始まりの人間 3
無機質な瞳に見えて、その中には困惑が滲んでいた。傷が一つもないのは吸血鬼の再生力によるものか。
しかし両腕をしっかり後ろで縛られ、出灰翠は絞り出すように喉を震わせた。
「キリの人間が集結、というわけですか……あの方はこれを見越して……」
「あの、離してあげてください! 縄を解いて!」
葵がそう叫んでも、亡裏の人間は誰も動かない。垓の方を見ても、彼は首を横に振るだけだ。業を煮やした葵が、異能を発動させる。
ハラリと翠の両腕を縛っていた縄が落ち、駆け寄ってその手を取る。特に動かない亡裏の人間から距離を置いた。
「いいのか、垓」
「まあ、仕方ない。この場所に来れている時点で、こいつには資格があるってことだ」
一人の女性が確認する。垓はため息を吐きつつも、どうやら翠をこの場所に受け入れたらしい。
「おい霧の魔術師。お転婆が過ぎるんじゃねぇのか、お前の妹は」
「それが葵のいいところだ」
微笑みながら、緋桜が葵と翠に歩み寄る。だがこのバカ兄はなにを勘違いしてるのだろう。この場で最も警戒されているのは亡裏ではない。その気になれば、葵の身柄程度すぐに確保できるはずだ。それでもそうはしなかった。
なら注意を払っていても、警戒するほどではない。
最も警戒されているのは、下着を覗いてセクハラした変態クソ野郎なのに。
「変態はそれ以上翠ちゃんに近寄らないで」
「んぐぁっ」
奇声を発して、緋桜が崩れ落ちた。
当然の対応である。
「こいつ、こんなんだったのか」
「こんなんだったのよ。残念ながらね」
戦場だけでは、その人間の全てが見えるわけではない。
奥底に潜む想いが表層されたとしても、言ってしまえばそれだけ。人間が多面性に富んだ生き物である以上、殺しあった程度で全てを知ったつもりになるのは傲慢だ。
愛美がいい例だろう。日常の中にある、葵にとっては優しい先輩である彼女。風紀委員や探偵の助手として、真面目に働く彼女。
そして、戦場にある狂気に満ちた彼女。
その全てを知っていてもなお、葵だって織だって、桐原愛美という少女の全てを理解しきれているわけではない。
緋桜も同じだ。変態でどうしようもない兄だけど、頼りになるし優しいし、いざという時はかっこいいし。言葉とは裏腹に、葵が慕う部分もあるのだ。本当にほんのちょっとだけど。
「翠ちゃん、大丈夫だった? 怪我してない?」
「問題ありません」
後ろに庇っている翠の声は、相変わらず感情の見えないもの。だが、それが翠のいつも通り。本当に大丈夫ということだろう。
「黒霧緋桜がいると聞いて来たのですが、なぜあなたたちまでいるのですか」
「ちょっと、ダメでしょ翠ちゃん! あんな変態に会いに来たら!」
「あ、葵……? そろそろお兄ちゃん泣いちゃうぞ……?」
なんなら既に涙目だ。自業自得である。
その兄には一瞥もせず、葵は翠の質問に答えた。
「亡裏の人たちに、キリの人間について聞きに来たんだ。まあ私は、お兄ちゃんに無理矢理呼び出されたんだけど」
「そうですか……やはり、あなた方も完全に把握しているわけではなかったのですね。代表が仰った通り……」
異能研究機関ネザー代表、ミハイル・ノーレッジ。葵は本人を見たことがなく、緋桜とサーニャの前に一度現れただけの、謎に包まれた人物。
今の葵が、倒すべき敵。
その男の言う通りに、自分たちが動いていると。それはつまり、人類最強の男すら手のひらの上ということだ。
この里に来るよう指示を出したのは小鳥遊蒼。彼が亡裏の里について情報を得たからこそ、緋桜と愛美はあんな山の奥深くまで足を運び、葵と織と朱音も呼び出された。
そして翠がこの場にいる以上、ネザーもこの里の存在を察知していたということだろうけど。翠の言葉ぶりから察するに、亡裏そのものが目的というわけではなさそうだ。
「おっと、ここで戦うのは遠慮願うぞ」
「やるなら外に出てからね」
緋桜を睨む翠。その瞳に宿った僅かな戦意、殺意に気づいた垓と愛美が釘を刺す。やはり、緋桜を追ってここに来たのか。
敵として、ネザーの刺客として。
「出灰翠、お前もついてこい。お前には、その資格があるからな」
「おい、いいのかよ。こいつ一応、ネザーの人間だぞ」
