束の間の幸せ 1
異能研究機関ネザー、そのアメリカ本部。黒霧緋桜が現在、活動の拠点としている場所だ。己の妹について、少しでも知るために。緋桜は、『黒霧葵』にまつわる全ての元凶とも言えるここで、身を潜めていた。
黒霧を名乗ったことは一度もないが、機関の上層部には既にバレているだろう。その上で、泳がされている。好都合だ。そうして胡座をかいている間に、少しでも多くの情報を手に入れる。
割り当てられた宿舎の部屋の一室で、緋桜は紫煙を燻らせていた。普段はあまり吸わないのだが、今日だけは別だ。
ジュナス・アルカディアから譲り受け、自身が改造を施した魔導具。織たちが魔障EMPと呼んでいるそれを、試験運用として南雲仁に貸し出した。
その効果は既に報告されている。誰に使われたのかも。
「今更罪悪感なんて、そんな資格あるわけないのにな……」
デスクに置かれた一枚の写真をふと見やった。真ん中に立っている男は心底から笑顔を浮かべていて、両サイドにはその男に肩を組まれ、嫌そうな顔をした少女が二人。どちらも今では考えられないほどに仏頂面だ。
二年前の、心の奥底にしまい込みたかった思い出。そこにはもう戻れないと知っていて、だからこそ、昔日の光景を求めてしまう。
「感傷に浸るなんて、らしくないことしてますね」
突然、室内に他者の声が響いた。首を巡らせれば、直接ここに転移してきた怪盗の二人が。その姿はなぜかボロボロの傷だらけで、ここに来る前誰かと派手に一戦やってきたことが伺える。
「せめてノックをしろ」
「他の研究員にでも見つかったら面倒じゃないですか」
「ならわざわざここに来なくても、俺を呼び出せばよかっただろ」
「それが、そうも行かなかったんですよねぇ。火急の案件があったものでして」
疲れたように呟く怪盗の従者は、よく見れば左足が焼け焦げていた。それにギョッとして、緋桜はすぐに治療の術式を組み上げる。
「あ、お構いなく。これくらいなら自分で治せるので」
「だったら早く治せ! ……ったく、誰にやられたんだ、こんな怪我」
この二人、特に戦闘に関してはジュナスよりも強いはずのルミが、片足を持っていかれた。よほど強い相手とやり合ったのだろう。ジュナスに目立った怪我がないあたり、恐らくは彼を庇ったのだろうが。
ちょっと失礼しますね、とベッドの上に腰かけたルミが、自分の足に復元魔術をかける。それだけで完全に治るわけではないが、二、三日もすれば完治するはずだ。
「その辺りで、あなたと話したいことがあったから来たんですよ」
「怪我を治す時間も惜しんでか?」
「ええ。幻想魔眼が、見つかりました」
「なに?」
聞き捨てならない報告だ。そして、これが虚偽の報告だとしても、許されることではない。
幻想魔眼。
全ての異能の頂点に立つ異能。あらゆる不可能を可能に変える、最強の力。その魔眼を持ってすれば、なんの比喩でもなく、出来ないことなどなにもない。
その魔眼発現の研究に没頭していたネザーの支部が、先日壊滅させられたばかりだ。
「発現者は桐生織。緋桜さんも知ってると思いますけど」
「愛美と一緒にいた、魔導収束の使い手だな……」
「僕たちも、愛美さんのおまけ程度にしか考えてなかったんですけどね。そしたらまあ、ご覧の通り痛い目に遭いまして」
歴史の節目に必ず現れると言われる幻想魔眼の使い手。
考えてみれば、不思議なことではないのだろう。グレイは賢者の石を求めて二百年ぶりに表舞台へ上がり、それを止めるためにルーサーと呼ばれる少女が未来から現れた。
なるほどたしかに、今は歴史の節目と言える。ルーサーや学院側がしくじれば、それ即ち世界の終わりを意味するのだから。
「……これは、少し急いだ方がいいな」
「おや、緋桜さんの計画は前倒しにするんですか?」
「ああ。桐生織は葵とも接点があるんだろ? 邪魔をされる前に、全部終わらせる」
幸いにして、改造魔障EMPの効果は確認できたばかりだ。これがあれば、妹にかけられた呪いを解くことができる。
かつてグレイにかけられた、あの忌々しい呪いが。
「お前たちはどうするつもりだ?」
「まあ、僕たちはそう焦る必要もないんで」
