幕間 シラヌイ
真っ白な部屋と、親切な吸血鬼の研究者。それから、同じ部屋にいる兄。
シラヌイと呼ばれる少女にとって、それが世界の全てだった。
「ねえねえ兄さん、聞いて! さっき私、サーニャさんに褒められちゃった!」
「へえ、よかったな。オレなんか怒られてばっかだって言うのに」
今日の実験のことを兄に報告すると、不機嫌そうな顔が返ってきた。たしかに、カゲロウがサーニャから叱られているのは、シラヌイも何度か見ている。
けれどそれは、カゲロウが危険な異能の使い方をした時だけだ。サーニャはカゲロウのことを思い、叱っている。
それはカゲロウも分かっているはずだけど。
「兄さん、サーニャさんのこと嫌い?」
「はぁ? 嫌いとか、そんなこと言ってないだろ」
「じゃあ好き?」
「まあ、好きか嫌いかで聞かれるとな……」
二人とも、まだ精神的にも幼かった。カゲロウはシラヌイよりも十年ほど早く誕生しているから、中途半端にマセてはいるけど。
それでもまだまだ子供だ。
だから二人とも、好奇心というものを抑えられない。
この部屋、この施設の外は、一体どうなっているのだろう。
太陽の下は、どんな世界が広がっているのだろう。
何度もサーニャに尋ねたことがある。
その度に返ってくる答えは同じもの。
「いつか、お前たちにも見せてやる。こんな暗い地下から飛び出して、吸血鬼の天敵を拝ませてやろう」
皮肉げな笑顔で、そう言うのだ。
太陽なんて、自分たちの異能があれば怖いものじゃないのに。
けれど、そんな毎日が平和で、シラヌイは幸せだと感じていた。
自分の世界は小さくて、けれどカゲロウとサーニャがいるから、それでいいのだと。
そう思っていたのが自分だけだったと気づいたのは、それから更に十年が過ぎようとしていた時だ。
部屋の外が慌ただしい。サーニャはいつもの時間になっても部屋に来なくて、日課である実験に向かったカゲロウも戻ってこない。
不思議に思っても、シラヌイは自らの意思で外に出ようとは思わなかった。
なにかあったのだろうけど、二人はすぐに帰ってくる。この小さな部屋の中で待っていればいいだけ。
けれど、シラヌイの世界を壊したのは、他の誰でもないカゲロウだった。
背中には実験の時によく見る白銀の翼が広がり、手には背丈に合わない巨大な剣を持って、部屋の壁を破壊していた。
「兄さん……?」
「シラヌイ! ここから出るぞ!」
なにを言われたのか、理解できなかった。
シラヌイにとってはこの部屋が世界の全てで、そこにカゲロウとサーニャがいてくれれば、それでよかったから。
差し出される手。外の世界へ誘う、兄の手。
その手を掴むことを、ほんの一瞬躊躇した。
その一瞬が、二人の命運を左右するのだと、知る由もなく。
破壊された壁の向こうから、足音が聞こえてくる。
カゲロウが大剣を構えて振り返り、見たことない白衣の大人たちが沢山現れた。
「早く行くぞ! サーニャとよく分からない吸血鬼が足止めしてくれてるんだよ! 外に出たら、二人も助けてくれるって言ってる! だから、早く!」
叫びながら大人たちに剣を向けるカゲロウ。その背中を見て、シラヌイは考える。本当にいいのかと。外に出てしまっても、この小さな幸せを壊してしまっても。
考えているうちに、シラヌイの小さな体が誰かに抱きかかえられた。
どこからか現れた大人の男は、嫌らしい笑みを貼り付けて、カゲロウへと言葉を投げる。
「随分と手こずらせてくれましたねぇ。しかし、我々としてはシラヌイさえ確保できれば問題ないのですよ。カゲロウ、あなたはもう用済みです。ここで消えてしまいなさい」
「くそッ! シラヌイ!」
「兄さん、助けて……!」
差し伸べる二人の手は、空を切って。
シラヌイの意識は、そこで途切れた。
◆
それから、どれだけの月日が流れたのか分からない。あの日以降別の施設、別の部屋に移されたシラヌイは、ただ一人実験を受け続けていた。
カゲロウも、サーニャも、どこにもいない。
あの時シラヌイが、迷わずカゲロウの手を取っていれば。
そうすれば、今頃自分はどうしていたのだろう。二人と一緒に、太陽の下にいたんだろうか。
サーニャの優しい手つきに撫でられて、カゲロウとたまに口喧嘩して、でもちゃんと仲直りして。妹らしく甘えたり、一緒に色んなところへ行っていたのだろうか。
全てはたらればの話だ。今のシラヌイは、カゲロウの手を取らなかった。
家族と、唯一呼べる相手だったのに。
それから何十年も、ずっと一人で、シラヌイは実験を受け続けた。時には痛みを生じるものもあり、幼い精神をすり減らすには、十分な時間が過ぎた頃。
いつかと同じ慌ただしさを、部屋の外から感じた。
◆
およそ四十年。カゲロウが脱走した日からどれだけの歳月が経っていたのだが、シラヌイはそれを知らない。