織の言う通りだ。葵が翠個人に対してどのような感情を持っていようと、翠が所属する組織は葵たちの敵。
簡単に情報を渡していいとは思えない。
「問題ない。俺たち亡裏は、あくまでも中立だ。お前ら学院にも、ネザーにも、吸血鬼にもくみさない」
平等に、公平に、必要とあらば全員殺す。それが亡裏の一族。
同じキリの人間が多く属するのが学院だからと言って、その味方をしてくれるわけじゃない。場合によっては、敵対してしまうかもしれない。
「亡裏の役割は、継承だ。なにも知らないお前らに、真実を継承する。なし崩し的に決まった役割ではあるが、しっかり果たすさ」
他の誰よりも、キリの人間としての使命、役目を果たそうとしているのが亡裏だ。
魔術や異能といった、超常の力をこの世界から消すこと。
遥か昔に与えられたという拒絶の力も、現代の亡裏が使う体術も、あまりに特化しすぎている。
「さて、続きを話すか。場所を変えるぞ」
垓が言った途端。
景色が、歪んだ。
だだっ広い草原の中にある里。そこにいたはずなのに、気がつけばどこか、洞窟のような場所に移動していた。
亡裏は魔術も異能も使わない。ならどういう原理で、自分たちはここへ転移したのか。
葵以外も同じ疑問を感じてることだろう。しかし聞く暇もなく、垓は洞窟の奥へと歩き始めてしまう。
「賢者の石とレコードレスについて。そう言ったよな」
「ああ」
「なら、その前にひとつ聞いておきたいんだ。あんたはさっき、賢者の石が生まれたから世界に魔力が満ちたって言った。この石は、この世界で生まれたものなのか?」
織の質問に、葵はハッとする。
そうだ。今葵たちが持つ情報としては、賢者の石は幻想魔眼と共に、位相の向こう側からもたらされたものだと認識している。
垓の説明と噛み合わない。
桐生凪が間違った情報を持っていて、そうと知らずに織たちへ伝えた?
いや、全く関わりのない葵でも、それはないと断言できる。
息子である織は残念なことにこんなだが、その父親は聞くところによれば、かなり名の通った探偵だと言うじゃないか。
小鳥遊蒼が信頼していた、と言えば分かりやすい。
果たして凪の語った話の真偽は、洞窟の奥深くに隠されていた。
辿り着いた行き止まり。垓が足を止めたそこには、巨大な半透明の結晶が。最も背の高い垓よりも大きいから、二メートルほどか。それが、洞窟の壁に埋まっている。
異能によって視界に映された情報を見て、葵は思わず呻くように呟いた。
「嘘……あり得ない……」
「全員、一目見て気づいたか? そうじゃないと話にならないがな」
それを体内に宿す三人も、葵と同じ異能を持つ翠も、察知する術などろくに持っていない緋桜ですら。
結晶が視界に映っただけで、理解する。
あり得ないはずなのに。あり得たらいけない、と。心のどこかが警笛に似た何かを発している。
認めるわけにはいかない。だって、こんなものがここにあるなら、あの人は。
魔女と呼ばれたあの人は、なんのために。
「いや、違う……こいつは、賢者の石なんかじゃない」
否定の言葉を、織が強く発した。
「こいつは、単なる力の塊だ。賢者の石と似てるし、重なる部分もある。でも、細かい性能なんてなにもない。術式を記録するっていう、賢者の石にある一番の強みがな」
「そこまで分かったか。さすが、桐生凪の息子だな」
満足げに息を漏らす垓。どこか、織を侮っていたところがあったのだろう。シルクハットの少年を見つめるその目は、僅かだが映す感情を変えた。
「父さん、どういうこと?」
「細かいことは分かんねえよ。でも、こいつは桃が必死に守って、グレイが求めてた石じゃないってことだ」
「ご名答。この結晶は、賢者の石の元になったもんだ。この結晶から抽出されたのが、お前らの持つ最強の力だよ」
演算を深くする。映される情報が増えた。
結果、更に驚く羽目になったのだけど。
「賢者の石。最初にそう呼ばれていたのは、こいつだ。お前らが宿すその石は、世界の歴史を見れば比較的最近作られたものだからな」
「神話の時代は、最近じゃないと思いますけど……」
「世界の歴史から見たら、の話だ。まだ数えられるだけマシだろう」
神の時代が終わりを告げた理由。
