海に揺らめく光 3
波打ち際で水面を覗き込むのは、フリルがあしらわれた白い水着の少女。長く艶やかな黒髪に、太陽の光が反射して煌めかせている桐生朱音は、底を見通せる程に透明な海を不思議そうな顔で眺めていた。
「こんな綺麗な海があるんですね……」
足にかかる波が冷たくて気持ちいい。彼女の海に関する記憶の大部分は、決して人が立ち入れないものとして占められていた。
クラーケンを始めとした強力な魔物に、魔力で汚染された水。
母なる海が人類に対する脅威でしかない、そんな世界で生きていたのだ。
「どこでもここまで綺麗ってわけじゃないけどね。沖縄はちょっと特別だよ」
そんな朱音を後ろから見守る葵は、黄色いビキニとホットパンツ型の水着に身を包んでいた。上半身の露出度が高くて恥ずかしいが、開き直ってしまえばこちらのものだ。
周囲には多くの人が海や砂浜を楽しんでいるものの、葵に注目しているわけでもない。
注目を集めているのは、もう一人の同行者。
水色の長い髪を風になびかせ、豊かな胸を白いビキニで包み、パレオから長い脚を伸ばしている彼方有澄だ。
「有澄さん、綺麗だなぁ……」
「ふふっ、ありがとうございます。葵ちゃんもよく似合ってますよ」
しかし当の本人は、周りからの視線なんてどこ吹く風。注目されることに慣れているのだろう。それらに対してなんの感情も向けていない。普通なら、下世話な視線を鬱陶しがったりするもんだと思うのだが。
さて。そんな水着姿の三人がいるのは、もちろんホテルが所有しているプライベートビーチ、海水浴場だ。
男二人にも声を掛けているから、そのうち来るとして。それまでは三人で遊んでいようと、葵も海に近づく。
「葵さん、海で遊ぶって具体的にどうすればいいんですか?」
「んー、泳いだり、水掛けあったり?」
「楽しいんですか、それ?」
「どうだろ……」
というのも、実は葵も海で遊んだことなんてなかったりする。なんか楽しそうなイメージがあったものの、実際に来てみればなにをすればいいのか分からない。ていうか葵は、あんまり泳ぐのが得意ではないし。
こういうのは蓮が詳しそうなのだが、彼は未だ姿を見せないし。ここは歳上として、朱音をリードしてあげないといけないのだろうけれど。
どうするべきかと悩んでいれば、背後から声が掛けられた。
「お嬢ちゃん達、もしかして海での遊び方分からないのかな?」
「俺たちが教えてあげようか?」
振り返った先にいたのは、見知らぬ男二人組。外見から察するに、大学生くらいだろうか。遊び慣れてそうな感じのあるチャラい男だ。
その見た目ゆえに、葵は察する。これが噂に聞く、ナンパというやつか、と。
まさか自分がその被害に遭うとは思ってもいなかった。朱音は歳の割に大人っぽい顔つきだからともかく、自分はこんなちんちくりんなのに。
しかし一緒に来ているのは、朱音だけではない。保護者というか、引率的な位置にいる大人が一人いるのだから。
「葵ちゃん、朱音ちゃん、どうかしましたか?」
二人の様子を見ていた有澄が、異変を察知して直ぐに駆けつけてくれる。これで助かったと思うのも束の間、残念ながら有澄の存在は、この場においてマイナスにしかならない。
「おお、これまた美人さんっすね」
「どうです? お姉さんも一緒に」
元々周りから注目されるレベルの美人だ。ナンパ男どもが放っておくわけない。
「あら、お上手ですね。でも遠慮しておきます。他にツレもいますから」
「まあまあそう言わずにさ!」
「ツレの人たちが来るまででいいから!」
鬱陶しいですね、と隣から小さく聞こえた。
たしかに鬱陶しい。太陽の暑さも相まって、正直葵も苛立ちが募っている。
尚もしつこく有澄に食い下がる男二人。さすがに有澄も辟易としてきたのか、大きくため息を吐いた。
「行きましょう、二人とも。これ以上この人たちの相手をしてても仕方ないですし。蓮君とカゲロウ君も来ましたから」
「え、二人来てるんですか?」
