幕間 未来にはない、平和な日常
青森に出現した亀の魔物、延いては怪盗とやり合った数日後。早くも十一月中旬に差し掛かり、肌寒い日が続いている。
昼間は二十度近くまであるからマシなのだが、朝と夜はかなり寒い。お陰で織は、寝る時に愛美と朱音からゆたんぽ代わりにされる始末。いいんだけどね、二人とも可愛いし。ちょっと寝づらいけど、愛する家族のためならその程度我慢できる。
そんな冬の気配が訪れ始めた日のことだ。
朝食の時に朱音が突然、こんなことを言い出した。
「ねえ二人とも、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん。買って欲しいものがあるんだ」
愛美と二人、顔を見合わせる。
朱音からこのようなお願い事をされるのは、もしかしたら初めてかもしれない。普段、あまりおねだりのようなものはしない子だ。それどころか、率先して織と愛美のためになにかをしようとする。
そんな朱音が、初めて親である自分たちに、こうやっておねだりしてきた。叶えてやらない道理はない。
「朱音のためならなんでも買ってやるぞ」
「ほんと⁉︎」
「当然よ。むしろ、普段から欲しいものがあれば、もっと言ってくれていいくらいなんだから」
遠慮しているわけではないのだろうが、多分この子は、親に対する甘え方というのをあまり知らないのだろう。サーニャに対する接し方はまさしくなのだが、朱音本人にその自覚はないと思う。
「それで、なにが欲しいの?」
「私ね、スマホが欲しい!」
「スマホ?」
予想外のものが出てきた。なぜかという疑問が先立つが、目をキラキラさせた娘を見ていれば、聞くより先に答えてしまう。
「よし、スマホだな。任せとけ。昼から携帯ショップ行くか」
「ちょっと待ちなさい」
呆れたような目をした愛美が、ため息混じりに待ったをかけた。
それで織も冷静になる。携帯を買うには、当然携帯会社と契約しなければならない。未成年でも契約はできるが、身分証などの各書類が必要になってくる。
そして当たり前だが、朱音に法律上身分を証明できるようなものなど、あるはずもなく。
「その辺どうするのよ」
「俺と愛美の、どっちかの名義で契約したらいいんじゃないか?」
「それにしたって、お父さんの同意書みたいなのが必要でしょ」
実際、愛美が携帯を自分の名義で契約した時は、親権者である一徹の同意書が必要だった。織の場合、最初は親の名義で、今は自分の名義に変更して使っている。それにしても、現在の後見人である一徹の同意書は必要だったのだ。
「スマホ、買えないの?」
「いや、そんなことはないぞ朱音」
思わず即答してしまい、また愛美にため息を吐かれる。
ごめんなさいね、考えなしで。
でも朱音の悲しそうな顔を見ていると、買えないなんて言えないわけで。
「分かったわ。後で実家に戻って、私からお父さんに伝えとくから」
「悪い、助かる」
「朱音のためだもの、これくらいはいいわよ」
朝食を終えた愛美が、箸を置いて朱音の頭を撫でる。えへへ、と朱音は顔を綻ばせて、気持ちよさそうに撫でられるがままだ。
朝からめちゃくちゃ癒される。
ところで、俺より量多かったのに、なんで俺より食べ終わるの早いの?
