Ⅰ-1 平和が打ち破られる時
涼やかな風が、薄い霧の中を駆け抜けていく。雲もなく澄み切った空の下、奇妙に紅い陽光が“波遥(はよう)”と書かれた表札を照らし出した。
その家の二階――イルカが描かれたカーテンが覗く部屋から、機械的な音が響き渡る。
「うっ……」
軽くうめき声をあげ、少女は手探りで時計のアラームを切る。寝ぼけ眼をしばたかせ、少女はほぅ、とため息をついた。
美しい少女だった。寝起きで、あちこちに寝癖がついていたが、すらりと流れる鼻梁といい、ふっくらとした唇といい、非常に整った顔をしている。何より、人を惹きつけずにいられないのは、その大きな瞳だろう。まだ、幼さが残る面立ちの中で、揺るぎなき黒曜石の輝きを宿し、印象深げに揺れている。肌は日によく焼け、健康的な小麦色を呈しているが、パジャマ代わりのタンクトップから覗く鎖骨から胸にかけては、処女雪の白さを秘めていた。
「……よかった。夢だ」
すぐに起きる気にはなれず、少女は寝台の上で丸くなる。
ベットの脇に設置した目覚し時計が、八時を指した。
「咎人、かぁ……」
嫌な夢だった。
もう夢の映像そのものは、どこか意識の彼方に吹っ飛んでいたが、叩きつけられた憎悪は忘れようがない。まるでホラー映画の終焉のように、目の前が真っ赤に弾けた。もう一度、目を閉じかけて、
「悠理(ゆうり)!いつまで寝てる気だ!?」
階下から聞こえる声に、少女は飛び上がった。慌てて時計を見て、真っ青になる。
「やばい!遅刻する!!」
そう叫ぶと慌ただしく着替えを済ませ、悠理は乱暴に道具をかばんに突っ込むと、階段を駆け下りる。
「よっ、怪獣!今日も騒がしいな」
ダイニングに直行すると、兄の夜刀(やと)がモーニングコーヒーを飲んでいるところだった。柔らかな陽光を受けて、肩肘をついたまま、朝刊を手繰る。切れ長の瞳を少し充血させて、コーヒーをすする様は、少し気だるげで、物憂げな色香を漂わせているが、妹に向けられる眼差しは優しい。
「あれ、夜刀兄(やとにぃ)。仕事は終ったの?」
悠理の声に、夜刀は背伸びをした。捲りあがったシャツからは、細身の印象に反して、よく引き締まった腹が覗く。
「まぁ、後三十ページってとこだ。十時には、編集者|((とりたてや)がやってくるが、何とかなるだろう。早く朝飯作れよ」
「それどころじゃない!学校に遅れちゃうっ」
くるりと、夜刀に背を向けると、悠理は玄関に向かって走り出した。その背に向けて、柱時計が七つ鳴り響く。ピタリ、と悠理の足が止まった。
「…夜刀兄」
してやられた!そう思いながら、悠理はダイニングに戻ってきた。
「また、時計に細工したな!?」
そのまま夜刀の前を素通りして洗面台に向かうと、朝の身支度を整えながら、悠理は叫ぶ。
「何のことだ?」
また一口、コーヒーを口に含みながら、夜刀が言う。
「どっかのバカが時計を見間違えるのは、俺のせいじゃないだろ」
「嘘だ!絶対に、針を進めたんだ」
年頃の女子高生とは思えないほど短時間で身支度を済ませた妹がキッチンに向かうのを横目で見つつ、相変わらずな兄貴は鬼畜な発言をかます。
「ご主人様が、徹夜でお仕事をしているのに、ペットが寝てていいと思ってんのか?」
「ペットじゃないっ!」
おたまを振りかざして悠理が叫ぶと、背後の壁から声が聞こえた。
「ま~た、兄妹喧嘩か?」
聞きなれた声に悠理が振り返ると、キッチンの小窓からブレザー姿の男子が覗いていた。歳相応の、腕白げな光を浮かべ、健康的な笑顔がひどく印象的だった。
「…紫苑」
ふぅ、と悠理は息を吐いた。
「お前、こんな朝っぱらから何してんの?」
「見てわかんねぇの?」
と、紫苑は軽く足を上下させた。
「フットワークに決まってるだろ。全く、相変わらず、鈍いねぇ〜」
「ここは、僕ん家だ!」
遠慮容赦なく、拳をお見舞いすると、悠理は朝食の支度に取り掛かった。
「おー、痛っ。これじゃあ、嫁の貰い手が無くなるぞ」
頭をさすりながら、ダイニングの窓からずうずうしくも紫苑は家に上がりこむ。
「女にやられるなんて、何てだらしがないんだ」
「けっ。おめぇが、凶暴すぎるんだよっ」
「悪いなぁ、紫苑。うちのペットは、すぐ噛み付いて」
