海に揺らめく光 4
巨大な触腕が蠢き、高い波が砂浜に押し寄せる。人間が捕まってしまえば、ひとたまりもなく体を砕かれてしまうだろう。しかし巨大な分鈍重なそれは、空を飛ぶ三人を捕らえることはない。
「こうもデカイと動きも遅いな!」
「油断しないでください! 次が来ますよ!」
クラーケンの頭に、魔法陣が広がった。そこから放たれるのは、鉄をも両断する超高水圧の水だ。
避けることは出来ない。三人の背後には、ホテルが建っているから。
ならば受け止めればいいだけのこと。水色の髪をなびかせた有澄が前に躍り出て、魔力を解放する。
「氷鏡盾!」
クラーケンの放った水のレーザーが、氷の鏡に吸い込まれる。同じ氷の鏡がクラーケンを囲むように展開され、そこから己の魔術であったはずの水が放たれる。
躱すこともなく直撃するが、当然のようにダメージは入っていない。やはり、水の魔術は通用しないか。
「第三術式解放、深淵を覗き叫ぶ招雷!」
雷の弾を二つ放つ朱音。着弾した二本の触腕に、天から稲妻が降り注いだ。朱音が持つ術式の中で、最も高威力な雷の魔術だ。稲妻は触腕を焼き、本体まで感電させる。
そのはずだったのに。
「効いてない……?」
「どうなってんだよオイ!」
別の触腕から逃れるように飛ぶカゲロウが叫んでいるが、朱音にだって分からない。
たしかに触腕に直撃したはずだ。手心を加えたわけがない。それなのに、朱音の魔術は触腕を焼くこともなく、ダメージらしきものは全く見受けられない。
まさか、と。一つの答えらしきものに行き当たる。だがそれは、本来ならクラーケンが持ち得ないものだ。しかし現実として、この巨大な海魔の防御力は、それでしか説明がつかない。
「神氣、ですね」
「でも有澄さん、クラーケンがそれを持ってるのは……」
神氣。
本来ならば神の持つその力は、ただの海魔であるクラーケンが持っているわけがない。
そしてその神氣に抗える力は、同じ神氣を帯びたものと、その他例外の異能のみ。
朱音の切断能力ならば、問題なく対処できるだろう。だが、斬るにはあまりにもデカすぎる。
あるいは、レコードレスなら。神氣を奪うことも出来るだろうが、扱いを間違えればどうなるか分かったもんじゃない。
「なんて、びびってる場合じゃないですね。やるしかないですか」
「頼みます」
賢者の石から、位相に接続を開始する。キリの人間にのみ許された、絶対の力。それを顕現させるために力を解放しようとして。
「ギャハハ! やらせるわけないよなぁ!」
「イヒヒ! それはさすがに困るもんなぁ!」
「っ……⁉︎」
突如聞こえたのは、酷く不愉快な笑い声。振り抜かれた二つの凶悪な爪に、朱音は位相への接続を中断せざるを得なかった。
咄嗟に後退して攻撃を躱すが、どうやら状況は悪くなったらしい。
「悪魔……」
「上手くおびき寄せられた、という感じではありませんね」
今回の仕事、本来の目的であった二匹の悪魔が、その姿を見せた。
一度クラーケンの背後まで下がった二匹は、朱音や有澄との実力差を弁えているのだろう。随分と殊勝なことだが、魔術師にとって、特に朱音たちのような実力者にとっては、その距離などあってないようなものだ。
「ふっ……!」
「ギャハハ!」
「イヒヒ!」
二匹の背後に転移した朱音の短剣は、悪魔の片割れに難なく受け止められた。もう一匹が振るう爪を躱して、再び距離を取る。
やはり、異能が通じない。
あらゆるものを切断する、桐原愛美としての力。絶死の威力を秘めたそれが、やつらには通用しないのだ。
「朱音ちゃん、落ち着いてください。まずはクラーケンをどうにかするのが先決です」
「……分かってますが」
