第二章・雪辱戦・その六
玉髄の浮揚機関が応急修理を終え、翌日は早朝からの釣行になりました。
巻網媛が悪樓の引き上げに備えて第一砲塔跡で待機していると、小型通信機に、後甲板にいる歩たちの声が入ります。
『よっしゃーっ! 今日もいい感じに曇ってくれたぜぇ‼』
『曇ると、なにかよい事があるのですか?』
狂喜乱舞する歩を前に、玉網媛は首を傾げるばかりです。
『明るすぎると、魚が根(石の隙間など)に潜って出てこなくなるんだ。視界が利いて外敵に狙われやすくなるし、エサになる小魚も隠れて狙いにくくなるからなぁ』
『そういえば、昨日もよく釣れていた気がしますね』
『それは先輩たちの腕……あと歩は運がよ……げえっぷ、おげえっ……』
小夜理は早くも、とったばかりの朝食をキラキラレインボーしました。
馬穴が間に合わず、船べりから魔海に直接吐き出しています。
未消化状態の朝食は蕃神の一部ではないので、魔海を素通りして、その下にある本物の海に落ちました。
きっと魚が群がっている事でしょうが、肝心の悪樓は集まりそうにありません。
『全部吐いたか? じゃあ始めるぞ』
『げほっ……いいですけど、なにが起こっても知りませんよ?』
「あっ、こっちきたよ!」
ここまで聞いたところで、早くも喜美代の神楽杖に魚信があったようです。
「ほ~らほらほら、私はおいしいよ~? パクッといっちゃえパクッと」
喜美代が使う宝珠はカエルウオ。
イソギンポの仲間で、ギンポとハゼの中間みたいな魚形をした、二本の触覚がキュートな黒っぽい魚です。
魚長は十倍スケールの一メートル強。
クネクネ踊って悪樓の食欲を誘います。
「これはグレかな……よしかかった!」
魔海上空に浮遊する玉髄が傾きました。
「これは尺超えてるね! ラッキー♡」
喜美代は巻網媛の祝詞も待たずにゴボウ抜き。
「オナガだあ!」
オナガグレ、標準和名はクロメジナ。
ババタレことイスズミの仲間で磯の魚です。
どちらかというと外洋性で、そのせいか引きが強く、鈎がかりが難しいのが特徴。
その魚長は三十メートルを超えていました。
悪樓は百倍スケールなので、普通の魚で換算すれば三十センチに相当します。
「これは儂の出番じゃな」
普段ならゴボウ抜きできる重量ですが、いまま甲板に落とすと、応急修理を終えたばかりの浮揚機関に損害が出るかもしれません。
巻網媛は神楽鈴を構え、祝詞を唱えます。
おおわたつみ こわだつみ もろわだつかみを……
張りきりすぎたのか、オナガはたちまち縮んで宝珠になってしまいました。
それを両手で受け止めて回収完了。
『こちらもきました!』
二番手は小夜理でした。
『よっしゃ! タモさん出番だぜ!』
『畏まりました』
玉網媛は右手に神楽鈴を、左手に舞扇を掲げます。
べん べん べべん……
「三線じゃと?」
首を傾げる巻網媛。
魔海対策局で使われる、どの祝詞にも、楽器を使うものはなかったはず。
一つとせ 一番ずつに積み立てて 川口押し込む大矢声
この大漁船
それは断じて祝詞ではありません。
「なるほど、これは蕃神様の入れ知恵じゃな」
皇族にすら変えられない規則でも、蕃神の提案なら無条件で許可されるのが弥祖の通例です。
あとは成功するか否かですが……。
二つとせ 二間の沖から外川まで 続いて寄りくる大鰯
この大漁船
銚子大漁節。
千葉県銚子市の民謡で、『一つとせ』や『心中節』を源流とする大漁祝い唄です。
三つとせ……
巻網媛が神力ジャンプで後部信号楼の見張り所に飛び移ると、第二砲塔跡の天蓋で唄い踊る玉網媛と、三線を弾く歩の姿がありました。