歩き去る有澄の後ろについて、砂浜の方へと戻る。視線を向けた先には、たしかに蓮とカゲロウの姿が。二人とも水着姿で、パーカーを羽織っている。
しかし、おかしい。なぜ蓮は、魔力を放出しているのか。
首を傾げながらも歩き出すが、ナンパ男がそれで諦めるはずもなく。一人が追いかけようと足を踏み出した、その瞬間。
「うおぉっ⁉︎」
「え、お、おい! 大丈夫か⁉︎」
男の体が軽々と浮かび上がり、海へと放り投げられた。突然の出来事に驚くもう一人だが、遅れてそいつの体も海に投げ飛ばされる。二人の体にか細い糸のようなものが巻きついているのを見て、葵は察した。
あー、なるほどね、やっちゃったかぁ……。
犯人である蓮の隣では、カゲロウが頭を抑えている。どうせなら止めて欲しかった。
「葵、大丈夫だった?」
「ああ、うん、大丈夫だったけど……あれはやり過ぎじゃない?」
駆け寄って来た蓮に、少し呆れ気味の言葉を返す。神秘の秘匿がその意味を消失してしまっていても、わざわざ人目のある場所で使うものではない。
投げ飛ばされた二人も、そんな二人を不思議そうに見ていた周りの人間も、なにが起こったのかは理解できていないだろうけど。
「やり過ぎなわけあるか。葵は可愛いんだから、もうちょっとああ言う奴らのこと警戒しとかないと」
「……うん、ありがとね」
面と向かって可愛いなんて言われて、ちょっと照れてしまう。そして今更のように、水着姿が恥ずかしくなって来た。
「師匠! どうですか私たちの水着! 可愛いですよね!」
と、最悪のタイミングで朱音が切り出す。
待て待て待て、まだ心の準備とか、そういう諸々が出来てないのに、この脳内ピンク一色娘は……!
「うん、二人ともよく似合ってて可愛いよ。有澄さんは綺麗すぎて、ちょっと近寄りがたいくらいです」
和かな笑顔で紡がれたのは、そんな当たり障りのない言葉。有澄と朱音が礼を返して、それでその話はお終い。
そのはずだったのに、おめでたい思考回路をしたマセガキは、それで終わらせてくれなかった。
「葵さんはどうですか? 可愛いですよね⁉︎」
「ちょ、朱音ちゃん⁉︎」
朱音に背中を押されて、蓮の前に立たされる。羞恥心を押し殺して見上げた蓮は笑顔で。けれど、一瞬だけ。どこか別の場所を、別の人間を見ているような目になって。
ああ、やはりだ。やはりと、そう言わざるを得ない。
今、彼の目に映っているのは、私じゃない。
ほんの少し、チクリと胸を刺す痛みがあって、それから。
蓮が羽織っていたパーカーを、肩に掛けられた。
「これ、羽織ってたらいいよ。その水着、葵によく似合ってるし、可愛いけどさ。陽も強いし、ちょっとつらいだろ?」
「うん……」
たしかに、つらい。陽の光なんかよりも、今はその優しさが。
そのつらさから身を守るような、パーカーの前をぎゅっと引き寄せる。
どうしてここにいるのが、あの子達じゃなくて私なんだろう。意味のない自問自答は、やはり答えを持たない。
ふと、やけに大きなため息が聞こえた。俯いてしまった顔を上げれば、カゲロウがガシガシと頭を掻いていて。
「おい仮面女。かき氷食いに行くぞ」
「その呼び方、やめてくださいと前にも言いましたが。私には桐生朱音という、両親から貰った名前がありますので」
「いいから、さっさと行くぞ」
「……仕方ありませんね。有澄さんも一緒に行きましょう」
「はい。二人は何味がいいですか?」
「あ、私はいちごで……」
「じゃあ俺も」
「分かりました」
海の家に向けて歩いて行く三人。呼ばれ方に対して文句を並べる朱音と、適当に受け流しているカゲロウ。その二人の少し後ろを、見守るように歩いている有澄。
三人を見送って、葵と蓮は荷物を置いているパラソルの下のレジャーシートに腰を下ろした。
「気を遣わせちゃったかな」
「だね……」
朱音はおそらく、カゲロウとは違った理由からだろうが。
あの半吸血鬼の気遣いが、今は恨めしい。なにか話さないといけないことでもあると、そう察してくれたのだろうけど。
「ごめん、葵」
間をおかずして聞こえたのは、謝罪の言葉。反射的に視線をやった隣の蓮は、酷く沈痛な表情をしていて。