悔しさに歯噛みする。あの日逃したグレイへの手掛かりが、こうして目の前に現れたのだ。本当なら悪魔の相手に専念したい。けれど、状況がそれを許してくれない。
「オイ、なんなんだよあいつら!」
「あなたを追っていたグレイの手先ですが。まさか知らなかったのですか?」
「は? オレが追われてたのはあんな化け物じゃねぇぞ」
違う? どういうことだ。あの二匹はたしかに、カゲロウを拾った日に遭遇した。だからてっきり、あの日カゲロウがボロボロだったのも、こいつらにやられたものだと思っていたのに。
考えている暇はない。クラーケンの触腕が今もこちらに襲いかかってきているのだから。
「ああクソ! いい加減鬱陶しいな!」
叫んだカゲロウが、爆発的な加速力で宙を駆ける。まるで一本一本が別の生き物のように動く触腕の、全てを紙一重で躱しながら。
やがてクラーケンの頭上まで肉薄したカゲロウが、魔力を纏わせた拳を振り上げる。
「これでもッ、食らえ!!」
吸血鬼の膂力を持って振り下ろされた拳が、クラーケンの頭をめり込ませた。体勢を崩し、体の半ばを海に沈める海魔。
ダメージが入ってる。攻撃が通用してる。
カゲロウが拳に纏わせた、あの魔力。そこに帯びたのは、クラーケンと同じ力。
どういう原理かは分からないが、カゲロウも神氣を操っているのだ。
そのまま畳みかけようとしたカゲロウだったが、クラーケンは完全に海底へと潜り込んでしまった。触腕だけが伸び、先程までとは比べものにならない俊敏さで、半吸血鬼の少年を狙う。
「クラーケンはわたしとカゲロウ君に任せてください。朱音ちゃんは、あの悪魔を」
「分かりましたが……」
チラと背後の砂浜を見やる。
そこにいるのは、葵と蓮の二人。魔力の翼が暴走して、周囲の砂を巻き上げている。あちらの状況は見えない。
葵にはまだ時期尚早だったかと後悔するが、ここは信じるしかないだろう。
「ギャハハ! やべぇぜ兄ちゃん! ネザーのやつまで来やがった!」
「イヒヒ! これは急がないとなぁ!」
聞こえた来た悪魔たちの声に、まさかと思い今度は体ごと後ろに振り返る。
砂埃が晴れたそこにいるのは、葵と蓮の二人以外にももう一人。認識阻害をかけたフードの人物が。
その何者かと二人が、戦闘を始める。
分からないことは後に回せ。今はそんなことより、目の前の悪魔に集中だ。
「異能が通じないなら、魔術で圧倒するまで。賢者の石の力、見せてあげます」
◆
突如現れた謎の人物。 フードを被った何者かと戦闘を始めた葵と蓮は、自分たちが思っていた以上に善戦していた。
「炎纒!」
炎を身に纏った葵が刀で斬りこめば、敵は槍と斧が一体化した武器、ハルバードで迎え撃つ。鍔迫り合うのもほんの一瞬。四方から魔力の糸が襲いかかり、敵は距離を取った。
逃がすわけがない。軌道を変えた糸が追撃し、葵は背後に転移して刀を振るう。
しかし糸はハルバードで、刀はフードの中から伸びた機械の尾で防がれた。
小さく舌打ちをして、蓮の隣まで転移して後退する。先程からずっと同じだ。
敵は防戦一方。葵と蓮の攻撃に対して反撃に移ることもなく、こちらが有利なはずなのに。どうにも攻めあぐねている。
「攻めきれない……!」
「葵、異能は?」
「さっきからずっと全開だよ。でも、通用してない」
葵の何気ない刀の一振り、その全てが、相手の存在を構成する情報を破壊し尽くすものだ。朱音の血を呑んだ今、二ヶ月前のあの日と同じ力を使える。全力以上の力を出せる。
けれど実際はどうだ。何合も打ち合ったハルバードは未だその形を保っている。
そうでなくても、炎纒を発動しているのだ。あの斧槍を融解させるだけの熱を放っているのに。
なにより。なにより、だ。
「情報が視えないの。認識阻害のせいかと思ったけど、それだけじゃない。カゲロウの時と同じで、なにかに遮断されてる感じがする」