そこに、キリの人間が絡んでいる。
魔力とも異能とも違う、第三の力。神氣。
プロジェクトカゲロウによって生み出された三人が持つその力は、名が示す通り神のみに許された力だ。
魔術と異能が溶け合い、変質し、一つ上の次元へと昇華したのが神氣。故に、ただの魔術では傷をつけることは叶わず、一部の強力な異能か、同じく神氣を持つものでないと対抗できない。
そんな力を持った神が、まだこの世界に跋扈していた時代は、紀元前何千年という程に昔の話だ。
その神が世界に姿を見せなくなって、気が遠くなるほどの時間が経っている。
ならば何故、神は世界から消えたのか。
「各神話に関しては、お前ら魔術師の方が詳しいだろう。例えば北欧は、ロキが引き起こした黄昏によって終焉を迎えた。ギリシャは主神がクソだったから、あちこちで問題を起こしてばかり。主神で言えば日本も酷いもんだが、いつまで経っても戦争ばっかのインドやアイルランドよりマシだろうな」
「神様ってろくな奴いないのよね」
「先生はまだマシな方だろ……多分……」
かつて神として生きたという転生者の二人。葵もその顔を思い浮かべて、つい苦笑いが漏れてしまった。
「こいつら神が人間に与える影響は、もはや言わずもがなだな。そして当時のキリは、神をこの世界から消そうとした。そして作られたのが、賢者の石とレコードレスだ」
「消すと一言に言っても、位相の力だろうがそう簡単にできる真似じゃないだろ」
緋桜の言葉は最もであり、なによりも神はこの世界から消えていない。転生者という形ではあるが、現代に生きている。
そして葵の体にも、神の記号を植え付けられ、その結果として神氣を操れるようになったのだ。
「まあ、結論から言えば失敗した。完全に存在を消すことはできなかった」
「そもそも、どうやって消そうとしたんだ?」
「幻想魔眼」
だろうな、と思う。これまでの話に出てきた中だと、神を消すなんて所業が可能なのは魔眼くらいだろう。
「幻想魔眼だけでは足りなかった。そしてこの時だ。キリの人間が、自分たちの祖先がなにをしでかしたのか、正確に把握したのはな」
本来この世界には存在しなかったはずの、魔術や異能を始めとした超常の力。
それがなくとも、この世界は、世界に生きる生物、文明は、時間があれば立派に進化を遂げていただろう。
たしかに魔術や異能を使うより遅くなってしまうかもしれないが。それでも、力を持ち込むのは間違いだった。
「いつか、神々と同じく人間社会に害を与える、あるいは世界を壊そうとするやつが出てくる。だから力を、世界から消さなければならない。今の俺たちが持つ使命はここから生まれ、作られたのがレコードレス。そしてそれを記録しておく石だ」
「それが、賢者の石……」
愛美が瞑目し、そっと自分の胸に手を当てている。その中に宿しているのは、彼女が無二の親友から託された力。
その胸に去来する感情は幾許か。
洞窟の壁に埋まっている結晶を、垓がコツンと小突いた。そんな簡単に触っていいものなのかと心配になる葵だが、結晶自体はなにも反応を示さない。
「さっき探偵が言った通りだ。この結晶から力を抽出し、四人のキリがそれぞれの力を注ぎ込んだ」
「目と、繋がりと、心と、拒絶……ちょっと納得できないですが」
「なにがだ、ルーサー」
顎に手を当て、朱音は考えるように言葉を発する。
「目と拒絶は分かります。母さんのドレスは、まさしく母さんの異能をそのまま進化させたものですので。父さんのドレスも同じです。あれは、幻想魔眼を十全に振るうためのものでしょう」
「そうだな。そもそもレコードレスは一つだった。幻想魔眼の補助が本来の役割だ。位相の力を使えるのは、その副産物にすぎない」
三人ともが、それぞれ別のドレスを使っている。これはかなりイレギュラーな事態だ。そもそも、賢者の石が三つもあること自体、本来ならあり得ないことなのだから。
「けれど、私のドレスは四つの力のどれにも該当しませんが」
朱音のドレス。その力は略奪。
あらゆる超常の力を奪い、己のものとする。
魔女も使っていた力だ。ともすれば、朱音のドレスは桃瀬桃のドレスに最も近いかもしれない。