「なんで、謝るの?」
「……まだ、色々と吹っ切れてなくてさ。どうしても、あいつの影を見ちゃうんだ。今ここにいるのは、お前なのに。だから、ごめん」
カゲロウが気遣ったのは、葵にではない。蓮に対してだった。
なにか言いたそうにしているのが、彼には伝わったのだろう。
なのに私は、自分のことで頭がいっぱいで、それどころか悲劇のヒロイン面までして。
バカだなぁ、と。内心で自嘲する。蓮がどういう男なのか、分かっていたはずなのに。
「謝るようなことじゃないよ。私だって、なんでここにいるのが私なんだろう、って思っちゃったし」
「それは……」
「それは、ダメだよね。蓮くんにも、朱音ちゃんにも、有澄さんにも失礼だ。みんなと一緒にいるのは、他の誰でもない私なんだからさ」
分かっているのだ。ここにいるのは自分自身で、あの子達はこの場にいなくて、それは変えようのない現実で。
分かっているのに。それでも、考えてしまう。なんで、どうして、と。残酷な現実に自分を合わせられるほど、葵は強くないから。
「俺は、ここにいるのが葵で良かったと思うよ」
「……あの子達は、いなくて良かったってこと?」
「違う、そうじゃない。たしかにあの二人がここにいないのは、俺も悲しいよ。本当なら、三人ともが居てくれれば良かったんだと思う。黒霧と、碧と、その上で今の葵もいて、みんなで笑いあえるのが、理想だった」
そう、理想だ。そして叶わないからこそ、それは理想と呼んでしまう。
「あの二人はどこにもいない。それでも、葵がここにいてくれる。それが俺にとって、どれだけ嬉しいことなのか。多分葵は、分かってないよ」
あの二人を否定せず、今の葵を肯定してくれる。いつだって、蓮はそのように接してくれていた。
葵自身がどのように悩もうと、蓮はたしかに、今の葵を見てくれている。
それが、どれだけ嬉しいことか。蓮の方こそ、分かっていないのかもしれない。
「ついでにこっちも、分かってなさそうだからもう一回言うけどさ」
微笑を向けられて、瞬間、時が止まったように錯覚する。周囲の喧騒も、波の音も、全てが遠くに聞こえて。ただ、目の前の笑顔に釘付けになる。
「その水着、似合ってて可愛いと思う」
ゆっくりと開かれた口から、優しい音で紡がれるのは。紛れもなく、今の葵へ向けた言葉。
彼が黒霧と呼んだあの子でもなく、碧でもない。この場にいる葵へ向けての、嘘偽りない彼の気持ち。
「だから、ちゃんとパーカー羽織っててくれ。また誰かに声掛けられたりしたら、嫌だからさ」
「……うん」
せこいと思う。自分の気持ちに素直で、真っ直ぐにそれをぶつけてくるのは。
蓮の顔がまともに見れなくなって、葵は砂浜に視線を落とした。
◆
海の家へとやってきた朱音を待っていたのは、耐え難いほどの大量の誘惑だった。
「有澄さん、焼きそば食べたいです! あとフランクフルトと、ポテトフライと! あ、サーターアンダギーもあります! この前テレビで見ました! あれも食べたいです!」
「はいはい、待ってくださいね。全部頼んであげますから」
店内は様々な食事を手にしている多くの客で賑わい、立ち込めるソースの香りが空腹を刺激した。
海の家、かくも素晴らしい場所だったとは。
名前の割に海要素が少ない気もするけど、まあどうでもいい。目の前に食事があるなら、食べなければならない。
どの道少し時間をおいてから戻る予定だったし、中でゆっくりしていても大丈夫だろう。
有澄が一通りのメニューを頼んでくれたので、それを持って三人で席につく。
サーターアンダギー以外にも沖縄料理がいくつかと、焼きそばやフランクフルトなどの定番どころなどなど。その量の多さに周りの客から注目を集めるが、食事を前にした朱音がそれに気づくこともない。
「いただきます!」
元気よく声を上げて食べ始めた朱音。それを対面から見つつ、カゲロウは苦笑した。
「ホントよく食うな、こいつ。こうしてると、マジでただのガキだ」