「異能?」
「多分」
それで会話を終わらせ、葵は再び地を駆ける。異能が通じないなら、純粋な力で圧倒すればいいだけ。今の葵には、その力がある。
理由はわからない。それでも、使えるものは使わなくては。
刀とハルバードがぶつかり合う、コンマ数秒前。フードの人物に無数の糸が殺到する。
少しでもズレてしまえば、葵の体ごと貫いてしまう絶妙なタイミング。息のあった二人だからこそ可能とする、時間差の連携攻撃。
ハルバードは葵の刀に対処するため動き出している。であれば、動かせるのは機械の尾だけだ。
しかし二人の目的は、単なる攻撃ではない。
糸を叩き落とそうと機械の尾が振るわれるが、その寸前で蓮が手元を手繰り糸の動きを変える。
機械の尾に巻きつく糸。大きく飛び退いた葵がそのうちの一本に手を触れ、魔力を流した。
「……っ!」
敵が驚いたような気配を見せたが、もう遅い。糸を伝って放たれた魔力が、炎となって敵の体を焼く。
手応えはあった。けれど警戒は解かない。相手は未知の敵だ。これまでの攻撃が通用していなかったこともある。この程度で終わりではないだろう。
敵を包んでいた炎が消えると、やはりまだ立っている。ただ、身に纏っていたフードとマスクは焼け落ち、その顔が露わになっていた。
「女の子……?」
短い灰色の髪をした、葵たちと歳の変わらない少女。その顔に表情というものはなく、機械のように冷たい視線が、二人を射抜く。
同時に、認識阻害が外れたことで断片的な情報が視界に映った。
「出灰翠……それが、あなたの名前なんだ」
返す言葉はない。再びハルバードを構えるのみ。それを返答と受け取って、二人も構え直す。相手は自分と同年代の女の子だ。できることなら戦いたくはないが、あちらに話し合いの意思があるようには思えない。
そう覚悟を決めなおした葵が、纒いを切り替えようとして。
「魔力、解放」
風が、荒れ狂った。
凄まじい魔力濃度に、空気が震えている。先程まで魔力を感じられなかったのは、彼女が魔力を持っていないからではなかった。
ただ、隠していただけ。
そして、理解する。体の奥底、本能に似た部分が、訴える。目の前にいる少女は、己と同族だと。
「蓮くん、下がってて……」
「でも、葵一人じゃ……!」
「ダメなの……この子は、マズい……」
震えた声を絞り出した、次の瞬間。
隣にいた蓮の体が、後ろに吹き飛んだ。
「蓮くん!」
蓮が立っていた場所には、既に翠の姿が。その背中には、灰色の翼が三対。
下段から振るわれるハルバードを、なんとか刀で防ぐ。
一撃が重い。
「くッ、雷纒!」
纒いを切り替えてその場を離脱。吹き飛ばされた蓮の元へ駆けつければ、腕が有り得ない方向に曲がり、脇腹のあたりには酷い腫れが。咄嗟にガードしたのだろう。致命傷は見られない。
「蓮くん、大丈夫⁉︎」
「なんとか……腕と、肋骨が何本かやられたかな……」
とにかく治療だ。骨折程度なら、軽い演算のみで異能による治療ができる。患部に手を当てて治療を施す寸前。
鋭い殺気を感じて、中断せざるを得なかった。
振り向きざまに刀を振れば、容赦なく襲ってきた翠と再び激突する。
「邪魔しないで!」
足場の悪い砂上で踏ん張りをきかせ、刀を振り抜いた。空中で態勢を立て直した翠へ、葵は雷よりも余程速いスピードで肉薄する。
蓮の治療をするには、先に翠をどうにかしなければならない。ただの骨折。出血はないとは言え、急がなければ。
何度も響く甲高い金属音。振るう刀は一つ足りとも体に届かず、斧槍で全ていなされる。その度に焦燥感が沸き起こり、動きは精彩を欠いていく。
そして何度目かの鍔迫り合いで、葵は気づいた事実を口にした。