「幻想魔眼があれば、理想郷まで一直線、なんですけどね」
この怪盗二人にも、自分たちの目的がある。グレイと協力関係を結んでいるのは、あくまでもその目的のためにすぎない。
むしろ、グレイが賢者の石を手に入れてこの世界を終わらせると言うのなら、全力で阻止したいくらいだ。
緋桜もそれは同じ。南雲仁は、恐らく違うだろう。あの老人は、ただ力に固執しているだけだから。
互いに利用し合う関係。それくらいで丁度いい。どうせ向こうも、こちらがいつか裏切ることなんて百も承知のはずだ。特に、緋桜については。
「とりあえず、それを伝えたかっただけです。まだ完全に覚醒してるわけじゃないんで、今ならどうとでも始末できると思いますけどね」
「魔眼の器に相応しくないんだったら、今度の学院祭の時に死ぬだろうさ」
「それもそうか。それじゃ、僕たちはこれで」
「さよならー」
転移でどこかに消えてしまった怪盗を見送り、緋桜は新しいタバコに火をつける。
実行するなら、学院祭の時だ。そこで、妹を呪いから解き放つ。
本当の葵を、返してもらう。
「……ごめんな、不甲斐ないお兄ちゃんで」
力なく発せられたその言葉は、果たして誰に向けられたものだったのか。
燻る紫煙に紛れて、誰にも届かず消えていった。
◆
「私が産まれるの、今から六年後だから! あ、お姉ちゃんかお兄ちゃんはちょっと欲しいけど、出来れば弟か妹の方がいいかなーって思ってるから、その辺よろしくね!」
昨日、桐原の屋敷から事務所に帰って、朱音に言われた言葉だ。
なんか娘に色々と察せられてたのだが、まあ、それはいい。織としても、ここに朱音が存在していて、おまけにあんなプロポーズ紛いのセリフまで吐いたのだから、いつかはそういうこともあるだろうなー、と考えていたりする。
しかし。しかし、である。
「織、ネクタイ曲がってる」
「ん、マジで?」
「全く、身嗜みくらいちゃんとしなさい。一応風紀委員なんだから」
そう言って織の胸元に手を伸ばしてくる愛美は、甲斐甲斐しくも曲がってるらしいネクタイを直してくれる。
これが家なら良かったのだが、残念なことに場所は学院の教室。周りにはクラスメイトの目が多分にある中で、だ。
「はい、これでよし」
ニコッ、と可愛らしく微笑む愛美。殺人姫としてのトゲトゲしさは微塵もなく、ここにいるのはただの美少女だった。
とてとてと自分の席に戻っていく愛美を見ながら、織は思う。
なんつーか、彼女面がやべぇ……。
いや、たしかに昨日あんなことがあって、好きだと告げて、それを受け入れてくれたわけだけど。実際に付き合うとかそういう話は出てないし、なんなら愛美から好きと言われたわけでもない。
あれ、じゃあ俺たちって今、どういう関係になるんだ……?
疑問に思いはするものの、それを口に出して聞くこともない。だってそんなことしちゃったら、確実に茹で蛸が二つ出来上がるだけだから。
「……なあ桐生」
「なんだロリコン」
「ロリコンちゃうわ! いやせやなくて! 桐原のやつどないしてん? なんか、いつもと感じちゃうくないか?」
友人のロリコン、もとい晴樹に話しかけられ、そうだよなぁ、と心の中で心底同意する。昨日の今日だから織自身は愛美の変化になんとか対応出来ているが、それを知らないクラスメイトから見れば、天変地異が起こったに等しいだろう。
いや、愛美とてクラスメイトとは良好な関係を気づいていた。そこまで邪険な態度を取っていたわけじゃないし、逆にクラスメイトたちも、桐原愛美がどう言った人間かは理解していたはずだ。
しかし、このあからさまな変化は、あまりにも見逃せない。
「ところで、アイクがそこで死んどる理由に心当たりあるか?」
「……ない」
「あるんやな」
二人が向けた視線の先では、アイクが机に突っ伏して微動だにしない。残念なことに、織には心当たりがあった。というか、ありすぎた。
毎朝恒例の、校門前での騒動。アイクのアプローチを愛美が文字通り一刀両断するそれは、もはやこの学院の名物。
だが、今朝は少し違った。なぜなら、織と愛美が手を繋いで登校してきたからだ。
そんな仲睦まじい二人を見てしまい、愛の叫びを上げる前に意気消沈、その上教室での無自覚イチャイチャ。アイクでなくともこうなってしまうだろう。
