変化の先で 1
満月の照らす夜。鳥や虫の鳴き声だけが響く森の中に、不自然な草の揺れる音が混じった。風によるものではない。生物がそこを通った音だ。
発生源は、二つ。
かたやジーパンにティーシャツと、ラフな出で立ちをした少年。特徴的な灰色の短い髪を風になびかせながら、人間ではあり得ないスピードで森の中を駆ける。
「クソッ、まだ追ってくんのか! オレみたいな半吸血鬼に何の用があるんだよ!」
その十メートルほど後方。常にその距離を維持して少年を追跡するのは、フードで完全に姿を隠した誰か。顔も見えない。いや、認識できない。
魔術を使えない少年の与り知らぬところだが、認識阻害の魔術によって正体が隠されていた。
なにより驚くべきは、少年のスピードに追従していることだ。
己が人外の力を使っていることは、少年とて自覚がある。半分は人間ではない。今日のような満月の日には、その力がより増す。
だと言うのに。追跡者は、一向に速度を落とすことなく、少年との距離を保っている。
なぜ追いついてこないのか。遊ばれている? なんのために?
湧いて来る疑問は、首を振ってかき消す。今は逃げることが優先だ。
ただひたすらに真っ直ぐ駆け抜けた先。森の出口が見えた。力を振り絞り、更にスピードを上げる。
やがて森を出たその先には、底の深い崖が。飛び越えようとして、しかし。少年は見た。
崖の底に、川が流れているのを。
吸血鬼の弱点。その一つに、こんなものがある。
曰く、吸血鬼は水を渡れない、と。
それが海であれ、川であれ、例外なく。
「嘘だろ……」
気付いた時には、既に遅い。跳躍したその勢いは急激に衰え、少年の体は崖の底へと落ちていった。
遥か下に流れる川を眺め、追跡者は踵を返す。死んでしまったと諦めたのか、はたまた別ルートから捜索を続けるためか。
そうして森には静寂が戻り、月は変わらず夜を照らしていた。
◆
魔術師、及び魔術世界に秩序を敷く機関、魔術学院。その日本支部は、富士の樹海内に存在している。
学院という名の通り、未熟な魔術師の卵を養成する組織でもあるのだが、同時に卒業したOBたちの活動拠点にもなる。斡旋された依頼をこなし、報酬として賃金を得る。それが魔術師の仕事だ。
そんな魔術学院日本支部に、生徒として所属する少女、黒霧葵は、自分以外に誰もいない風紀委員会室でため息を吐いた。
「なんか、静かすぎるな……」
二人の先輩が旅立ってから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
表社会にまで侵食し始めた魔物の脅威。世界各地に散りばめられた、賢者の石。それらを取り除くために立ち上がったあの二人は、ここにいない。
今の葵自身、彼らと過ごした記憶はあれど、思い出と呼べるものは一つもなかった。それらは全て、二人の妹のものだ。自分は記憶を共有してはいるものの、思い出と呼んでいいものではない。
それでも。桐生織と桐原愛美に惹かれていたのは、尊敬していたのは、変わらぬ事実で。
風紀委員自体も、まともに機能していなかった。本来なら学院内の秩序を保つための組織だ。私闘を禁止されたこの魔術学院で、それでも暴れるバカを取り締まるための組織。
二ヶ月前に起こったあの戦いから、一度たりとも風紀の仕事をしていない。
端的に言えば、生徒たちにそんな余裕がなくなったのだ。
世界はその在り方を変えてしまった。昼間だろうが街中だろうが構わずに出現する魔物。その魔物の力自体も、灰色の吸血鬼の仕業でより強力になっている。やつの血を取り込んでいるだけなら、まだマシな方だ。その上で賢者の石すらも埋め込まれた個体だっている。
そんな中、今まで通り学院内でバカな争いを続けるやつはいなくなった。
それはきっと、いいことなのだろうけど。どこか寂しいような、物足りないような。