「私と同じ異能……信じられないけど、そうなんだよね?」
「……」
やはり返答はない。だが、葵の中では確信していた。
葵の異能は情報操作。この世に存在しているあらゆるモノの情報を視界に映し、それを変換、抹消、遮断させるもの。また、なにもない場所に新たな情報を構築するものだ。
幻想魔眼やレコードレスなど、位相に関わるものでなければ、ただ一つの例外もない。
それが通用しないとなれば、答えは一つしかなかった。出灰翠も、あるいは同じ現象を起こしたカゲロウまで。葵と同じ、情報操作の異能を持っている。
詳しく教えてほしいところではあるが、状況がそれを許さない。最優先事項は蓮の治療。そのためには、邪魔をする翠をどうにか排除しなければ。
「悪いけど、全力全開で行かせてもらうから!」
異能によって底上げされたパワーで、翠を地面に叩き落とす。
練り上げた魔力を全て解放し、巨大な魔法陣を描いた。そこから現れるのは、雷の体を持った巨人。葵が持つ最大の魔術。
「帝釈天!!」
本物の神の力、神氣を帯びた豪腕が、一切の情け容赦なく振り下ろされた。
◆
神の力を帯びたクラーケン。それに対抗するのは、何故か同じ神氣を纏うカゲロウ。
彼自身、そのあたりの細かい理屈は全く理解していなかった。ただ、他の奴らと違って自分が殴ればダメージはある。なら死ぬまで殴り続ける。その程度の認識だ。
しかし一方で、己の持つ異能については理解している。今までは死にそうになった時くらいしか使えなかったが、朱音の血を飲んだことで、今限り十全に扱えるその異能。
誠に遺憾ながら、クソ親父やあのチビと同質の力。
「チマチマ殴ってるんじゃ埒があかねぇな!」
「何本か削りましょうか」
共闘している有澄が、一際大きな魔法陣を展開する。海底に潜むクラーケンも、その脅威を察知したのだろう。一本の巨大な触腕が鏃のように迫るが、魔法陣に容易く阻まれてしまう。
そこから魔力が吸い取られる。神氣を帯びていようが関係ない。魔導収束とは、それが魔力である限り、神の力さえも吸収してしまう。人類最強は、そのようにして作ったのだ。
「絡み取れ、白薔薇!」
氷の茨が触腕に絡みつき、瞬く間に凍らせてしまった。有澄が杖を軽く振れば、砕けて海の底へと落ちていく。
これでまずは一本。残り七本だ。
「三本ほど任せますね」
「全部任せてもらってもいいけどな」
「心強いです」
次の魔術の準備に入った有澄を横目に、カゲロウは異能を発動させる。
虚空に伸ばされた右手。なにもないそこに、情報を構築する。そうして握られたのは、白く輝く大剣だ。
今まで自由に使えたことなんて一度もなかったが、なるほどこれは便利だ。
そして、実感する。この異能が自由に使える今に限り、魔力を自由に扱えると。
己の情報すらも操ってみせるその異能は、カゲロウが持つ魔術への制限を、完全に排除していた。
この身に流れる魔力を、殊更に意識する。吸血鬼の特性として与えられた、強力で濃密な魔力。それを一気に、外へと解放した。
吹き荒ぶ風が海を揺らし、カゲロウを脅威と認めた触腕が動く。
解放された魔力は、カゲロウの背中へと収束する。形成するのは葵と同じ、けれど色の違う三対の白翼。
「ぶちかます!!」
足元に広がる魔法陣。身の丈ほどもある大剣を片手で横薙ぎ振れば、魔力の斬撃が放たれた。一本、二本と触腕を切り落とし、それに飽き足らず、全ての触腕が海の底へと沈んでいく。
腕を全て斬り落とされたクラーケンが、再び浮上してきた。後は本体を叩くだけだ。
「トドメは貰いますね」
突撃しようとしていたカゲロウを押し留めたのは、この場に似つかわしくない酷く柔らかな声。
少し後ろを飛んでいる有澄の体からは、異様な魔力を感じられる。
