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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

1982年6月18日

作者: 一切

小説かきました。時間ある方、感想か、指摘してください。


1982年6月18日

裁判は断言した。[永田洋子。被告は自己権威欲が旺盛で、ただ、怠惰、感情的、攻撃的性格であり、一貫した思想はなかった。明らかに、失敗の原因が同人の資質にあるに関わらず、党員の責任にし加虐したことは、理性の欠如といわざるを得ない。現に法廷でも弁明のひとつもせず、黙秘している。(裁判官は黙秘という語彙を強調して発音した。)よってこの一連事件は、思想的一貫した革命でなく、あくまで同人の個人的資質の欠如による凶悪大量殺人事件であると断言できる。]



 永田の顔がさっとあおざめた。そこに記者がフラッシュをたく。[凶悪大量殺人事件であると断言できる。]役人の方に悪気はない。(当人にしっかりと、自身の罪を自覚させた上で刑に服させた方が、当人のためによかれ。)という官僚的な配慮であろうが。しかし、本人にとってはたまったものでなかった。よみ上げられるたび、彼女は内で叫んだ。違う、私はただ、決意を通しただけ。私はただ、マルクス主義の教えを通しただけ。(著者注 マルクスの思想とマルクス主義の思想とは別のものである。)ところがここで自己矛盾が生じた。自身は本当に忠実だったのか?例えば、捕まりそうになったとき、幾人かは自決した。罪人になるのを許さなかった為、言わば主義に殉死したのである。でも、自分は死ねなかった。敵にやすやす身を引き渡した。あの瞬間、私は汚れてしまったのだ。天と地から圧迫され呼吸ができなくなった。[ご免なさい。私は人殺しです。]声が出そうになったが飲み込んだ。吐けば楽になる。何て無責任な、いやらしい言葉だろう?救うだって?楽園に導くだって?イエス・キリストにでもなるつもりかね?独りよがりの怪物め。

役人の顔が3人にも、4人にも見えてきた。彼女はきを失い倒れた。[永田。立ちなさい、永田!]

死後の解剖により分かったことだが、永田洋子は脳腫瘍を患っていた。それで頭痛や発作を起こすことおおかったが、生前、周囲はそれを彼女の怠け癖としか見ていなかったらしい。

高等学校を優秀な成績で卒業した彼女は1963年、薬科大学に入学した。どういうわけか学生運動に接近した。集会にいくと、青年がげきを飛ばしていた。[今の日本政府は腐敗している。アメリカに腰抜け外交をしているからだ。このままではアメリカに国が食いつくされる。GHQを砲撃し、憎きアメリカを駆逐せよ。大和人よ。立ち上がれ!]拍手が沸き起こった。彼らの共通点は、幼い頃、戦争を経験した世代だということだった。当然、米を憎悪していた。反米愛国。このスローガンが彼らを結束させていた。この頃の赤軍は一面右の体質をもつ。1964年、永田は入団し、そこの有力者、川島豪の愛人となる。

彼らが外国人で、唯一尊敬していた対象があった。中国の毛沢東であった。国内が混乱しており、内政もままならないに関わらず、朝鮮戦争で勇敢に闘争した彼の姿は、当時多くのタカ派に相当ウケたらしい。[弓につながれた矢は、射るより他にない。][全ての指を傷つけるより、ひとつの指を折れ。]など、彼の思想、人生観などは、そのまま彼らに引き継がれた。赤旗にも、毛沢東思想万歳、の文字があった。

GHQに洗脳されて、盲いているから現実が見えない。我々は代表して泥をかぶり、真正の大和政府をつくりあげる。毛沢東も建国時、何万人もの中国人を虐殺した。正義の遂行の為に犠牲はつきものだ。それが彼らの思想だった。しかし甘すぎた。

1971年、ついに革命議長で洋子の恋人、川島豪逮捕さる。議長席は永田が引き継ぐこととなった。ここがこいつの汚いところだ。川島を寝取って図ったのだろうと噂するものが多かったというが、あんまりである。安定期の中国やソ連ならともかく、途上の赤軍議長は決して楽な立場でない。

はじめのうち、永田はその職権とコネを駆使して、川島救出の為に奔走したが、失敗した。

1971年12月、永田は川島と絶縁、退会させ、新党を結成し、彼女自らを指導者に据えた。しかし、名を変えても形は変わらない。情報管理がお粗末なので作戦は漏れる、次々と事件を起こすから、首級の値が増す、であるから警察側も張り切り、組織は段々端に追い詰められつつあった。

党は山のなかに閉じ込められた。陰険な雰囲気のなか、仲間割れが始まった。マルクス主義によれば、統制のとれた組織は無敵である。今負け続けているのは統制がとれていない、党員に十分な革命意識がないせいだ。永田は切羽詰まった脳で考えた。[自己批判せよ。]次々に仲間内で吊し上げが行われ、殴り始まった。ドカッ、ボカッ。遂に死者もでた。負の連鎖。地獄。

1972年2月、永田は委員長の森と山のなかでうろうろしているところを捕らえられた。活動資金を募りにいく途中だったという。

陰謀と怠惰、幼稚な女の末路。ギョロ目の冷血女。日頃から嫌われているからか、新聞や週刊誌でかなり吊るされたらしい。判決は死刑、一連の事件のほとんどが、永田主導と決定された。永田は否定し続けたが、判決は覆されなかった。彼女は諦めず、裁判やり直しを要求し続けた。最後の闘争のつもりだったのかもしれない。しかし、世間はいい気味だと笑った。このころ、彼女の容態が急速に悪化している。

2011年2月、彼女は獄死した。65歳であった。

 私は永田洋子に似ている。計画がない。だから、彼女に自身の姿を投影した。

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