気分転換に紅茶でも飲もう。座っていたソファから立ち上がり、電気ケトルの方へと足を向ける。マグカップの準備をしていると、トントン、と扉が叩かれた。どうぞと声を掛けると、現れたのは茶色い髪をワックスで整えた、クラスメイトの友人。
「やっぱりここにいた」
「糸井くん、どうしたの?」
かつての自分、妹であるあの子に託された後悔と未練。そのひとつであるのが彼、糸井蓮とのこと。
二ヶ月もあれば、葵も普通に接することは出来るようになっている。その内に抱く複雑な心境はさて置き、だが。
「どうした、ってことはないんだけどさ。授業終わったら、黒霧の姿が見えなかったから。ちょっと心配になって」
「そう、なんだ……」
前言撤回。全く普通にできていない。
漂う雰囲気はどこかぎこちなく、互いに言葉を探り合っているような状態。
こんなはずじゃ、なかったんだけどな。
本当はもっと上手くやれるはずなんだ。現にあの子は、蓮の気持ちを知ってもなお、友人同士として上手くやっていた。その記憶を知っている以上、今の葵にだって同じことができるはずなのに。
それが出来ないのは、負い目を感じてるからなんだろうか。
例え誰になんと言われようと、自分の身代わりとなってあの二人が消えたのは、変えようのない事実だから。
「なあ黒霧」
名前を呼ばれる。その呼ばれ方をされるべきあの子は、もういないのに。
同じ黒霧で。同じ葵でも。私は、彼が好意を寄せていた黒霧葵ではないのに。
「俺はさ。今のお前とは、友達でいたい」
蓮の口から放たれたのは、意図の読めない一言。友達で、いられているはずだ。それが形だけのハリボテだとしても。少なくとも、その形だけは保っている。
そう思っているのは、私だけだった?
そんな疑念を、続く言葉が払拭してくれる。
「俺は、あいつが好きだったよ。今のお前じゃない、消えちゃった黒霧葵が」
「……うん。知ってたよ」
「そっか、そうだよな……同じ顔で、同じ声で、同じ名前をしてるお前じゃなくて、たしかにここで生きてた黒霧葵って女の子が、好きだったんだ」
「私とあの子達は違うって、そう言いたいの?」
「いや、そういうことが言いたいわけじゃないんだ。前に湖でガルーダと戦った時、今のお前と初めて会った時に、碧にも言ったんだけどさ。あいつらもお前も、全部ひっくるめて黒霧葵だろ?」
「そういえば、そんなことも言ってたね」
「だから、なんて言うのかな。うまく言えなくてもどかしいんだけどさ……」
そこで、言葉が途切れた。
ほんのりと頬を朱に染めた蓮は、照れているのか、後頭部のあたりを掻いている。
でも葵には、蓮が何を言いたいのか伝わっていた。言葉よりも雄弁に。
糸井蓮は、覚えていてくれる。あの子達がここにいたことを。たしかに生きていたことを。それが嬉しくて。ありがたくて。
蓮の言う通り、あの二人と今の葵。その三人全てをひっくるめて黒霧葵だ。でも、あの二人と今の葵が別人であることも事実。
「黒霧って呼ばれるの、他人行儀みたいな感じがしていい加減嫌なんだよね」
「え?」
だから、やり直そう。
あの子に託されたものがあるからって、あの子達のように振る舞う必要はない。
私は、私として。目の前の男の子と友達になればいい。
「葵って呼んで? 私も、下の名前で呼ぶからさ。それで改めて、私と友達になろうよ」
今までとほんの少しだけ、声色が変わった。
いや、恐らくは。こっちが本当の葵だ。今までは消えてしまった妹のように振る舞っていただけで、今の黒霧葵の素はこちらなのだろう。
そう理解した蓮が、屈託のない笑顔を向ける。この二ヶ月見れなかった、けれどあの子には向けていた笑顔。
「そうだな。じゃあ改めてよろしく、葵」
「うん。よろしくね、蓮くん」
あの子に託された未練は、これで少しは晴れるだろうか。
交わした握手が照れ臭くて、どちらからともなく吹き出した。
