。机の上には大量の書類が山積みにされており、その多忙さが窺える。
いや、この前は逃げ出したとか有澄が言ってたから、もしくは自業自得の結果なのかもしれないけど。
人類最強などという肩書きには似つかわしくない、人好きのする笑顔を浮かべる蒼に、カゲロウは怪訝な目を向けていた。
「お前がここのトップか?」
「ああ、そういえば君とは初対面だったね。小鳥遊蒼だ。一応ここの学院長ってことになってる。中々挨拶ができなくて悪かったね。この通り、忙しい身なもんで」
「いや、その辺は別に構わねぇよ。ここに置いてくれてるんだから、礼を言いたいくらいだしな」
蒼に対しても態度を変えることなく、堂々と話すカゲロウ。さすが、それなりに長く生きていないということか。
私だってまだちょっと萎縮するのに。なんか負けた気分なんだけど。
「それで、今回はどういう要件ですか?」
「まあ待ってくれ。あと一人呼んでるんだ。もう来ると思うよ」
蓮の言葉にそう返し、蒼は三人の背後にある扉を見据える。
程なくしてノックの音が聞こえ、開いたそこから現れたのは二人の人物。一人はやけにめんどくさそうな表情をした朱音だ。思いっきり眉間にしわを寄せている。彼女のそんな表情は初めて見た。
そしてその原因となっているのは、朱音が連れてきた男。見覚えがあるどころか、二人といない大切な兄。黒霧緋桜だ。
「お待たせしました、みなさん。連れてきましたよ」
「よ、葵。元気にしてたか?」
「お兄ちゃん?」
突然現れた兄に、動揺する。まさか、こんなタイミングで出て来るとは。少しまずいかもしれない。
カゲロウのこと、ではない。緋桜はこの半吸血鬼の存在を知っていた。
葵の体のこと、でもない。元々緋桜は、ネザーに所属しているのだ。兄妹で話したかどうかはともかくとして、プロジェクトのことについて知っていてもおかしなことではない。
それよりも、なによりも。
この場に蓮がいることこそがまずい……!
「それと、どっちがカゲロウだ?」
「オレがカゲロウだけど、なんか用か?」
「いや、お前に用ってほどのものはないんだ。重要なのは、そっちのお前」
「……え、俺?」
顎で示した先には蓮が。緋桜の隣では朱音が、腕を組んで大きなため息を吐いていた。そんな様子は愛美とよく似ている。さすがは親子。というか、朱音は愛美でもあったのだし、仕草が似るのは当然か。似てる、という言い方も少し違う気がするし。
いや、そうじゃなくて。
「なに、お兄ちゃん。蓮くんになんの用があるの?」
「まあ待て葵。別に取って食おうってわけじゃないんだ。ちょっと言いたいことがあるだけだよ」
蓮の前に立ちふさがった葵。その肩を半ば強引に押しのけて、緋桜と蓮が向き合う。
このシスコン兄は一体なにをしでかすつもりか。事と場合によっては一生口を利いてやらないことも視野に入れなければ。
「糸井蓮、でいいな?」
「はい。あなたは黒霧緋桜さんですね。葵から話は伺ってます」
「へぇ、どんな風に?」
「最近ちょっとシスコンすぎて鬱陶しい、と」
「うっ……」
先にダメージを受けたのは緋桜だった。眦には涙が溜まっている。
うん、まあ、蓮くんにはそんな話したこともあるけどさ……。
「ま、まあ、お兄ちゃんが妹のことを心配するのは当然だし、多少鬱陶しがられるのも覚悟してるけど……」
「ざまあないわね緋桜。妹から嫌われるのはどんな気分?」