ただ、前にもこんなことがあったと言うことと、その時になにが起きたのかを覚えていた。
だから、その四十年過ごしていた部屋の壁が壊された時、少しだけ期待したのだ。
もしかしたら、大好きだった兄が、また私の世界を壊しに来てくれたんじゃないのかと。
結論から言えば違った。
現れたのは、男女二人組の人間。異能で情報を可視化できる葵は、視界に映る殆どが理解できていなかったけど。
男が黒霧紫音、女が黒霧朱莉という名前だけは、ちゃんと理解できた。
「君が、シラヌイかな?」
「あなたを外に連れ出しに来たわ。さあ、こっちにおいで」
手を差し出された。いつかの日には、掴むことが出来なかった、外へ誘う手。
精神は磨り減って心は壊れかけていたけど。それでも今度は、迷うことなくその手を取った。
◆
シラヌイと手を繋いだ二人は、体を霧に変えて、施設から容易く脱出してしまった。
まるで吸血鬼のようなことをする二人だ。人間との混ざりものであるシラヌイには、そんなこと出来ないけど。
そして脱出した先の森では、灰色の髪の毛をした吸血鬼とまだ十歳くらいの人間の子供が待っていた。
「お父さん、お母さん!」
「お待たせ、緋桜」
「早かったな、グレイ。ほら、この子を連れ出してきたぞ」
こちらを見下ろしてくる吸血鬼に、妙な感覚を抱く。初めて会ったはずなのに、どこか懐かしいような、奇妙な感覚。
その答えも見つからないまま、シラヌイの口からは無意識の言葉が漏れていた。
「お父さん……?」
「……分かるのか」
驚愕を隠せない目で、吸血鬼はジッとシラヌイを見つめる。
しかし、彼がそれ以上なにかを発することはなかった。視線はシラヌイから逸らされ、黒霧紫音へ向けられる。
「そいつは、貴様らが預かってくれ。私の目的に、そのような子供は邪魔なだけだ」
「……まあ、それが妥当なところね。そもそもわたしたち、本来は敵同士だけど」
「そう言うな。我が子を預けられるのは、貴様らキリだけだ」
「分かった。そこまで言うなら、俺たちが預かるよ」
手を繋いでいた男性、黒霧紫音がしゃがんで、シラヌイと視線を合わせてくれる。
「シラヌイ、じゃ味気ないな。……よし、今日からお前は、黒霧葵だ。それで、俺たちがお前の家族だ」
「家族……あなたたちが……?」
「ええ、そうよ。今日から一緒に暮らすの。それで、この子が緋桜。あなたのお兄ちゃん。仲良くしなさいね」
「よろしく、葵」
緋桜と呼ばれた子供は、どう見てもシラヌイより歳下だ。
そんな子供が、今日から自分の兄だという。
私の兄さんは、カゲロウだけだ。
だけど、瞳に映された情報が教えてくれる。この人たちは、悪い人じゃないんだと。
それ以上に、直感する。この人たちとなら、太陽の下を歩けるのだと。そしたらいつか、本当の兄にも会える日が来るかもしれない。
緋桜から差し出された手。それを取り握手をしたのと殆ど同時だった。
どこからか、足音が聞こえてくる。
「困るなあ、グレイ。それに霧の魔術師。我々の研究成果を、そう易々と持ち出されては」
現れたのは、金髪の若い男。しかし、その見た目は当てにならない。同族であるシラヌイには分かる。あれは吸血鬼だ。
それも、この場で一番強い。
「チッ……ガルーダ!」
吸血鬼が、空に向けて叫ぶ。目の前に降り立つのは、巨大な赤い鳥だ。自分が持つのと同じ力、神氣を感じられる。
「この二人を連れて逃げろ!」
短い命令。凶悪な鉤爪を持ったガルーダの腕が、緋桜とシラヌイの二人を優しく包んだ。
「ま、待って、ダメ! そいつは、ダメなの!」
「いいから行け!」
「緋桜、葵を頼んだわよ」
「お前はもうお兄ちゃんだからな。ちゃんと妹を守れよ」
「……分かった。でも、俺は待ってるから。俺たちは、家でお父さんとお母さんを待ってるから!」
ガルーダが飛び立ち、見る見るうちに森から離れていく。
遅れて、轟音が鳴り響いた。わざわざ異能を使わなくても、そちらを見なくても、齎された結末を理解できてしまう。
同じくガルーダに運ばれている緋桜は、静かに涙を流していた。
外の世界に出たら、もっと楽しいと思っていたのに。
カゲロウもサーニャもいなくなって、辛い実験ばかりで、自分に優しくしてくれた、助けてくれた、家族になるはずだった人たちは、ほんの数分で永遠に会えなくなって。
どうして、こんなことばかりなんだ。
なんでみんな、いなくなってしまうんだ。
きっと、私が悪いに違いない。みんな、私なんかを助けようとするから、だから不幸な目に遭ってしまう。
だったら、こんな私はいない方がいいに決まってるから。
だからシラヌイは、閉じこもった。無意識に発動した異能が、別人格という強力な殻を作った。
次に目が覚めたとき、彼女も緋桜も、前日の記憶は全て失くしていて。
その日からシラヌイは、黒霧葵になった。