なんて、いい雰囲気で終わればよかったのだけど。
「葵さん! ヘルプ! ヘルプです! 助けてぇぇぇぇ!!」
叫びながら部屋に入ってきたのは、可愛い年下教師、桐生朱音。
彼女は蓮がいたことに気づき、次いで葵を見て。母親譲りのお花畑な脳内は、随分と飛躍した結論を出した。
「え、いつの間にそんな関係に……」
「違うから!!」
◆
日本支部の人手不足。それを補うために、何人かが新しく教師として招かれた。
転生者に吸血鬼とイロモノ揃いなその中で、一際異彩を放つのが、葵の目の前で平謝りしている十四歳の少女だ。
「ごめんなさい! 早とちりしてとんだ勘違いを……!」
「そんな謝らなくてもいいよ。朱音ちゃんが愛美さんと同じで、脳内ピンク一色なのは知ってたことだし」
「それはそれで腑に落ちないのですが……」
未来からやってきた、桐生織と桐原愛美の娘。それが桐生朱音の正体。敗北者としての仮面を被り、滅びの未来を変えるために、現代へと遡ってきた。
転生者として何度も自分として生まれた朱音は、現在こそ十四歳ではあるものの、通算で数えれば葵や蓮、それどころか両親よりも歳上だ。
そうは思えないほど幼く感じる時があるのは、朱音が生まれた未来の世界故なのだろうけど。
ともあれ、葵にとっては可愛い歳下の妹分みたいなもの。つまり、葵が素を見せられる数少ない人間の一人だ。
「それで、なんか慌ててたみたいだけどどうしたの?」
「あ、そうでした! 葵さんにお願いしたいことがあったんですよ! サーニャさんの説得を手伝ってください!」
「サーニャさんの?」
今ではすっかりこの学院に馴染んでいる、銀髪の女吸血鬼。彼女は葵の育ての親のようなものであり、朱音にとっても未来では似た関係だったらしい。
朱音は随分とサーニャに懐いていて、サーニャも邪険に扱いながらも、朱音には親愛の情を向けている。それは葵どころか、たまに二人でいるのを見かける蓮にすら分かる。
果たしてそんな二人に、一体何があったのか。
「サーニャさんに、明日から私のご飯作らないって言われたんです! 死活問題ですよこれは!」
潤んだ瞳で叫ぶ朱音。
呆気にとられる葵と蓮。そんな二人が取った行動は。
「……ねえ蓮くん、これから依頼行かない?」
「いいな、せっかく改めて友人になったんだし。その記念みたいな感じで」
「ああ! 待って! 見捨てないでください!」
今にも泣き出しそうな顔で二人に縋り付く朱音。この子の両親がいた頃は、こんなキャラじゃなかった気がするんだけど。
嘆息しながら、苦笑を浮かべて朱音に向き直る。
「冗談冗談。とりあえず、事情を話してよ」
「だな。二人、仲よかったのに。なんでそんなことになったんだ?」
「うぅ……実は……」
どうも両親がいなくなってからの朱音は、毎日サーニャに食事の用意をお願いしていたらしい。最初はサーニャも、言葉の上では渋りつつ律儀に毎食用意してくれていたのだが。
桐生朱音は、母親譲りの健啖家だ。
つまり、毎日大量の食事を用意しなければならない。それが二ヶ月だ。織と愛美がまだ眠っていた頃からだから、二ヶ月毎日。サーニャが料理を作ってくれる。両親がいなくなった寂しさを埋めてくれる吸血鬼に、朱音も甘えていたのだろう。二ヶ月ずっと手伝うこともせず、出される食事を享受するだけの朱音。さしもの吸血鬼も、嫌気がさしたらしい。これ以上は付き合っていられない、と匙を投げたのだとか。
「あー……それはまあ、手伝わなかった朱音ちゃんが悪いでしょ……」
「ええ⁉︎」
「だな。せめて配膳とか盛り付けとか、料理自体はできなくても、その辺は手伝えたはずだ」
「糸井さんまで!」
ただ、サーニャとて本心でそういったわけではないはずだ。あの吸血鬼の優しさは、葵もよく知っている。両親を失ってからの葵と緋桜の面倒をよく見てくれていたのだから。
「斯くなる上は実力行使しかありませんが……致し方無いですね……」