しかし、腑に落ちない。ドレスにキリの力が込められているというのなら、朱音のものだってそれに準じたものであるべきだろう。
「位相の力。すなわち、魔術や異能といったあらゆる超常の力を支配下に置く力。それは副産物に過ぎない、と言っただろう」
「なら朱音のドレスは、もっと別のところに真価が隠されてるってことか?」
「さあな。それは自分たちで考えろ」
少なくとも、朱音がドレスで発揮する略奪の力は、本質ではない。
「結論を話すぞ。俺たちキリの使命は、レコードレスと幻想魔眼が不可欠だ。どちらか片方が欠けるわけにもいかない。分かるな、桐生織」
全員の視線が、シルクハットの少年へと集まる。当然本人も、自分の価値は理解していることだろう。
だが織は、難しい顔でポツリと呟いた。
「この世界を、新しい世界で塗りつぶす……それは、正しいことなのか……?」
「そうしないと、お前の娘は一生救われないぞ」
即答だった。
織なりに悩んだのだろう。キリの使命は、いわば今ある世界を破壊する行為に等しい。なにも知らず生きている人々の日常、その全てを壊してまで、本当にやる価値があるのか。
「未来は収束する。これは事実だ。ルーサーが繰り返した転生、その未来だけじゃない。あらゆる道をどのように辿ったところで、このままじゃ吸血鬼の望み通りだ。桐生朱音は、永遠に時の牢獄から逃れられない」
タイムリミットが来たのだ。キリの人間が、この世界には過ぎた力を望んだ、その代償を払う時が。
ならばその不始末は、現在のキリの人間が片付けるべき。
「こいつは術式を記録しないと言ったな。たしかにその通りだが、別のものは記録する」
「並行世界を、とでも言うのか?」
「その通りだ、霧の魔術師。こいつは、無数に枝分かれした並行世界の全てを記録している」
葵が情報を視て驚いたのは、まさしくそこだった。
今こうしてる間にも、世界は枝分かれしていく。例えば、葵がここで何か言葉を発するか否か。それだけに留まらず、呼吸のリズムや立ち方に至るまで、あらゆる人間のあらゆる要素が、世界を分ける十分な理由となり得るのだ。
バタフライエフェクト。
蝶の羽ばたきひとつで未来が変わるというのは、なにも間違った話じゃない。
その全てを、かつて賢者の石と呼ばれたあの結晶は、記録している。
過去も、現在も、未来も、その全てを。
「ゆえに、レコードレス。こいつですら記録出来なかった未来を求めて、俺たちの祖先が作り上げた最強の力。桐生織、お前にはそれを使う義務も、権利も、理由も、全て揃ってるんだよ」
「……それでも、俺は……」
これこそが、桐生織の弱さ。ここで即決できない。娘のためというこの上ない理由を出されても、彼の頭にはチラついているのだ。
学院の友人や、桐原組のひとたち、街の親しい隣人に至るまで、その全員の顔が。
誰か一人のために、世界を壊す。
そんな覚悟、まだ十八歳の少年には持てない。
「まあ、考えればいいさ。そもそも魔眼とドレスの両方を持ってるお前なら、悩んだところで無駄だと分かってるだろうがな」
織の表情が苦々しく歪む。
この先輩のそういうところに、葵は好感を持てるのだ。
垓の言った通り、織だってわかっているのだ。他の方法は存在しない。頑張ればなんとかなるとか、他の道を探せばいつか見つかるとか、みんなが力を合わせればとか。そう言った綺麗事が、何一つ通用しないことは。
だって、それが通るのだったら。
復讐なんて二の次で、織や愛美、葵や朱音たち友人との未来を思い、一人で戦った桃が死ぬのはおかしい。
何度も何度も、数え切れないほど転生を繰り返し、それでも敗北を重ね、どこにも記録されることのない未来を積み上げて来た朱音は、救われないといけない。
頑張ったってどうにもならず、何度挑んでも光明は見えない。未来が閉ざされた袋小路。それでも諦めたくないのであれば、やるしかないのだ。
だけど織は。
それでも、と。苦悩する。
紛れもなく、織の弱さの象徴だ。非情になりきれず、犠牲を受け入れられない。
実際に、魔眼とドレスによる世界の再構築は、犠牲を生むわけではないのだ。死人が出るわけではなく、ただ今とは別の世界、別の生き方に変わるだけ。個人個人で差はあるだろうけど、そもそも世界が変わったことすら気付かないだろうから。