◆
朝食を終えて準備をすませると、愛美と朱音は桐原家へと向かった。書類の用意を諸々したら、そのまま携帯ショップに行くらしい。織はアーサーと二人で留守番だ。
「朱音もスマホを欲しがるような年頃か……まあ、十四歳だし当然だよなぁ……」
天井を仰ぎ見てひとりごちるが、白狼からはなんのレスポンスもない。勝手気ままにソファの上で寝ている。
そろそろ懐いてくれてもいいと思うのだが、一体なにが気に入らないのか、アーサーは全然織にもふらせてくれないのだ。
しかし朱音にスマホを持たせたとして、心配事が増える側面だって存在する。
そう、インターネットだ。
未来の世界がどうかは知らないが、人間が殆ど残っていないと言うのだから、朱音の生まれた時代にインターネットなんてものはなかっただろう。
SNSを始めとしたネットの海には、物凄い数の悪意が蠢いている。それら全てが、顔の見えない名前も知らない、どこの誰だか分からないやつのもの。下手をすれば、普段織たちが相手をしている魔術師なんかより、よほど厄介になりかねない。
インターネットは完全な匿名性を持っているわけでもないが、だからと言って容易に相手を特定できるわけでもない。
朱音には、その辺りを多少しつこいくらいに言って聞かせておかないとダメだろう。
実際、織の父親である凪も、インターネットに関連するトラブルで、いくつか依頼を受けていた。
探偵にとっては心強い味方でもあり、同時に恐ろしい敵にもなり得るのが、インターネットというものだ。
いや、探偵に限らず、人間全てにとってか。
ネットの怖さを再確認して内心震えていると、事務所の扉が開かれた。
やって来たのは、えらく珍しいことに、朱音の友人である大和丈瑠だった。
「こ、こんにちは……」
「お、丈瑠か。どうした、なにか困りごとでもあったか?」
「あの、桐生いますか?」
織に声をかけられた丈瑠は、どうにも少し緊張しているように見える。そんなに固くなられると、織としてもやりづらい。
その緊張を感じ取ったのか、アーサーが起き上がって丈瑠の方へ歩み寄る。頭を足にスリスリさせれば、丈瑠の表情はようやく和らいだ。
一人と一匹の微笑ましい光景を見て、織の頬も自然と緩む。
「そんな緊張しないでくれよ。別に、朱音と仲良くしてるからどうとか、そんなことは言わねえからさ」
「あ、すみません……」
これは、打ち解けるのにはまだ時間が必要だなと、苦笑する。
そもそも織と丈瑠は、歳でいえば二つしか違わない。殆ど同年代みたいなものだ。一応歳上ではあるものの、必要以上に畏まられるのも違うだろう。
織自身、上下関係というものが割と苦手だから、余計に。
「朱音なら、愛美と一緒にスマホ買いに行ってる。しばらく帰ってこないと思うぞ」
「スマホ、ですか?」
「本人が欲しいっていうからな。でもまあ、心配なこともあるんだよ。例えばインターネットとか」
それから、ネットの恐ろしさを訥々と語り、朱音もその被害に遭わないか心配だ、と言えば、丈瑠は思わずといった感じで吹き出した。
ここに来て、初めて見せた笑顔。織本人も、少しふざけた口調で話していたから、そのつもりではあったが。ほんの少しだけ笑い事じゃなかったりもする。
「おいおい、笑うのは酷いだろ」
「すいません……その、桐生、さんは──」
「織でいい。朱音とややこしいだろ」
「じゃ、じゃあ、織さんは……桐生のこと、本当に大切にしてるんですね」
「家族だからな」
織の即答に、丈瑠は若干面食らったようだった。家族だから、なんて、改めて言うようなセリフではない。
家族だから大切にする。それはある種当然のことで、けれど、朱音にとってはその限りじゃなかったから。
「あいつのこと、聞いてるんだろ?」
「未来から来た、っていう話ですか?」
「そう。その未来のことは?」
「ほんの少しだけ……」
朱音なりに、丈瑠に気を遣ったということか。話していて楽しい話ではないし、聞かされた方も困るだろう。
だが織は、この少年に知ってもらいたいと思う。朱音のことを。自分たちのことを。
「朱音のいた未来は、人間が殆ど生き残ってないみたいでな。その代わり、いつも街に現れるのより、もっと怖い魔物で溢れてるんだ。平和なんてものとは程遠い世界」
「それは、少し聞きました……」
「あいつはそんな世界で生まれて、育って、あいつが九歳の時、俺も愛美も死んだんだってさ」
「えっ……」
目を見開いて驚く少年に、織は言葉を選びながら、続きを話す。
「あいつがこの時代に来たのは、その未来を変えるため。でもそれより、俺たちに会いたかったから、らしい。だったら、未来の俺たちの分も、今の俺たちが、朱音のことを大切にしてやらないとダメだからな」