「ストップストップ! それはダメ!」
物騒なことを呟く朱音は、恐らく冗談のつもりなんて微塵もないだろう。あの吸血鬼に行使できるだけの実力を、この少女は持っているのだから。
「私たちも付いて行ってあげるから、サーニャさんに謝りに行こう。そしたら許してくれるって」
「後は料理の練習も、ちょっとくらいしたほうがいいかもな」
「分かりました……」
◆
「すみませんでしたサーニャさん!」
職員室の中に響く、謝罪の声。周りの教師たちはなんだなんだと声の元に注目し、謝られた当人は深いため息をひとつ。
「それはなにに対する謝罪だ」
吸血鬼特有の紅い瞳を朱音に向けるサーニャは、怒っているというよりも疲れている様子だった。
日本支部の教師として雇われてから、慣れない書類仕事をしている影響だろう。
「ご飯作ってくれたのに、手伝いもせずにすみませんでした! サーニャさんがご飯作ってくれないと、私餓死しちゃいます! そんな死因で炎使うのは嫌なのですが!」
たしかに、そんな情けない理由で使われるのは銀炎の方からお断りだろう。
朱音の転生者としての力。その銀炎は、時を操る炎だ。その力の一端に、死んだその時点でその直前の時間へと遡るというものがある。かつては未来の世界で幾度となく使われた力らしいが、それがまさかそんな使われ方をされそうになっているとは。
朱音の背後に立つ葵と蓮は、正直力の次元が違いすぎて苦笑するしかない。
「朱音ちゃんも謝ってることですし、私に免じて許してあげてくれませんか?」
「ていうか、このこと先輩方が知ったら、激怒しそうな気がするんですが」
もう一度、深いため息が落とされる。
呆れたような、あるいは諦めたような色が込められたため息。
「貴様の両親と葵に免じて、今回だけは許してやる。次があると思うなよ」
「ありがとうございます!」
その放った言葉に、朱音は表情を輝かせてサーニャに飛びついた。が、すぐに引き剥がされて雑に地面に放り投げられる。むぎゅっ、という可愛い(?)悲鳴が上がるものの、やはり朱音は笑顔だ。
「そうと決まれば、これから練習だな。せっかくだ、貴様らも付いて来い。ついでに夕飯を馳走してやる。久しく葵にも食わせてやってないしな」
「本当ですか⁉︎ やったね蓮くん! サーニャさんの料理、すごい美味しいんだよ!」
喜ぶ葵は知らない。
この後、とんでもない試練が待ち受けていることを。
◆
四人が移動した先は、朱音の自宅。家主が留守にしている、桐生探偵事務所だ。
結論から言おう。
予想以上に想定外だった。
なにがって、朱音のポンコツっぷりが。
「待て朱音、貴様その野菜はちゃんと洗ったか?」
「ちょっ、朱音ちゃんストップ! 短剣はしまって! ちゃんと包丁使って!」
「なんでまな板ごと切れてるんだろう……」
まず食材の扱い方からしてダメだし、包丁は切り心地が悪いとかで使おうとしないし、いざ使わせてみると異能のせいでまな板ごと切るし。
織からは、ちょっとずつ家事が出来るようになってる、と嬉しそうな報告をされた記憶が、共有された中にあるのだけど。
これ、微塵も出来るようになってないのでは?
「なにがダメなんでしょう?」
「なにもかもだ!」
キョトンと首をかしげる朱音に怒鳴るサーニャ。母親譲りの不器用さも、ここまでくればいっそ清々しい。
愛美さん、この子は紛れもなく、あなたの子供ですよ……。
疲れてぐったりする葵とサーニャだが、そんな二人とは違い、蓮は根気よく朱音に向き合った。
「とりあえず、異能はオフにできる?」
「もちろんですが」
「じゃあオフにしてもらって。まずは俺が見本を見せるよ。包丁の握り方はこう。で、空いてる左手は猫の手」
「猫?」
丸めた左手を胸のあたりに掲げ、小首をかしげる朱音。その頭に、葵は猫耳を幻視した。控えめに言って可愛すぎでは?