量や質がおかしいのではない。いや、それらも十分に規格外だが、もっと本質的なところが、違う。この世界に存在している魔力と、異なっている。
「海に入られたままだと、二次被害が凄いことになりそうですし……」
「んなっ……!」
カゲロウが驚きに目を見張るのも当然。
全長二十メートル。その巨体が、浮いたのだから。
重力に逆らってるとか、そういうのはどうでもいい。そんなもの、この空にいる全員がそうだ。しかし、例え魔術であったとしても。あの巨体の重量を浮かせるなんて、相当な力が必要なはずなのに。
「オーバーロード、限定解除」
有澄の右腕が、変質する。鋭い爪と、冷気を纏った白い鱗。即ち、龍のそれへと。
差し伸ばした右手の先で、複雑な五重の魔法陣が展開された。カゲロウは知る由もないが、それは既存の魔術法則には存在しない、文字通り異世界の魔術。位相の向こう側からやってきた、この世界とは異なる力。
「えいっ」
そんな気の抜けた掛け声と共に、絶対零度の光が放たれた。射線上の悉くを凍てつかせる龍の息吹。それは神の力を帯びた海魔ですら例に漏れず。
氷に囚われた巨体は、いとも容易く。その氷ごと粉々に砕け散ってしまった。
「マジかよ……これ、別にオレいらなかったやつじゃねぇか……」
海へと落ちていく氷の破片を見ながら、カゲロウの開いた口は塞がらない。
「そんなことないですよ。時間稼ぎはしてくれましたし、十分です。さ、葵ちゃんたちの方に向かいましょう」
「仮面女の方はいいのか?」
「問題ないですよ。朱音ちゃんは、わたしより強いですから」
今の光景を見せられた後にそんなことを言われても。
反応に困るカゲロウだったが、有澄がおもむろに砂浜へと視線を向けたことで、釣られてそちらを見る。
そこには、雷の体を持った巨人が。異能が使える今ならわかる。あれは、葵の魔術だ。
しかし、どうにも嫌な予感がする。不安を拭いきれないまま、有澄が転移を発動させた。
◆
「ギャハハ! クラーケンがやられちまったぜ兄ちゃん!」
「イヒヒ! もしかしなくてもヤバイかもなぁこれは!」
朱音の放つ魔力弾を躱し、弾きながら、二匹の悪魔は不愉快な笑い声を響かせる。
クラーケンを倒したのは朱音も見えていた。カゲロウの異能に、有澄が使った異世界の魔術。その二つには興味が尽きないが、色々と聞くのは全てが終わった後だ。
「こっちも、そろそろ終わらせた方が良さそうかな。葵さんの方もやばそうだし」
小さく呟き、朱音は力を解放する。
先程は邪魔された位相の接続。何度か試みようとしたが、その度にこの悪魔どもは隙を突いて攻め込んでくる。
レコードレスがいくら絶対の力を持っていても、やはり発動させる際には隙が生じてしまうものだ。そこを突くのは、戦い方として正しい。仮に朱音でも同じようにしていただろう。
「ギャハハ! 使わせるわけないだろ!」
「イヒヒ! 何回やっても同じなんだよ!」
だからこそ、対処法を用意してないわけがないのだ。
二匹の悪魔が、猛烈なスピードで肉薄してくる。その凶悪な爪が届く、その前に。
銀色の炎が、朱音の身を包んだ。
「やっぱり。周囲の時を止めるのはダメだったけど、時間の流れが違う場所に身を移せば、干渉してることにはならないもんね」
転生者の炎。朱音の持つ銀炎は、時間操作の力を持つ。
時間遡行や停止、加速に停滞、巻き戻しとなんでもござれ。この様に、自分の体を別の時間流に置くことも出来る。
ここでは、周囲の時は止まったも同然。正確には動いているのだが、朱音が今身を置いているこの中では、現実よりもずっと速く時間が流れている。あまり長く滞在できるわけではないのが難点だが。
「位相接続、略奪せし時の敗北者」