実際、他のクラスメイトたちは織と愛美の雰囲気に当てられたのか、何名か死にそうになっている。
「まあ深くは聞かんけど、仲ええのは悪いことちゃうからな。ただし教室でイチャつくんは控えろ」
「そんなつもりはないんだけどな」
「自覚ないんが一番タチ悪いな。死ね」
「お前に言われる筋合いはないからなロリコン」
「ちゃうって言っとるやろ!」
ともあれ。織と愛美の新しい一日は、こんな感じで幕を開けた。
正直愛美のデレが凄まじくて一日だけでも耐えられる気がしないのだが、喜ぶべきか悲しむべきか、愛美とは一つ屋根の下で暮らしている。さっさと慣れないと、マジで死んじゃいそうだ。
◆
黒霧葵の一日は、平凡な朝から始まる。
寝ぼけ眼を擦りながらも朝食を用意して、学院に行く準備を整えれば、異能を使って富士の樹海まで転移。普通の高校生となんら変わらない授業を受けて午前が終わり、それから先の時間は断じて普通や平凡とは言えないものになる。
クラスメイトに軽く挨拶を交わしてから向かう先は、学院の外。富士の樹海内。設定された座標を入力して異能を発動すれば、あっという間にいつもの授業場所へと転移する。
しかし、葵がそこに辿り着いた頃には、既に修行が始まっていた。
「あれ、愛美さん?」
『もう体は大丈夫なのね』
脳内に響く碧の声は、葵が抱いたものとさして変わらなかった。
無事に救出できたことは知っていたが、まさかもう動けるようになっていたとは。
目の前で繰り広げられているのは、織と愛美対有澄の戦い。愛美が前衛で短剣を振るい、織が後衛で隙を窺いつつ援護射撃を行う。
ただしどれも決定打にはならず、有澄は二人の攻撃を躱し、逆に反撃を決めていた。
『ねえ碧。異能オンにしてみて』
「えぇ……この前それで怒られたじゃん……」
『いいからいいから。あたしの予想が正しかったら、多分あの二人、もうデキてるわよ』
「え、嘘⁉︎」
いやいやそんなまさか。愛美が好意を自覚したのは、ついこの前のことだ。それなのにここまで早くくっ付くとか、あの愛美に限ってそんなこと。
先輩に対して至極失礼なことを考えている自覚もなく、いざ異能をオンにしてみると。
「……ホントだ」
『ね? 言った通りでしょ?』
映し出される情報。そこにはたしかに、二人が昨日行った一連の出来事が羅列されていて。
まあ、いわゆる両片思いという状況だったし、なにかキッカケさえあれば簡単にくっ付くとは思っていたけど。なんというか、あまりに呆気ないというか。
もう少しうだうだしてる時間が長いのだろうも思っていただけに、葵としては些か拍子抜けだ。
まあ、めでたいことに変わりないのだけど。
『じゃあ葵、ちょっと交代ね』
「えっ、ちょっ……」
拒否する間もなく、意識が入れ替わる。体の主導権を無理矢理奪われる。自分の体なのに思うように動かせないこの感覚は、いつになっても慣れない。
「おや、葵ちゃんが来たみたいですね。そろそろ終わらせましょうか」
「愛美!」
「ええ!」
阿吽の呼吸とは、このことを言うのだろう。ただ名前を呼ばれただけで織の意図を察したのか、有澄に肉薄していた愛美が一歩下がる。同時に先ほどまで愛美が立っていた場所、つまり有澄の元へと、頭上から魔力の槍が殺到した。
それを容易に躱す有澄だが、織の狙いは攻撃ではない。槍の着弾地点、そこに広がる魔法陣。槍に元から魔法陣を仕込んでいたのだろう。手先が器用な織だからこそできる芸当だ。
そしてその魔法陣から伸びるのは、魔導収束の鎖。不意を突かれた有澄は右足を取られ、魔力を吸収される。
「貰った……!」
「甘い」
再び肉薄した愛美が短剣を袈裟に振るおうとして、それよりも早く、有澄の長杖による刺突が愛美の腹へと突き刺さる。
だが、その愛美の姿が掻き消えた。彼女がそんな魔術を使うなんて聞いたことがない。まさかと思い視線をやった先には、織が右の瞳を橙色に輝かせていて。
直後、背中に殺気。
「斬撃・二之項」
魔力を帯びた凶刃が、喉元に迫る。回避は間に合わない。防御しようにも、愛美の前では無意味と化す。ならばどうするか。答えは一つだ。