「そうそう。その猫の手で食材を抑えて、こうやって切るんだ」
見本として実際にキャベツを千切りにしていく蓮。意外にもその手際は見事なものだ。綺麗に千切りされている。
へー、とかほー、とか言いながらそれを眺めている朱音は、未だに左手が猫の手のまま。お尻のあたりから伸びた幻の尻尾は、ふりふりと好奇心に揺れている。
そんな姿が可愛すぎて、葵は思わず天を仰いでしまった。
「なにをしておる……」
「朱音ちゃんの可愛さに打ちひしがれてます……」
兄が兄なら、妹も妹か。
サーニャにそんなことを思われているなんてつゆ知らず、葵はニコニコしながら朱音の後ろ姿を眺める。
「よし、じゃあやってみようか」
「はい!」
蓮から包丁を手渡され、朱音は見様見真似で新しいキャベツに包丁を入れる。そんなに千切りしてどうするんだ、と思ったが、朱音が大食いであることを思い出した。量があって困ることはないだろう。
ここは父親譲りなのか、ただの見様見真似であってもキャベツは無事に千切りされていく。まな板が切れるなんてことはないし、途中で短剣を取り出すこともない。
やがてキャベツを切り終えた朱音は、輝いた瞳を蓮に向けて、一言。
「師匠とお呼びしてもいいですか⁉︎」
どうしてそうなった。
包丁の使い方を教えてもらっただけで師匠扱いとは。これにはサーニャも苦笑を浮かべている。
人懐っこいのは、朱音の美点だ。あるいは、それこそが彼女の持つカリスマなのかもしれない。両親が共に異なるそれを有しているように、その娘であるこの少女にも。
「大したこと教えてないんだけどな」
「いえいえ! 私からしたら大したことですよ! 昔は殺した魔物の肉をその場で捌いたりしてましたし、料理なんてしたことなかったですから!」
サラッと過酷な未来の話を交えないでほしい。反応に困る。
結局蓮が朱音から師匠と呼ばれることになってしまい、引き続き料理を、今度は火の扱いについて教えようとフライパンを取り出す朱音。
それをコンロの上に乗せて蓮を急かしていたのだが。
途端、その表情が変わった。
笑顔で瞳を好奇心に輝かせていた幼い顔が、それらの色を消し去り冷徹な魔術師の顔へと。
「結界に反応がありました」
「え?」
「敵です」
この事務所の周囲には結界が張り巡らされている。敵意や害意を持ったものが結界内に踏み込めば、すぐに朱音へと伝わるのだ。
突然の事態に困惑する葵と蓮。だが朱音とサーニャの動きは迅速だ。
「数は?」
「結界に反応があったのは二つ。ただ、それ以外にもひとつ反応があります」
「蓋を開けてみないことには、状況は分からぬか。とにかく外に出るぞ」
一階へと降りていく朱音とサーニャ。その二人を葵と蓮も慌てて追いかけ、暗くなった事務所の外に出る。
異変は、見てすぐにわかった。
扉の前で倒れている、灰色の髪の少年。その少し離れた場所には、人ならざるものが二匹。
異形の角と翼を生やし、腕の先には凶悪な爪が伸びてはいるが、それ以外は人間の形をしているナニカ。でも、人間じゃない。葵の目は、そのように映し出している。
「ギャハハ! 見なよ兄ちゃん! カゲロウを追ってこんなとこまで来たら、もう片割れまで見つけちゃったぜ!」
「イヒヒ! 二人とも捕まえたら、お父様に褒められちまうな!」
耳障りな笑い声は酷く不快に聞こえる。その二匹が放つ魔力は、尋常ならざるものだ。
そんな敵を見て、サーニャ呟いた。
「貴様ら、まさか吸血鬼か……?」
サーニャと同族。人の血を吸い永劫を生きる魔物。吸血鬼。
だが、それも違う。葵の目に映された情報に、吸血鬼なんて表記はない。
やつらを示す言葉は、ただひとつ。
「悪魔……」
葵が呟いた瞬間、二匹の悪魔は不快な笑い声を高らかに上げた。
「ギャハハハハ! その通り! 俺たちは吸血鬼ではない!」
「イヒヒヒヒ! 敬愛する父、グレイ様に作られた悪魔! それこそが俺たちよ!」
その名が出た瞬間、葵の身に激しい怒りが湧き上がる。両親とあの人を殺し、あの子達が消える原因となった張本人。