でも今の生活は全部消えてしまって。たとえ本人たちがそれを覚えていなくても、織の中には残っていて。
桐生織は根本の部分で、どうしても奪う側に立てないのだ。
「さて、これで粗方話したか?」
俯き考え込む織にはもう一瞥もくれず、垓はあっけらかんと言う。
魔術や異能といったあらゆる超常の力を消すことが、キリの人間に与えられた使命。
それらの力が、果たしてどのようにもたらされたのか。
幻想魔眼、賢者の石、レコードレス。その詳しい使い方と力。
しかし、まだ残っている。むしろ葵にとっては、こっちが本命だ。
「まだ一つだけ残っています。わたしと、シラヌイについてです」
否やの声をあげたのは翠だ。
ネザーに所属していながら、垓に許されてこの場所にいる、灰色の少女。
そもそも翠がなにをしに来たのかを聞きそびれているが、今の一連の話を聞いていて、翠も疑問を抱いたのだろう。
葵と同じ疑問を。
「わたしは当然ですが、シラヌイも、黒霧の家とは血縁関係がありません。灰色の吸血鬼の遺伝子と組み合わせたのは、一般人のものです。キリの人間とは関係ない。しかしシラヌイ……黒霧葵は、現に位相の力を使い、キリの人間となった。それはまだ理解できなくもありませんが、わたしがこの場に立ち入れた理由が分かりません」
そう、黒霧葵の本当の名はシラヌイだ。
キリの人間ではない。翠の言葉を借りるなら、そうなった、という。後天的な、なんて言いかたもおかしな話だが、しかし実際にはそうだ。
位相の力を使えるようになったあの日。
大切な妹たちが消えて、葵の中で一つに溶け合ったあの日。
翠が言っていた。あなたはキリの人間になった。そして、ネザーの悲願に到達した、と。
その後の翠との交流を通して考えればわかる。あの時の翠の言葉は、恐らくネザーの代表の受け売りだろう。灰色の少女が、その意味を理解して放った言葉ではない。
「なんだ、そんなことか。簡単な話だ。というより、話を最初から聞いてれば理解できると思ったんだがな」
と言われても。翠はそもそも最初から聞いていたわけじゃないし、一方で葵も、伝えられる情報を処理するのに精一杯だ。
キリがどうとか、幻想魔眼がどうとか、世界がどうとか。
葵の演算能力、情報処理能力であっても、きっちり整理できているわけではない。
あるいは、事前知識が多少なりともあれば。そこで納得したように頷いている愛美のように、もう少し深く理解できたのだろうが。
「キリの継承に、血や遺伝は関係ないってことね。そもそも最初のキリが血縁に力を与えたなんて、言ってないもの」
「そっか……」
もしかしたら、幻想魔眼を託そうとした相手は血縁関係にあったかもしれない。なにせ初代キリの後継だ。
しかしそれ以外の人物はどうだったか。わざわざ垓からの説明がなかったということは、つまりそういうことなのだろう。
「殺人姫の言う通りだ。キリの継承に、血や遺伝は関係ない。全くってわけじゃないだろうが、それが全てを決定させるってことはねえよ」
そして、亡裏の男は。
誰にでも平等に、公平に、死を運ぶ非情の殺し屋は。
とてもそれらしいとは思えない、冗談めいた皮肉げな笑顔で、言った。
「意思だ。遥か太古から受け継がれた思い。どこにも記録されていない未来を求める。その意思さえあれば、位相の力を、キリを継承する資格を得られる。だからシラヌイはキリの人間に為った。出灰翠は、この場所に来られた」
納得できる話だ。
黒霧葵は、なによりも今を大切にする。まだ見ぬ未来などではなく、今ここにある場所。ここにいるみんなを。
けれどそれは、未来を求めていない理由とはなり得ない。
朱音にしたってそうだ。彼女は転生者ではあるが、過去だけに固執しているというわけでもない。なにせ父親があれだ。そもそも彼女の過去は、今現在葵が生きているこの時間よりも未来であり、その未来を変えるために、朱音は戦っているのだから。
「わたしが、未来を……? でも、けれど、わたしは……わたしの、存在意義は……」
けれど、ただ一人。
みんなが納得する中で、質問を投げた当人だけが。無機質で無感動な瞳を、行き場もなく彷徨わせていた。