朱音の口から聞こえたのは、普段の彼女の口調とは違う、けれどどこか聞き馴染みのある声音。
顔は確かに似ているけれど身長は違うし、声の高さも違うはずなのに。今の朱音は、なぜか彼女の母親にも見えてしまう。
それが、転生者というやつだ。
「うるせぇ愛美、じゃなくて朱音は黙ってろ。ていうか愛美と勘違いするから、その口調はやめてくれ。なんか余計にダメージデカイから……」
「わざとやってるんだけど」
「分かってて言ってるんだよ! ああクソッ、さすがあいつの娘だよお前は! いい性格してんな!」
「母さんならここぞとばかりにもっと畳み掛けてると思いますが」
「急に元に戻るのもやめろ!」
やりにくいなぁ、と呟く緋桜は、頭をガシガシと掻いている。たしかにほいほい口調が変わるのは、まるで人格が変わってるみたいでこちらとしては戸惑ってしまう。
そう、まるであの子達のように。
ここまで取り乱している兄を、葵は初めて見た。いつも冷静で、こんな姿は微塵も見せなかったのに。
あるいは、妹の前でだけ強がって、本来の兄はこれが地なのかもしれないけれど。
「話を戻すぞ。蓮、お前は葵の友達で間違いないな?」
「はい。一年の頃から、葵達とは仲良くさせてもらってます」
「……そうか」
蓮の言い回しに、思うところがあったのか。ひとつ息を吐いた緋桜は蓮の目を見つめて、その頭を下げた。
「すまなかった。直接の原因じゃないとは言え、俺は間接的に、妹を、お前の友達を消してしまった」
それは、兄妹の間でもついぞ交わされなかったやり取り。葵が、緋桜からの謝罪を拒んだから。謝って欲しくはなかったから。
だってあの子達を消したのは緋桜じゃない。そのつもりがあったのだとしても、実際に手を下したのは南雲だ。消えるのを受け入れたのはあの二人だ。
なにより元を辿れば、原因は今の葵だ。
だから、本当に謝るべきは私なのに。
お兄ちゃんは、なにも悪くないのに。
「やめてください、緋桜さん。俺に、あなたから謝られる筋合いなんてないですよ」
「……だろうな。だけどこれは、俺自身のケジメの問題だ。葵には謝るなって言われたが、お前には、どうしても謝っておきたかった。ただの自己満足だ」
「だとしても、黒霧達が今の緋桜さん見たら、なんて言うと思います? あいつなら、逆に緋桜さんに謝りかねないですよ。碧には思いっきりバカにされます」
「ハハッ、違いない」
二人は初対面とは言え、互いにあの子達との思い出がある。それが頭によぎったから、こんなにも懐かしむような優しい笑顔を浮かべているんだろう。
今の葵自身に思うところがないわけじゃないけど。それでもあの子達が、この二人から今もちゃんと想われていることを考えれば、それだけで十分だ。
「と、それはそれとして」
「はい?」
「うちの妹に変な真似したら、分かってるだろうな?」
「お兄ちゃんっ!!」
やっぱりそう言う話になるじゃんかこのシスコンは!
間に割って入り、緋桜の体を押して蓮から離す。朱音はまたため息を吐いていて、事の成り行きを見守っていた蒼は愉快げに笑っている。カゲロウに至っては、興味なさげにしてるし。他人事だと思って……。
「蓮くんはただの友達! そう言うんじゃないから!」
「葵の言う通りですよ。別にそう言う目で見てるわけじゃないから、安心してください」
「葵に魅力がないってことか?」
「厄介だなぁ本当にもう!」
一番相手にしたくないタイプのめんどくささじゃん!
