たとへばなし―懺悔残響(たられば)
今日も今日とて、名もなき疲れに襲われる。
『if』に侵された生活に、飽きてしまったのだろう。
『maybe』至上主義に、疲れてしまったのだろう。
もし────だとしたら。
きっと────だったかもしれない。
そんな後悔を思い返すほど、身体は毒されてしまっている。
損な決断を迫る現実に、視線を合わさなくなっている。
もし、あの時弟の手を離さなければ、
額のあの傷は付かなかったかもしれない。
もし、あの時友人の家に行かなければ、
父に殴られる事もなかったのかもしれない。
もし、あの時サヨナラを告げていれば、
今頃自由に恋愛出来ていたのかもしれない。
どうにもならない後悔を、
どうにもならない生活で、
どうしようもなく執拗に、
どうしようもなく繰り返す。
……そんな人生に、飽きてしまった。
決断の連続で成り立つモノが人生ならば。
後悔の墓石に刻まれる言葉も人生だろう。
後悔なき決断の果てに、人間は後悔を繰り返す。
戻れない道を選んでしまった絶望と、
先の知れない未来への姿無き不安にかられ、
誰もが『if』と『maybe』に逃げるのだろう。
例えば、明日私が死ぬとして。
後悔しない事など有り得ない。
あらゆるものに未練は残る。
刹那的に過ぎる時間の中で、大切な物が多過ぎる。
それは友であり、家族であり、物であり。
後悔しないための決断をする度に、
大切な何かが増えていく。
大切な何かを守るための決断で、
後悔の種子が発芽する。
表裏一体の関係に、どうしようもなく人は後悔を強いられる。
サヨナラ、お父さん。
私は、出来の悪い息子でした。
サヨナラ、お母さん。
私は、生まれなければ良かった人間でした。
サヨナラ、最良の友達。
私は、あなた達とは釣り合いませんでした。
サヨナラ、恩師の方々。
私は、あなた方の期待には応えられませんでした。
サヨナラ、大切な誰か。
私は、あなたを幸せにできませんでした。
こんな懺悔は、届かないのは明白で。
明白だからこそ、記憶に残るもので。
ゆえに人は救いを求めるのであって。
それが宗教になり、それが争いになり。
そんな後悔の戒めとして、
人は希望をたらればに乗せて言葉を吐く。
大切なモノを捨てれば、後悔は減る。
大切なモノを抱えれば、後悔は増える。
矛盾した性能の人生に、一切の情けはなく。
破綻した人生の航海に、一切の罪はなく。
生まれた瞬間からゆっくりと死んでいく人間は。
生まれた瞬間から後悔を重ねていく。
誰かの都合で産み出され。
何かの都合で働いて。
何かの都合で死に至る。
そんな決まり切った線路の上から外れた誰かを、
理由も聞かずに社会の銃口は射抜いていく。
世知辛いとは皮肉なモノだとつくづく思う。
世を知るなど、愚行もいいところだろう。
後悔に後悔を重ねる航海に地図などなく。
不可視の星を眺め、微かな風を読み切り、
僅かな凪に舵を漕ぎ、魚の回遊に針を落とし、
まだ見ぬ島を目指す旅は果てしない。
そんな計り知れない不安と恐怖に煽られ、
誰もが生き急ぐこの社会だ。
たられば。
きっと悪い言葉じゃない。
恐らくは、希望を乗せるための言霊で。
絶望を絶望で終わらせないための言葉で。
未来を少しでも明るくするための灯台で。
きっと私も、そうありたいと願おう。
後悔は数知れず、懺悔は伝え切れない。
残響は鳴り止まず、恐らく鳴り止むことはない。
それでも、ここまで走ってきた事だけは、
間違ってはいないだろうから。
いつか走り終えた頃、後悔を大切なものと呼べるように。
その懺悔を、大切なものと呼べるように。
暗闇の世界で、今、精一杯の希望の灯台を建てよう。
もしいつか、あなたに出会えた時は──────
了