ドレスを身に纏い、悪魔から距離を取って銀炎を解除する。
「ギャハ⁉︎」
「イヒ⁉︎」
水着姿だったはずの朱音が、いつの間にかシャツの上から黒いロングコートを羽織り、朱色のスキニーパンツを履いた仮面の敗北者へと様変わりしていた。
戸惑う二匹の悪魔だが、朱音はその隙を決して逃さない。
「ギャ、ハハ! こいつは、ヤバイぜ……! 兄ちゃん!」
「イヒ、ヒ! これは俺たち死んだなあ!」
この二匹は、グレイの異能によって作られた人工悪魔だ。その起源自体に異能の存在がある。であるならば、朱音のレコードレスで奪えない道理はない。
「そう簡単には殺しませんが。まあ、一匹いれば十分ですので。片方は潰しておきましょうか」
手元で短剣を弄ぶ朱音が、酷く冷たい声音で言い放った。
そして、なんの前触れもなく。兄と呼ばれていた方の悪魔が、爆発四散する。
「ギャハハ! 兄ちゃんが死んじまった! ひでぇことしやがる!」
「……少し、黙れ」
「ギャハ──」
残された悪魔の動きが、完全に停止した。殺してはいない。ただ止めただけ。レコードレスでその存在を奪った以上、この悪魔は朱音の操り人形だ。コントロール権は朱音にある。
「本当に、酷いことなんですよ。家族が奪われるって言うのは」
青い空に溶けて消えた呟きは、誰の耳にも届かない。
悪魔を銀炎で包んでこの場から消し、朱音も葵たちの元へ急いだ。
◆
砂塵が舞う。地面に電気が這い、その余波はすぐそこのホテルにまで影響を及ぼしていた。今頃中に隠れている人たちは、突然絶たれた電気に右往左往していることだろう。
それを申し訳なく思いつつも、葵にそんな余裕はなかった。インドラは元々、細かい制御が効かない。まだ倒れているだろう蓮の体は異能で守っているものの、他に気を回すことなんて出来なかった。
「これなら、さすがに!」
葵が持ち得る最大火力だ。もしかしたら勢い余って殺しかねないほどの。
だが、砂塵が晴れて視界に映ったのは、そんな予想を裏切る光景で。
翠の体を守るように、炎で形成された巨大な腕が展開していた。翠自身には傷一つなく、無感情な瞳で上空の葵を見上げている。
「そんな……」
絶対の自信を持っていた。この際細かいあれやこれやは問わないが、今の葵には朱音の血による恩恵がある。インドラ自体の火力もある。異能によるブーストだって掛けた。
その上で、あの少女は。葵の攻撃を、真正面から受け切ってみせた。
炎の腕が消える。翠から急速に戦意が消え始め、釣られて葵もインドラを解いた。
地面に降り立ち、ハルバードをどこかに消した少女と向かい合う。そしてゆっくりと、その口が開かれた。
「シラヌイ。あなたは、プロジェクトカゲロウを覚えていますか」
「え……?」
問われた言葉の意味が分からない。
なぜ彼女は、自分のことをシラヌイと呼ぶのか。あの半吸血鬼と同じ名を冠したプロジェクトカゲロウとは、一体なんなのか。
葵が知るわけがない。そもそも、翠がどこの何者なのかすら、葵の視界には映らないのだから。分かっているのは、出灰翠というその名前だけ。
「覚えてないのなら構いません。しかし我々ネザーは、最高の研究成果であるあなた達を、必ず取り戻します」
「待って!」
それだけを言い残し、翠は音もなく姿を消した。分からないことが、聞きたいことが山ほどできたのに。
いや、今はそこに拘泥している場合ではない。早く蓮の治療をしなくては。
踵を返して駆け出そうと一歩を踏み出して。
「あ、これヤバイかも……」
葵は膝から崩れ落ちた。みんなの声が聞こえる。それぞれの相手と決着をつけて、駆けつけてくれたのだろうけど。
その声が、どんどん遠くなる。意識が朦朧として、肌が焼けるように暑い。
喉が、渇いた。