「忘れがちですけど、朱音ちゃんもまだ十四歳ですからね。いくら転生者とはいえ、精神年齢は引っ張られますから」
対して有澄は、そんな朱音を微笑ましく見守りながら、小さな口でサーターアンダギーを食べていた。
「それにしても、あいつは上手くやってんのかね」
「カゲロウ君、意外と気が利きますよね」
「意外とは余計だ。まあ、無駄に長く生きてねぇからな。あのちんちくりんがなんぞ悩んでんのも、蓮がなにか言いたそうにしてるのも、見てたら気づく」
「やっぱりあなたも、師匠と葵さんはお似合いだと思いますよね!」
面白そうな話が聞こえて、食事を中断してカゲロウに話を振る。が、残念ながら同意は得られず、目の前の半吸血鬼はため息を吐くのみ。
「なんでお前はそう言う風にしか考えらんねぇんだよ」
「違うんですか?」
「違う。オレはあのチビに気を遣った覚えなんてねぇし、あいつらをそう言う風にも見てねぇよ」
なんだ、てっきりカゲロウも、自分と同じ理由で葵と蓮を二人きりにしたのだと思っていたが。
しかし、それはそれで納得のいく話だ。
カゲロウは、本当に人をよく見ている。それは朱音も理解しているところであり、葵との共通見解でもある。
友人のちょっとした心の機微に気づいたのだろう。カゲロウにとって、葵の事情なんて知る由もない。それでもこの半吸血鬼は、蓮の様子からなにかを汲み取った。
誰にでも出来ることじゃないはずだ。あるいは、自分の父なら、同じことをしていたかもしれないけれど。
「あの二人、お似合いだと思うのですが」
「その辺は本人次第ですよ。私たち外野がとやかく言うものじゃありません」
「そ、そうですね……」
イマイチ歯切れの悪い朱音に、有澄が首を傾げる。
以前事務所で、押し倒せばいいとか精神魔術使えばいいとか、とんでもないことを言っていたのを知っているから、朱音は素直に頷けなかった。
あれから色々と本を読んだので、今の朱音はそれが間違いだと分かっているのだ。
「分かってんなら、あんま口出ししてやるなよ。そのうちしつこがられて嫌われるぞ」
「なっ、そんなわけありませんが! 私だってその辺りの分別は付きますので!」
「どうだかな」
ふっと鼻で笑うカゲロウに食ってかかろうとした瞬間。
カゲロウの表情が、えらく真剣なものに変わった。その視線は海の方へ向いている。
だがそこには、変わらぬ景色が広がるだけだ。多くの人が泳ぎ、また砂浜で思い思いに遊んでいる。
「……来るぞ」
小さな呟きを耳にして、朱音と有澄もようやく気付いた。
海の底で蠢く、異様な魔力。昼に現れる可能性も考慮していたが、まさか本当に来るとは。
「有澄さん!」
「分かってます」
短く言葉を交わした数秒後。
三メートルを越す津波が、この海水浴場に迫っていた。
「お、おい、なんだあれ⁉︎」
「津波だ、逃げろおおおお!!」
瞬く間に阿鼻叫喚と化す海の家。いや、店内だけでなく、外にいる人々も悲鳴をあげて逃げ惑っている。
問題は、先程まで泳いでいた人たちだ。このままではあの津波に飲み込まれてしまう。
無詠唱で海上に転移する有澄。その足元に魔法陣が広がれば、津波は見えない壁にぶつかった。
同時に、朱音は小さく詠唱して泳いでいた人たちを海の家付近に一斉転移させる。
「行きますよ。まずは葵さんたちと合流しましょう」
「ああ」
人の波に逆らいながら、朱音とカゲロウも戦場へと向かった。
◆
「葵さん!」
「朱音ちゃん、あの津波って……!」
「はい、やつが来ました」
戻ってきた朱音とカゲロウ。その二人と合流した葵と蓮も、当然ながら事態を把握していた。押し寄せる津波は有澄がどうにかしてくれたものの、それで終わるわけがない。
引いていく波の中で、何本かの触腕が蠢いていた。海上に浮遊している有澄がそこへ魔力弾を放てば、その全容が現れる。
「嘘でしょ……」
「これは流石に……」
「ヤベェな……」
「思っていたより、更に大きいですね……」
計八本の触腕、イカのような体。伝説にある通りの姿をしたクラーケンが、海底から浮上した。