内心で叫ぶ葵。身内の恥を晒した気分だ。しかし蓮は、あくまでも冷静に言葉を返す。
「そんなことないですよ。葵はたしかに可愛いし、十分魅力的な女の子だと思います。でも、俺にとっては友達の一人ですから」
こっちもこっちで、別の意味で厄介なのだけど。そうやって可愛いとか平然と口にしないでほしい。
やがて緋桜は何かを悟ったのか、なるほど、と口の中で呟き、葵の肩にポンと手を置く。ただそれだけで、特になにも言ってこないのが余計に腹立つなこの兄ぶん殴りたい。
「蓮、お前な……」
「どうしたカゲロウ?」
「……いや、なんでもない」
呆れたようにため息を吐くカゲロウだが、どうにもそのニュアンスは、蓮の言葉そのものに向けられているとは思えない。
友人の言葉の、その裏に、なにかを読み取ったのだろうか。
葵には見当がつかなくて、またしても対抗心と、あとはちょっとの嫉妬が。
「ともかく! お兄ちゃんは余計なこと言わなくていいから! 本気で嫌いになるよ⁉︎」
「はははまさか葵が俺を嫌いになるとかははは冗談はよせよははは冗談だよね?」
その問いには無言を返し、蓮とカゲロウ、それから朱音にも促してソファに腰を下ろした。緋桜は本気で泣きそうになっている。
勝手に泣いてろ。
◆
「さて、そっちの話がひと段落したみたいだし、いよいよ僕から本題を話させてもらうよ」
先程まで終始傍観に徹していた蒼が、一先ず場が落ち着いたのを見計らって声をかけた。
座る場所のない緋桜はその隣に立ち、まだちょっと悲しそうな顔をしている。
うぅん……やり過ぎたかな……今日からもうちょっと優しくしてあげよう……。
なんて思っちゃうあたり、葵も割とブラコンの気があったりするのだが、本人に自覚があるはずもなく。
「三人は、校外学習のことは知ってるかな?」
「あ、はい。私は愛美さんから話だけ聞いたことがあります。他の支部か本部に行くんですよね?」
「うん、例年通りならそうなんだけど、今年はちょっと違っててね。緋桜を呼んだのも、それが理由だ」
ああ、なるほど。ネザーの仕事があるはずの緋桜が、なぜこの場にいるのか疑問だったけど。ある意味、ここに来ているのもネザーの仕事のうちなのか。
「異能研究機関ネザー。そこに行け、ってことですか?」
無言で頷いた蒼が、隣の緋桜を見上げた。その視線に眉根を寄せながらも、緋桜が説明を受け継ぐ。
「夏休み中に沖縄で起きたことは、俺たちも聞いてる。葵、お前の体のこともな」
「……そっか」
「プロジェクトカゲロウに、葵がシラヌイと呼ばれた理由。そして、ネザーがカゲロウと葵を追うのはなぜか。俺はそれを、知っている」
半ば予想通りだ。兄なら何か知っているのではと、ずっと思っていたから。だから、衝撃はあまりなかった。きっと優しい兄は、葵のことを気遣ってなにも教えないでいたのだろうから。
「俺だけじゃない。サーニャさんも知ってるはずだ。ただ、俺もサーニャさんも、その全てを話せるわけじゃない」
「此の期に及んで、情報を出し惜しみか?」
「違うな、カゲロウ。出し惜しみするつもりなんてない。知っていることは全部教えるさ」
「じゃあなんで」
「まあ落ち着けよ。順序だって説明する」
そして緋桜は、語り始めた。
プロジェクトカゲロウが、果たしてどんな計画なのかに加え、その関係者全員が記憶改竄を受けていること、グレイにとってもネザーは邪魔であること。
あの事故の日、妹であるあの二人が生まれたあの日にすら、記憶改竄が及んでいることを。
「俺だけ記憶改竄の効果が薄れていることも、予想はつく。恐らくだが、この改竄は呪いによるものだ。それが魔術であれ異能であれな。ネザーを敵だと考えれば、そのどちらの可能性も捨てきれない」