朱音には、幸せになってもらいたいから。自分たちの娘で、家族で良かったと思ってもらいたいから。
未来で叶うことのなかった、家族の平和な日常を。少しでも長く、あの子に過ごして欲しい。
「僕は……全然、知りませんでした……未来で桐生が、どんな風に暮らしていたのか……」
「あいつが言わなかったなら、仕方ないさ。それに、丈瑠は別に知らなくても良かったことなんだ」
「でも……僕は、桐生の友達です」
こちらを見つめる丈瑠の瞳には、力のある強い光が宿っている。
織は、その光を宿す人間を、これまでに何度も見て来た。
愛美や朱音しかり、葵しかり、蓮や緋桜も。
胸の内に、強い決意を秘めた者の目だ。だから織は、丈瑠に対してこんなことを話しているのかもしれない。
「ああ。お前は、朱音の友達だ。この時代で唯一、あいつのことを対等な友人として見てくれるのは、丈瑠だけなんだ。だから、知っておいて欲しかった」
「……なにか、桐生に対して、僕がしてやれることはないんでしょうか」
今度は、織が面食らってしまった。
まさかこの少年から、そんな言葉を聞かされるなんて。いやはや、全く分かってない。
朱音にとって、丈瑠の存在がどれだけ大きいものなのか。
恐らく、当人だからこそ自覚がないのかもしれないが。
「特別なことはしなくてもいいさ。朱音の友人でい続けてくれ。あいつにとっては、それだけで助けになるんだ」
「本当に、それだけで……?」
「ああ。俺たち家族がいて、丈瑠みたいな友達がいて、朱音にとっては、そのこと自体が力になる。とまあ、この話はここまでにしといてさ」
ニヤリ、と唇を釣り上げる織。本能的に嫌な予感を感じ取ったのか、丈瑠は一歩後ずさる。
「実際のところ、朱音のことどう思ってんだ? ん? ほれほれ、教えてみ?」
「いや、僕は別に……」
丈瑠の肩を掴み、ソファの方へと誘導する。二人並んでどっさり腰を下ろして、織は鬱陶しさ全開のままに丈瑠へ尋ねる。
「まさかなんも思ってない、ってことはないだろ? 朱音は可愛いもんな」
「あの、これ僕なんて答えたら正解なんですか……?」
「思ってること素直に言っちまえばいいんだよ」
「えぇ……」
丈瑠の足元へ移動してきたアーサーが、織を呆れた目で見ていた。しかし止めようとはしない辺り、この白狼もそこんとこ気になってるらしい。
「まあ、たしかに、可愛いとは思いますし、時々それっぽいこと言いだしたりするから、勘違いしそうになりますけど……」
「あー、分かる。愛美もそうだった。遺伝なのかねぇこれは」
愛美の場合、意識的にやっていたのだから困ったものだ。朱音は無意識のうちにだろうから、それはそれでタチが悪そうだが。
「でも、その、桐生のことが好き……とか……そういう恋愛感情的なのは、ないです……」
頬を赤らめ、クソほどか細い声で。真横にいないと聞こえていなかっただろう。
ははぁ〜んなるほど〜? 織くんは名探偵なので分かってしまいましたぞ?
「そうかそうか、朱音のことが好きか」
「すっ……だからっ、そんなんじゃないですって!」
「えぇ〜? ほんとにござるかぁ〜?」
「本当です! アーサーまで、そんなこと言わないでよ……」
見上げてくるアーサーにも、なにかしら言われてしまっているらしい。こればかりは、異能を持ってる丈瑠にしか聞こえないが。まあ、大体どんなことを言われてるのかは想像できる。
「ていうか、織さんはいいんですか?」
「なにが」
「その、もしも仮に万が一、僕が桐生のこと、好きでも……」
「いいも悪いもないだろ。そういうのは、当人たちの問題だしな。いくら俺が父親だろうと、その辺口出しするのは違うだろ」
あるいは、父親である織が聞いているからこそ、丈瑠は素直になれない、という可能性だって考えられる。
まあ、この感じだと、本人のいう通り恋愛感情にまでは発展していないのだろう。時間の問題だとは思われるが。
「それとも、娘はやらん、みたいなこと言った方がよかったか?」
「勘弁してください……」
苦々しい顔をする丈瑠を見て、織は声を上げて笑ってしまった。
◆
一度桐原邸に寄って、一徹から諸々の書類を準備してもらい、ついでに昼食も食べてから携帯ショップへ。
無事に購入し終えた二人は、その店の近くにある喫茶店へと移動していた。
「よし、初期設定はこんなものね。はい、朱音。これで今から使えるようになってるわよ」
「ほぁ〜……」
買ったばかりのスマホを渡してやれば、朱音は色んな角度からしげしげと眺め始める。その瞳はキラキラと輝いていた。