そいつが、この悪魔たちの生みの親。
黒い刀を現出させ、同じ色をした三対の魔力の翼が背中から吹き出す。
「葵さん!」
朱音の制止も聞かず、葵は二匹の悪魔に斬りかかった。音速に達するそのスピード。しかしそんな葵よりも速く、二匹の悪魔が爪を振るう。
「……ッ!」
咄嗟に刀と展開した防護壁で身を守ったものの、一撃が重い。衝撃が腕に伝い、たった一合の打ち合いだけで理解した。
こいつらには、敵わないと。
「落ち着け、葵。早まるな」
無理矢理転移で後退させられ、朱音とサーニャが葵の前に立つ。
「二人はそこで倒れてる人を連れて逃げてください」
「なんで! こいつらからグレイの居場所を聞き出せば……!」
「それは我らの役目だ。言い方を変えようか、葵。足手纏いだ。さっさと失せよ」
その言葉に、葵はなにも言い返せない。
反論の余地がないほどに事実だ。葵では実力不足。ここに留まっていても、二人の足を引っ張るだけ。それがわかっていても、それでも。大切な人たちの仇に繋がるかもしれないのに。
「ここは二人の言う通りにしよう」
葵を思い留まらせたのは、肩に手を置いた蓮の一言。
仮に足手纏いが葵だけならいい。万が一の時、死ぬのは葵だけだ。けれど、それに蓮を巻き込むわけにはいかない。
今日改めて友人となったばかりの少年を、葵の身勝手な怒りに巻き込む道理はないのだ。
「……分かった。朱音ちゃん、サーニャさん、この人は学院長のところに連れて行きます。それでいいですね?」
二人が無言で頷いたのを見て、葵は異能を使い学院まで転移した。
「ギャハハ! どうするよ兄ちゃん! カゲロウもシラヌイも逃しちまったぜ!」
「イヒヒ! このまま帰ったら怒られちまうな! こいつらの首でも持って帰るか!」
身に湧き上がる怒りを必死に抑え込んでいるのは、なにも葵だけではない。
三度だ。三度、大切な友達を救えず、目の前で失った敗北者が、ここにいるのだ。
「サーニャさん。周囲に全力で結界を張ってください。外に少しでも余波が漏れないように」
「やりすぎるなよ。貴様の全力を受け止めきれる自信はないぞ」
事務所の屋上にひとっ飛びで移り、サーニャは辺りに結界を張り巡らせた。特別な効果などなにもない、ただ閉じ込めるためだけの結界だ。
それを見た悪魔の片割れが、サーニャの元へと飛ぶ。凶悪な爪でその肉を断とうと、目にも止まらぬ速さで。
しかし次の瞬間には、地面に叩き落とされていた。見上げた先には、瞳を橙色に輝かせた少女が。
「なにが目的かは知りませんが。この場に足を踏み込ませたこと、後悔させてやりますよ」
「ギャハハ! 兄ちゃん、こいつはひょっとしてヤバイんじゃないか!」
「イヒヒ! ひょっとしなくてもヤバイな!」
朱音の強さを理解したのだろう。その上で目的も達せられない。撤退を選択するには十分だ。
異形の翼をはためかせ、空へ逃げる二匹の悪魔。だが、朱音としては好都合。空中へ向けてならば、なんの遠慮もなく撃てる。
「逃すわけないでしょう」
構えた銃。その先に展開される魔法陣。
身を焦がす怒りと憎悪のままに、体内の賢者の石を全力で稼働させ、極大の魔力砲撃が放たれた。
「ギャハ⁉︎」
「イヒ⁉︎」
夜空に迸る光の奔流。余波による濃密な魔力が辺りに撒き散らされ、二匹の体を呆気なく呑み込み、サーニャの結界すらも砕いた。
しかし、朱音の表情は浮かないものだ。
「逃げられた……未来視が発動してない?」
引き寄せたはずだ。あの二匹を撃ち落とす未来を。だが実際に、やつらの気配は周囲になく、すなわち未来視が不発したことを示している。
「完全に消えたな。異能が通じなかったのか?」
「恐らくは。未来視が発動してなかったわけではなさそうですが」
「グレイに作られた、と言っていたな。また厄介なやつらが出てきたものだ」
とにかく、一度学院に向かおう。葵もそこに転移しているはずだし、倒れていたあの少年も気がかりだ。
魔力砲撃の余波で倒れた木や割れたガラスを銀炎で修復し、二人は学院へと転移した。