呪いにとって重要なのは一つ。因果。
どれだけその呪いの本質、もしくは術者との関わりが濃いかによる。因果応報、という言葉もある通り、魔術であれ異能であれ、呪いや呪術と呼ばれる類のものはそれが重要だ。
プロジェクトの名を冠するカゲロウに、なぜかは分からないがシラヌイと呼ばれる葵。遺伝子を提供したグレイと、その全員になにかしらの因縁を持つサーニャ。
その四人と比べて、事故当時の緋桜はネザーそのものとの関わりが薄かった。プロジェクトカゲロウに関連する記憶への呪いと言うなら、緋桜の改竄が四人よりも早く解けるのは納得がいくのだ。
「サーニャさんがお前たちになにも説明しなかったのは、それが理由だ。あの人もプロジェクトカゲロウについては知っていても、深いところまで覚えてるわけじゃない。記憶が戻ってないからな。お前ら、サーニャさんとグレイは敵対してる、因縁があるって聞いてると思うけど、具体的にどうしてかは知らないだろ?」
そう言えば、聞いたことがなかった。幼い頃から面倒を見てくれていた葵だけじゃない。吸血鬼としての生き方を教えてくれたと言うカゲロウも、未来では親代わりとなってくれていたらしい朱音も。
サーニャに尋ねたことがないのもあるが、あちらから話してくれることもなかった。
「サーニャさんがどこまでプロジェクトに関わっていたのかは、俺も分からない。だからどの程度の改竄を受けたのかは分からないが、そもそも敵対している、ということすらも改竄された結果の記憶かもしれない」
「それか、敵対自体はしていたけど、その理由を忘れさせられてるか、ですね。私としては、こちらの方があり得そうだと思いますが」
なんにせよ、葵たちはここまで知ってしまったのだ。あとは直接サーニャに聞けば、今度は彼女の口から教えてくれるだろう。
彼女のことは一先ず置いておくとして、話は校外学習のことに戻る、
「今回はネザーの関東支部、まあ今は日本支部だな。関西は愛美たちが壊滅させたし。そこに来てもらうことになってる」
「目的は情報収集? でもそれだと、お兄ちゃんだけでも足りるよね」
「それどころか、あくまで見学っていう体の俺たちには、表の綺麗な部分しか見せてくれないと思う。普通なら」
「へぇ、結構頭が回るな。蓮の言う通り、それは普通の場合だ」
だが幸か不幸か、ネザーにとって魔術学院日本支部の二年生たちは、普通の来客ではない。
わずか二人ではあるが、やつらにとっての重要人物、ネザー風に言うならば、最高の研究成果がいる。
「そっか、私とカゲロウがいるなら、手を打たないわけがないよね」
「君たちが沖縄で遭遇した、出灰翠という半吸血鬼の少女。その子が出てくる可能性がある。葵と同じ異能を使ったんだろ? なら、その子もプロジェクトの被験体だったかもしれない。引き出せる情報はあるはずだ」
ネザーに対しては、現状で打てる手が少なすぎる。公に敵対しているグレイと違って、学院とネザーはあくまでも表面上協力関係に近い。ネザーには学院のOBが多数在籍していることがその証左だ。
そんな組織相手に、真っ向からぶつかるわけにはいかない。搦め手を使わなければ。
葵自身も、翠に聞きたいことがあるのだ。組織に属している彼女ではなく、出灰翠という個人に対して。
「校外学習は明後日。緋桜は向こうで合流として、龍と久井を引率につけるよ」
「えっ、久井先生が⁉︎」
「あの人が動くなんて……」
驚愕を露わにする葵と蓮。それもそのはず。
だって、あの怠け者の擬人化みたいな教師が学院から出る挙句、子供の引率を引き受けたなんて。
もしやその人偽物かなにかでは?