この状況から、攻撃に移るしかない。
「氷華乱舞」
背中に展開された魔法陣から、氷の花が咲く。愛美の攻撃が届くよりも早くそれは砕け散り、花びらを模した氷の刃を正面、愛美の方へ向けてまき散らした。
すぐ様魔術を中断させて、迫る氷の刃を斬りはらいながら離脱する愛美だが、体の至る所に切り傷と凍傷が。
まさか魔力を吸い取られながらも魔術行使するとは思っていなかった。
しかし、距離を開けて立っている織の瞳は、未だ輝きを衰えさせていない。
「残念、望み通りの未来ですよ」
有澄から吸い取った魔力で、構えた銃口に魔法陣を展開する。その術式は有澄にも見覚えのあるものに見えて、しかし細部が異なる。
先日教えた魔術に、我流のアレンジを加えたのだろう。
ならばそのオリジナルを持って、真正面から打ち砕く。
「絡み取れ、白薔薇」
遅れて魔法陣を展開したにも関わらず、織よりも早い魔術行使。その速度と術式構成の正確さは流石と言わざるを得ないが、織は不敵に笑ってみせるのみだ。
銃の引き金を引く。魔法陣から現れたのは、いくつもの氷の茨。それらが螺旋状に絡まり合い、やがて形成されたのは、ドリルだ。
「貫き穿て氷樹の螺旋!!」
放たれたドリルが、高速で回転しながら氷の茨とぶつかる。勢いが衰えることもなくドリルは茨を削るが、物量はあちらの方が上だ。削ったそばから次の茨がドリルにまとわりつき、やがてその全体を呑み込んだ。
そしてその次の獲物、織へと目掛けて茨が殺到するが、その直前。
「集え! 理は流転し、道は反転する! 疾く駆けしは我が脚、穿ち砕くは我が腕、裂き断つは我が剣! 我は喰らい尽くす者、万物万象悉くを斬り伏せ、命を刈り取る者!」
詠唱が響き、氷の茨に一筋の剣閃が迸る。
術式ごと切断された茨は瞬く間に瓦解して消え、織の目の前には魔力の刃で短剣を伸ばした愛美が。
概念強化のフル詠唱。正直、そこまでしなくてもいいとは思うのだが、この戦闘の趣旨を考えれば使って当然か。
「ここまで、ですね」
有澄が長杖をどこかへ消したのを見て、織と愛美も得物を収める。
戦闘が終了したのを察し、碧は三人の元へ駆け寄った。
「桐原先輩、完全復活ね」
「完全には程遠いわよ。最後の概念強化、いつもの出力に全然足りてなかった」
「詠唱フルでもか?」
「ええ。まだ上手く魔力が練れてないのよね。あと二、三日は続くかも」
拳を開いて握ってを繰り返しながら、不満そうに言う愛美。それを気遣わしげに見る織。
いつの間にやらいつも通り。昨日までの余所余所しさが嘘のようだ。いや、それどころか。以前よりも距離が近くなっている気がする。
あんなことがあれば当然か、と。碧は一人納得して、小悪魔のような笑みを浮かべた。
「ふーん。じゃあ、また桐生先輩に魔力供給、お願いしなきゃじゃない?」
瞬間、ぼふん、と音が聞こえたと思うくらいに真っ赤になる織と愛美。
言っちゃったかー、と葵はため息を吐く。それは碧に聞こえてるはずなのだが、そちらには耳を傾けずに、碧は言葉を続けた。
「あ、それとももしかして、さっき既にして来たとか? やだ先輩たちだいたーん危なっ⁉︎」
「殺す……!」
「ちょっ、ストップストップ! 桐原先輩ストップ!」
短剣を振り回す愛美と、逃げる碧。今のは完全に碧が悪い。揶揄いすぎだ。
また後で、碧の代わりに謝らなきゃなぁ。なんて考えつつ、もう一人の自分からの要請に応じて、葵は術式の構成を始めた。
◆
「とりあえず、おめでとうと言っておきますね」
「そりゃどうも……」
未だ万全の状態からは程遠いくせに概念強化全開で駆け回る愛美と、雷纒を使って逃げる碧。そんな二人を眺めつつ、織は色の戻らない顔のまま、有澄の祝福を受け入れた。
あのバカな後輩には後でキツく言っておくとして、それよりも織には、聞いておきたいことがあったのだ。有澄と合流するなり早速戦うことになってしまったから、結局聞けずじまいだったことが。
「有澄さん」
「なんです?」
「異能が変化することって、あり得るんですかね」
「一応イエス、と言えるかもしれませんね」
随分と曖昧な答えが返って来た。