評判のいい最新機種の一括払いだっただけに、それなりの出費となってしまったけど。まあ、どうせ貯金は有り余ってるし、その気になれば適当な依頼をこなして直ぐにまた貯まる。
なにより。
「ありがとう、母さん!」
満面の笑みを浮かべる朱音。
我が娘のこんな笑顔を見ることができたのだ。金なんていくらでも払える。
「いいのよ、これくらい。朱音のためなら安いものよ」
「そうだ、ライン? だっけ。あれ、私のスマホにも入れたい! どうやってやるの?」
「任せなさい」
朱音にアプリのインストール方法を口頭で教えつつ、あくまでも操作は本人にやらせる。なんでもかんでも親がやってやるばかりでは、子供は成長しない。自主性というやつを重んじるのが、桐生家の教育方針だ。
いや、別に、私はまだ桐生じゃないんだけど……。
勝手に変な想像をして、勝手に恥ずかしくなる愛美。その辺時間の問題だとは思うけど、織はどう考えてるんだろうか。機会があれば問い詰めてみよう。
「はい、これでオーケーね。電話帳に登録されてる人は自動で登録されるから。私と織は、もう登録されてるんじゃないかしら?」
「あ、ほんとだ。父さんに送ってみるね!」
アイコンはデフォルトで、名前も本名そのままのアカウント。まあそのあたりはまた後で教えたらいいか。
「さて、それじゃあどうする? 一度家に戻りましょうか」
「うん。あ、それもラインで父さんに伝えたらいいのかな?」
「ふふっ、ええ、そうしときなさい」
楽しそうに文字を打ち込む朱音。
もしかしたら、初めてかもしれない。こんなに親らしいことが出来たのは。
いつもご飯は織が作っているし、洗濯や掃除だって全部織の仕事だ。愛美個人で、朱音に親らしいことは、あまり出来ていたとは言い難い。
だから、ちょっとだけ嬉しかった。
自分のしたことで、娘が喜んでくれる。笑顔を見せてくれることが。
今後はもっと、家事の手伝いとかした方がいいかもしれないな。
織に断られる未来しか見えないけど、嫌だと言おうが無理矢理手伝ってやろう。
そう心に決めて、愛美は朱音と事務所まで転移で戻る。
事務所の扉の前に立てば、中からなにやら話し声が聞こえてきた。どうやら来客らしい。もしかして依頼人かもしれない。
が、扉を開けた先にいたのは、そんな予想とは外れた人物で。
「あ、丈瑠さん!」
「珍しいわね」
娘の友人である大和丈瑠が、ソファで織となにやら会話していた。
「桐生。お邪魔してるよ」
「わざわざ事務所に来るなんて、どうしたんですか?」
「公園に新しい子が来たからさ。紹介しようと思ったんだけど、連絡先も知らなかったから」
「ふふん、それなら安心してください! さっき母さんに、スマホを買ってもらいましたので!」
じゃーん、と口で言いながら、スマホを自慢げに見せる朱音。
丈瑠も自分のスマホを取り出して、早速連絡先を交換し始めた。
「じゃあ二人とも、私ちょっと行ってくるね!」
「ええ」
「夕飯までには帰ってこいよ」
朱音の転移で姿を消した二人を見送り、愛美はお茶の準備を始める。
「あの子となんの話してたの?」
「別に、大した話はしてないよ。男同士の秘密ってやつだ」
「余計に気になるわね」
どうせ織が鬱陶しく、朱音のことはどうなんだ、とか聞いていたに決まってる。
愛美としては、本人たちの好きにさせてやればいいと思っているのだけど。
「でも、良かったわ」
「朱音が楽しそうで、か?」
「ええ。私たちや葵たちだけじゃなくて、他にもちゃんと、友人が出来て」
朱音が幸せそうに笑っていれば、それでいい。親子として、ちゃんとしてやれてることは少ないかもしれないけど。それでも、あの子が幸せなら。
未来ではあり得なかった平和を、謳歌してくれているなら。
「それ、ちゃんとお前のお陰でもあるんだからな。その辺自信持っとかないと、あいつすぐ気付くぞ」
思わぬ言葉をかけられて、愛美は目を丸くする。
お見通し、というわけか。あるいは、愛美がそれだけ分かりやすかったのか。
自然と笑みが漏れてしまって、ソファに座る織の隣へ寄り添った。
「そうね……私は、あの子のお母さんだものね。それで、あなたがお父さん」
「なんだよ、改まって」
「ねえ織。私だけまだ、名字が桐原のままだけど。そのあたり、今後どうするつもりなのかしら?」
「……まあ、そのうちってことで」
すぐ近くにある織の顔が赤く染まって、愛美はクスクスと声を上げる。
そのうち。色々と片付いた後に、いつかちゃんと。本当の家族になれる日が来たら。
楽しみだなぁ、と。音を持たない言葉は、口の中で溶けて消えた。