「君たちは彼女のことをなんだと……」
「ま、気持ちは分かるけどな。あの人は俺がいた時からあんなだし」
苦笑する蒼と、ここにいない久井本人をバカにしたように笑う緋桜。
いやだって、あの久井聡美ですよ? 日本一の錬金術師と聞いているけど、実際にその実力を見たことはない。なぜなら本人が面倒くさがるから。
「でも、実力はたしかだぞ。あの人、俺より強いからな」
「お兄ちゃんよりってことは……前までの愛美さんよりってことで……つまり私たちじゃ足元にも及ばないじゃん……」
あの二人の頃より強くなっている自信はあるけど、葵はそれでも、石を手にする以前の愛美にすら勝てる気がしない。織には勝てる。申し訳ないけど、普通に勝てる。
「朱音は来ないのか?」
「私は少し用事がありますので」
「仕事?」
「いえ、猫のお世話です」
「猫?」
なんじゃそりゃ。最近は事務所に顔を出してなかったけど、猫を飼い始めたのかな? まあ朱音も猫みたいなとこあるし。
などと謎の納得をしていた葵だが、カゲロウが補足を入れてくれた。
「こいつ最近、野良猫の世話してんだよ。なんでも、猫と話せる異能持ちと知り合ったらしい。オレはそいつと会ったことないけどな」
「野良猫……」
「はい、大事な用事ですので」
力強く言われてしまえば、葵も反論は出来ない。朱音には毎回助けられてばかりだし、葵たちが知らないところでも戦っているのだろう。もしその猫との時間が、少しでも朱音の癒しになるのであればそれでいい。
「ですので、葵さんたちにはこれを渡しておきます」
朱音が懐から取り出したのは、四本の注射器だ。中には赤黒い液体が入っている。
差し出されたそれを葵とカゲロウで二本ずつ受け取り、まさかと思って聞いてみた。
「これ、もしかして朱音ちゃんの……」
「はい。私の血ですが」
「えぇ……」
「お前はまたそんな簡単に……」
葵は半ばドン引きしながら、カゲロウは頭が痛いと言った様子で呟く。
カゲロウも、この前の沖縄の時は緊急事態だっから仕方ない、と思っていたのだろうけど。こうも簡単に手渡されては、やはり思うところがあるか。
「その翠と言う人は異能も魔術も吸血鬼の特性も、全部使えていたんですよね? なら葵さんたちも、万全の状態じゃないと厳しいと思いますが」
「それはそうだけどさ。だからって、そんな簡単に渡していいものじゃないと思うよ?」
「たかが血ですよ。抜きすぎて死ぬなんてこと、私はありませんから。これがなければ、現地で調達する羽目になるかもですが。どうします? 師匠の血を飲みますか?」
「うっ、いやそれは……」
蓮の血を飲むのは、ちょっと……いや別に蓮が嫌だからってわけじゃなくて、朱音と違って血を飲みすぎたら貧血で倒れちゃうし、すぐに回復できるわけでもないし。
なにより、この前みたいに牙を突き立てないといけないのだ。それは、なんと言うか、さすがに羞恥心が勝る。
「別に俺はいいよ?」
「バカ蓮、お前はただの人間なんだから、軽々しく吸血鬼に血を渡そうとするな」
「でも、それで葵とカゲロウを助けられるなら、俺は喜んで差し出すよ」
蓮の目は本気だ。そこに嘘偽りなど見て取れない。いつもそうだ。素直な気持ちを、真っ直ぐ言葉にする。
たしかにそれは美徳だけど、この場合はその気持ちの方に問題がある。
「分かった、これは受け取っとくね。蓮くんから血は貰わない。だから、もうちょっと自分の体を大切にして?」
「それ、葵には言われたくないな」
むっ、ここで笑われるのは心外だ。
まあたしかに、そう言われても仕方ないことはしてきた気もするけど。
「注意事項はひとつ。使う時は、一度につきひとつです。本当は注射器一本ずつでもいいと思ったのですが、一応予備ということで」
「うん、分かった。ありがとう朱音ちゃん」
「二つ一気に使ったらどうなるんだ?」
「過剰摂取で最悪自我を失います。理性を失った吸血鬼ほど、恐ろしいものはありませんので。お二人は半分以上人間といっても、吸血鬼の本能に勝てるわけではありません。本当に注意してくださいね」
絶対に一本ずつしか使わないようにしよう。
心にそう固く誓って、葵は注射器を懐にしまった。
「さて! じゃあ今日のところは解散だ。各自、明後日に向けて準備しておいてくれ」
そこはかとない不安は残るけれど。
龍や久井がいるし、朱音から非常用の血液も貰った。なにかあれば、私が蓮くんとカゲロウを守ればいい。
なにより、お兄ちゃんがいる。だから、大丈夫だ。なにがあっても大丈夫。
後は、真実を知る覚悟を決めるだけ。