異能については、まだ判明されていない部分が多い。異能研究機関ネザーでは、その全容を解明しようと日夜研究員たちが努力を積み重ねている。
その努力の方向性を間違えたのが、以前織たちが壊滅させた関西支部だが、それはさておき。
異能について判明していることと言えば、それは身体ではなく魂に宿るものである、ということくらいか。
「変化、といえば少し語弊があるんですよ。あるいは、成長と呼ぶべきかもしれませんね」
「異能が成長する?」
「はい。例えば、愛美ちゃんの異能の場合。あの子の異能は切断能力ですが、それがどう言った原理なのか、分かりますか?」
「いや……」
そう言えば、愛美にその辺りの話を聞いたことはなかった。
彼女が斬れると思ったものなら、なんだって斬ってしまう異能。それは形のない概念的なものですら例外にならず、本当に、あらゆるものを切断してしまう。
もしかしたら、愛美自身も分かっていないのかもしれない。ただ、そういうものだと受け止めているだけで。
「もしかしたら、愛美ちゃんの異能の真価は切断ではなく、全く別のところにあるかもしれない。今彼女が使っているのは、その一端でしかないのかもしれない。こういう異能持ちの人は、稀にいるんですよ。織くんも、その一人です」
「たしかに、俺の未来視もそうですね」
織の未来視は最初、本人にも全く読めないタイミングで発動されていた。それはただ未来を見るだけであり、いくらでもその未来を変えることができた。
だが、今の織は、それ以上のことができる。望む未来を引き寄せるという、大きな力が。
そして昨日。織の眼は、更なる変化を見せた。自らに起こった変化。それに伴って発生した現象に、織は少なからず心当たりがある。
「……幻想魔眼、って知ってますか?」
「もちろん。不可能を可能に変える異能。現実ではあり得ない事象を瞳に映し、現実に投影させる。割と有名ではありますよ」
「それ、今は誰が持ってるかとかは?」
「さて。わたしはそこまで知りませんね。蒼さんならもしかしたら、と思いますけど、あの人はあまり幻想魔眼に興味を示していないので」
もしかしたら、自分がそうかもしれない。
などと考えるのは、烏滸がましいのだろうか。けれど、昨日の怪盗との戦いでは、たしかに起きたのだ。あり得ないはずの事象が、現実に。
織が使えないはずの魔術と体術。ただ、それを求めて瞳に映すだけで、行使できた。できてしまった。
正直、今でも戸惑いを隠せない。あの時は怒りに身を任せるがままだったけど、冷静になった今ならば分かる。昨日の自分が、いかに異常だったのか。
そもそも、だ。織に幻想魔眼が宿っていると言うのなら、朱音もそれを持っていないとおかしい。未来からやってきた転生者の娘は、他ならぬ織と愛美自身にも転生しているのだから。
いくらこの時間軸が、朱音の来た未来とは違っていたとしても、そこは違わないはずだ。
「力は使いようですよ」
思考の海から現実に引き戻されたのは、有澄の強い言葉を聞いたから。ハッとして隣に視線をやれば、その美しい顔に穏やかな笑みを浮かべている。
「ありきたりな言葉ではありますけどね。でも、一つの真実です。どんな力を持っていても、それは使う人次第で守る力にも、傷つける力にもなる。かく言うわたしも、些か面倒な力を持ってまして。蒼さんがいなければ、多分使い方を間違えてたと思います」
実感の込められた言葉には、ここにいないパートナーへの愛情が乗っている。
きっと、蒼と有澄の二人にも、織の知らない物語があったのだろう。もしかしたら、今の織のように、己の力について悩んでいたのかもしれない。
「だから、大丈夫。わたしにとって蒼さんがそうだったように、織くんには愛美ちゃんがいますから」
「……どっちかって言うと、俺があいつを見といてやらないとダメな気もしますけどね」
「それもそうですね」
クスクスと楽しそうに笑う有澄につられて、織も自然と顔が綻んでいた。
出来るなら、今すぐにでもあの謎の力を解明して、この手に収めたい。そのために悩むのは悪いことではないはずだ。
だが、まずは地道にコツコツと、あの力に頼らずとも強くなれるように。
「あっ! 桐原先輩が有澄さんに嫉妬してるー!」