そして空中には魚長百二十メートルを超える巨大なヒラマサ悪樓が。
「蕃神様も凄いが、よもや玉網がこれほどとは思わなんだ……」
神力には体外に影響を与える【外新功】と、体内に影響する【内新功】が存在します。
その内新功を外新功へと変換し、悪樓を引き上げるのが祝詞などを使った儀式。
玉網媛は内新功に優れ、神気の探知なら巻網媛にも勝るかもしれないと予想はしていましたが、その秘められた力が、楽曲でも外功に変換できるとは、考えた事もありませんでした。
それどころか祝詞より効率がよく、ひょっとしたら、これでもまだ玉網媛の全力ではないのかもしれません。
「そういえば、玉網は舞踊に長けておったな」
単調な祝詞より、軽快に唄い舞い踊る方が性に合っているのでしょう。
「あれほどの悪樓、儂でも軽々とは行かぬぞ」
しかも玉網媛は汗ひとつ掻いていません。
「あとは持久力じゃな」
なにせ百二十メートルもある悪樓です。
その巨体が宝珠に変換されるまで、まだまだ時間がかかるはず。
真上に悪樓を浮かばせたまま力尽きると、後ろで三線を弾いている歩ともども命取りになりかねません。
巻網媛は後部艦橋に跳び、いつでも力を貸せる体制を整えました。
ただし舞踊の素養を持たずソーラン節も知らない巻網媛は、いま手を出せません。
玉網媛が粗相をした時だけです。
「なにかおうても祝詞では間に合わぬ」
落ちる悪樓を横から蹴り飛ばすのが最善ですが、それでは魔海に落ちて元の木阿弥になってしまいます。
魔海を避けて下の海に落とす手もありますが、そうなると宝珠の回収は絶望的でしょう。
あと巻網媛が足場にしている後部艦橋が大破します。
一つとせ 一番ずつに積み立てて……
一番に戻ってしまいました。
銚子大漁節は十番まで存在しますが、玉網媛は三番までしか覚えず、僅かな練習時間を踊りの習得に集中させたようです。
この大漁船……
ヒラマサ悪樓が空中で縮み始めます。
巻網媛は手に汗を握りました。
昨日は見張り所の手摺をグニャグニャにして、艦長さんにやんわりと窘められたので、今回は必死に堪えます。
『よっしゃ成功! やったなタモさん!』
演奏をやめた歩の手に、落ちてきた大きな紺と白と黄色の宝珠が握られました。
『マキエもよくやった! 大物じゃねぇか!』
『あれくらい普通です』
『いや無茶苦茶でけぇだろ』
通常は大きくても一メートル、悪樓換算で百メートルくらいでしょう。
『でもこの祝歌、わたくしには会わないようですね』
これほどの釣果を上げたのに、まそれでも玉網媛には御不満のようでした。
百二十メートルの悪樓でさえ、民謡で滾る神力には及ばなかったのです。
『じゃあ他の曲も教えてやるよ。大漁歌い込みなんてどうだ?』
『それはあとでお願いいたします。いまは悪樓を釣らないと』
『では次の【波】がくる前に……』
小夜理はいつまたやってくるかわからない船酔いの波に備えて、素早く神楽杖を振りました。
「あれで曲目が合わぬと申すか……」
巻網媛は青くなりました。
合わない唄であの釣果。
ピッタリな曲を見つけたら、一体どれほどの大物が取り込めるというのでしょう?
『歩様、三線を』
『えっ? まさかタモさん弾く気か?』
『すでに曲は覚えました。歩様は悪樓釣りをお願いします』
三線を受け取った玉網媛は、撥を構えて銚子大漁節を弾き始めました。
『なんてこった、マジで覚えてやがる』
昨晩に散々弾いて聞かせたとはいえ早すぎです。
「末恐ろしくもあるが、これは先が楽しみじゃのう」
巻網媛は鼻の下がすっかり伸びきっていました。