二十メートル。実際に目にしたその巨体は、想像の何倍も大きかった。いや、全長が二十メートルというだけで、そこから更に触腕の長さや幅なども考慮していなかったこちらの落ち度なのかもしれないけど。
それにしたって、大きい。
それ以外に形容できなかった。
「どうすんだよオイ、こんなのとどう戦えってんだ?」
「大規模魔術、を使うには、避難が間に合ってませんね」
チラリと砂浜を見渡す。中には避難するつもりがないのか、カメラやスマホを構えてるバカまで何人か見受けられた。
が、朱音が小さく舌打ちをして、転移で無理矢理どこかへ飛ばしてしまう。単純に逃げ遅れてる人たちもいる。その全員を転移させるには、あまりに手間がかかる。飛ばす先も選ばなければいけないのだから。
問題はそれだけじゃない。昼間に現れた際の、最も大きな懸念事項がまだ残っている。
「オレもこいつも、昼じゃ全力を出せねえぞ」
そう、カゲロウは半吸血鬼ゆえ、葵はその体質ゆえに、太陽が昇っている間は全力を出せない。本来の予定では、朱音の魔術と葵のインドラで仕留める予定だったのだ。
己の体質が恨めしい。その理由も原因も一切が不明な体質に、なぜ振り回されなければならないのか。
「一応、対処法はあります」
言って、手元に転移させた抜き身の短剣を、あろうことか手首に当てる朱音。
「ちょ、朱音ちゃん⁉︎」
「朱音⁉︎」
驚く葵と蓮だが、カゲロウだけはその意図を汲み取っていた。
血の滴る手首を、カゲロウが手に取る。そして一切の容赦なく、その傷口に牙を立てた。
あまりにも躊躇がなさすぎる。カゲロウではなく、朱音が。
自分の肌を斬り、吸血鬼に血を飲ませる。その行為が一体なにを意味するのか、この少女は分かっているのだろうか。
いや、分かっていて、やっているのだろう。
「ぷはっ、ごちそーさん。久しぶりに吸った気がするな」
「それはどうも。私の血は体に馴染むはずですが。賢者の石の魔力がありますので」
「おう、結構体が軽い。多分今なら、異能も使える」
その言葉を証明するように、カゲロウは砂浜を駆け出して宙に浮いた。
魔術を使えるはずのないカゲロウが、だ。
実際に魔力は感じられない。どのような異能かは知らないが、本当に使えているらしい。
そして有澄の元へと向かったカゲロウを見送った朱音は、次に葵へと手首を差し出した。
「葵さん、次はあなたの番です」
「え、私……?」
「はい。私たちの推測が正しければ、ですが。これであなたも、本来の力を使えるはずです」
それは、どういうことだ? カゲロウと同じことをしろと、この血を吸えと、朱音は言っている。
でもそれは、まるで吸血鬼のようで。
ドクン、と。
胸が高く鳴った。未だ朱音の手首から流れる血の赤が、どうしようもなく美味しそうに見える。言いようのない飢餓感に襲われる。
喉が、渇く。
その飢えを満たせと、渇きを潤せと、本能が叫ぶ。太陽の光が、今まで以上に強く感じられて、頭がクラクラする。
思考は上手く回らず、理性の糸が焼き切れる音を聞いて、目の前が真っ白になった。
「葵!」
自分を呼ぶ声にハッとすれば、体の内側に湧き上がる力を自覚した。魔力が、全身に流れる。これ以上ないほどに澄み切った感覚。
ついにその身の内では収まり切らず、三対の黒い翼が噴出する。
「わた、しは……なにを……」
口の周りに何かが付着している。腕で拭えば、血の赤が。
まさか、そんな。脳内で否定を重ねても、この身に湧き上がる力が、なによりの証明となっていた。
「やはり、ですか」
「朱音ちゃん、なにをしたの……? 私は、どうして……」
「説明は後ですが。今は、アレをどうにかするのが先なので」
それだけを返し、朱音もクラーケンの元へと飛ぶ。残されたのは、葵と蓮の二人だけだ。
自分がなにをしたのかなんて、状況を見れば一目瞭然だ。
朱音の血を吸った。身体を襲った衝動と本能のままに。なら、どうして? 朱音の血が幾ら魔力に溢れているからといって、普通の人間はその血を吸っても力を得られないのに。
私が、普通の人間じゃないから?