「斬撃・二之項」
「それシャレにならないやつじゃないッ……!」
一先ず、あの二人はそろそろ止めた方がよさそうだ。
◆
有澄との修行が終わった頃には、既に日が暮れていた。帰り際に商店街に寄って、夕飯の買い物を済ませて事務所に戻れば、いつもは真っ先に出迎えてくれるはずの朱音がいなかった。
とてとてと歩み寄ってくるのはアーサーのみで、そのアーサーはなにやら紙を咥えている。
「どうしたのアーサー?」
「……なんだこれ」
その紙にはえらく達筆な文字で「暫くおじいちゃんのところに泊まるから、二人で存分にイチャイチャしてね!」と書かれていた。
さすかに反応に困る。
ていうか、娘から変な気を回されて、親としてどういう反応をすれば正解なのか。素直に喜べないぞこんなの。
しゃがみ込んだ愛美をチラと見やれば、その耳は真っ赤に染まっていて。
「……あの子、お姉ちゃんかお兄ちゃん欲しいって言ってたわよね」
「よし落ち着けお前は今冷静じゃない!」
とんでもないことを口走りやがった愛美に一喝。ちょっとそういうのはまだ早いと思うんですよ。
ここは男として、紳士として、一言物申しておかなければなるまい。
「いいか愛美、お前の読んでる少女漫画をよく思い出せ。付き合い始めて一日しか経ってないカップルが、すぐにそういうことするか? しないだろ?」
「たしかに……」
「俺たちだって、その、なんだ、昨日そういう仲になったばっかだし、な? こういうのは順序ってもんがあるだろ?」
ちょっと吃ってしまったが、それで納得してくれたのか、赤い顔の愛美はコクコクと無言で頷いてくれる。
分かってくれたなら良かった。愛美はこれで乙女趣味なところがあるし、かなりのロマンチストだから、こう見えて浮かれているのかもしれない。
こういうの、付き合い始めて一ヶ月くらいしか続かないとか聞くし、今のうちにデレてる愛美を堪能したい感はあるのだが、だからと言って色々すっ飛ばして本当に朱音の兄か姉が出来てしまうのはマズイ。
とりあえず腹も減ったし、さっさと夕飯の準備に取り掛かろうと思い二階へと足を向ければ、ほんの小さな力にそれを引き止められた。
見れば、愛美が織の制服の裾をチョコンと摘んでいる。
「どうした?」
「いえ、その……順序が大事だって言うなら……もう、キスまではいい、のよね……?」
濡れた瞳に見上げられ、魔術でも使われたかのように、織はその場で硬直してしまう。
こちらの予想を遥かに超えて心臓に悪すぎる。これが愛美のデレの破壊力か。なんでこんなに可愛いの? おかしくない?
今の二人には、魔力供給という建前は存在しない。愛美は既にそんなことをしなくとも、魔障の影響下にはないし、普通に魔力は足りている。
でも、そんな建前が必要とならない関係に、二人はなった。
触れてもいいのだ。この白磁のような肌に、美しい黒髪に、艶のある唇に。
理由などなくとも、それが許される。
他の誰でもない、自分のものなんだと。醜い独占欲が湧き上がる。この子がそれに応えてくれる自信がある。同じ独占欲を向けられている自覚もある。
なにも言わずに近づく顔。あまりにも美しく、それでいてどこかあどけないそれに見惚れて、しかし。
直前で、小さなプライドのようななにかが、顔を出した。
「俺、まだ言われてない……」
「え?」
自分でも驚くほどに拗ねたような声が出た。目の前にある愛美の顔は、キョトンとしていて。でも、織がなにを言いたいのか、なにを求めているのか、瞬時に理解したのだろう。
すぐに優しい笑みへと変わり、瞳を閉じて。
「愛してる」
短く囁いて、啄むようなキスをされた。
昨日とは違う、浅く小さな口づけ。すぐに離れた愛美の顔には、はにかんだ笑みが浮かべられて。
どうしようもない愛おしさがこみ上げて、衝動的に、その華奢な体を抱きしめた。
「それは反則だ……」
「嫌だった?」
「んなわけねえだろ」
「なら、何度でも言ってあげる。あなたのこと、愛してるわ」
戦いとは無縁の、こんな平和で幸せな瞬間が、いつまで続きますように。
幻想魔眼なんてもんがあるなら、どうか。
どうか、この小さな願いを、叶えてくれ。