太陽の光とはまた違った要因で、立ちくらみに襲われる。
否定したいのにしきれないその事実を、こんなにも突然目の当たりにして。
「なんで……私は、人間のはず……黒霧の家で生まれたんだから……」
頭が、痛い。
知っている光景が、脳に過ぎる。
満月の夜
漂う黒い霧
輝いた鉤爪
赤く染まる視界
目の前に立つのは、灰色の男
ああ、そうだ。この光景は知っている。家族で車に乗っている時、グレイとあのガルーダに襲われた時の光景。
その筈なのに。それが、ありもしない景色へと歪んで変わって。
どうして、灰色の男が。私を庇うように立っているのだろう。
信じていたはずのものが、崩れ落ちる。自分という存在が分からなくなる。
私は一体何者で、あの日の記憶は、あの二人が生まれた時の記憶は、なにが本物なのか。
自己を見失いかけた葵の身体を、なにか、暖かなものが包んだ。
「落ち着いて。大丈夫だから」
「蓮くん……?」
蓮に、抱きしめられている。
よく見れば、周囲は酷い惨状だった。魔力の翼が勝手に暴れたのか、砂浜は抉られ、パラソルは折れて破れて、すぐ足元にあった荷物なんてどこへ行ったのか。
なにより、蓮の体には無数の傷が。
「これ、私が……」
「葵が何者であっても、俺は葵の友人だ。それだけは変わらない。だから、分からなくなったら、俺を道標にしてくれ。な?」
ギュッと力強く抱き締められて、葵は落ち着きを取り戻す。
このあたたかさが、心地いい。
数秒の間だけ蓮に甘えて。もう大丈夫だと伝えるように、体を離した。
「ごめん、蓮くん。ありがとう」
「いや、いいよ。ちょっと恥ずかしかったけど、役得だとでも思っとく」
「……もう」
冷静になった途端、蓮に抱き締められていた事実を今更ながら自覚して、葵は頬が熱くなる。だが、そうしている暇はない。
三人はすでにクラーケンとの戦闘を始めている。私も、直ぐに向かわなくちゃ。
「カゲロウ、及びシラヌイを発見した」
突然、背後から声が聞こえた。
反射的に振り返った先には、フードを目深に被り、認識阻害のマスクをした謎の人物。
「こいつは……」
「クラーケンを召喚した魔術師、ってわけじゃなさそうだな……」
刀を現出させて構える葵と、魔力を練り上げる蓮。
突然現れた謎の人物から、魔力は感じられない。魔術師ではないのはたしかだ。そして、こちらに敵意を見せているのも。
チラと上空を見やる。どうやらあの三人もこちらの異変に気付いたようだが、クラーケンから手を離せないらしい。
いや、より正確には。クラーケンの背後で不愉快な笑いを響かせる、二匹の悪魔か。
いつの間に現れたのかは分からないが、あれでは救援は望めないだろう。
「やるよ、蓮くん」
「ああ」
蓮が魔力の糸を射出したのと同時に、葵は翼をはためかせた。