「いえいえ、夜刀さんが悪いんじゃないっすよ」
のんきに話す男二人組みをほっといて、悠理はダンダンと料理をテーブルに広げていく。あっという間に、二人ぶんの朝食が出来上がったのを契機に、夜刀は新聞をたたみ、テーブルに伏せた。
「…ユーリ、俺のは?」
何故か、紫苑まで食卓につくと、そう漏らした。
「自分の家かえって、食えば?」
バリバリと音をさせながらレタスを食べる悠理。
「あー、お前、本っ当に冷たいな。幼馴染がはるばる来てやってんのに、朝飯の一つも食べさせないなんて」
「大丈夫だ、紫苑!俺のを分けてやるっ」
「夜刀さん!」
固く腕を組んで友情(?)を確かめ合う二人に、悠理はため息を吐きながら立ち上がった。別盛りで作ってあったおかずとご飯を差し出す。
「おおっ、わりぃーな。何か催促したみたいで」
「してるくせして…」
悠理の独り言を無視して、紫苑は旺盛な食欲を見せる。
「紫苑。両親、いつ帰ってくるんだ?」
テレビのリモコンを押しながら、夜刀が聞く。視界の隅に、悠理が新聞に手を伸ばしているのが見えたが、特に怒ることもしない。
「さぁ、いつっすかねぇ」
忙しなくご飯をかきいれながら、紫苑は答えた。
「うすらボケの息子と違って、おじさんもおばさんも忙しいからね」
「いいご身分だよ。たった一人の息子ほったらかして、二人とも仕事に明け暮れてるんだから」
「しょうがないだろう。二人とも世界的に有名な芸術家だ。いくらお前のそばに居たくとも、世界がほっとかないだろう」
夜刀の言葉に、紫苑は肩をすくめた。
「まぁ、いてもいなくても、似たようなものですね」
「・・・いつかお前も居て良かったと思う日が来るさ。いくら居て欲しくても、それすら叶わない奴だっている。俺達のように・・・」
「――そうですね」
己の迂闊な発言を悔やみつつ、紫苑は向かいの悠理の顔を盗み見る。しかし、当の本人は、新聞を見るのに集中して、二人の会話は耳に届いていない様で、内心、紫苑は安堵した。
「とはいえだ」
最後のページに熱心な視線を注いでいる妹を尻目に、夜刀が紫苑に笑ってみせる。大人然とした表情が消え、悪戯を思いついたような笑みに、紫苑の曇りも薄らいでいく。
「幸運なことに、お前達は、こぉんな立派なお兄様に見守られて育った。心深ぁ〜く感謝するように」
「もちろんですよ。夜刀お・兄・様」
「食いすぎ!」
自分のおかずに伸びてきた紫苑の手を音高く弾くと、悠理は味噌汁をすすった。
「あちっ」
「落ち着いて、食べろ。悠理」
時間に急くことのない夜刀がのほほんと言う。
「そーいえば、夜刀さん。小説はできたんですか?」
「もう少しだな。そしたら、ひさびさにフリーだ」
「きっと、またベストセラーですよ!」
いい音をさせながら紫苑が漬物を食べる。
「でも、意外だなぁ。あんなに誘いのあった会社や研究所を蹴って、小説家になるなんて…。もっとも、才能があるからいいですよね」
「お前にも、サッカーがあるだろ?エース君」
尊敬している夜刀に褒められて、紫苑は相好を崩した。
「ああ、そうだ」
やっと読み終え、新聞を畳んで押しよこした悠理を尻目に、夜刀は言う。
「今日の夜、俺がテレビを見るからな」
「えっ!?」
突然の言葉に、一瞬、悠理は呆ける。
「『夏の実録!恐怖の心霊体験』、確か、今日の七時からだろ?」
「な、何で、知ってるの!?テレビ欄も見ていないのに!?」
驚きついでに、墓穴を掘ってしまった悠理に、紫苑が口パクでバーカ!とやじる。
「テレビ欄なんか見なくても、CMがあるだろうが……」
はぁ、とため息をつき、夜刀は妹の頭を軽く叩く。
「いつも言ってるだろ。そんなくだらない番組は見るなって。頭悪くなるぞ」
「で、でも、いいじゃん!夜刀兄、お化け信じてないんでしょ!?」
「見えないもの、いないものをどうやって、信じればいいんだ?存在証明がなされてないものは、すなわち、存在しない、だろうが。……全く、二十一世紀になっても、これ系のおバカ番組は消えないのか。画像処理された映像を怖がって観て、どうするんだ?」
「う~ん、さすが、夜刀さん。知的な発言ですねぇ~」
夜刀を称えた紫苑だったが、小さく悠理に向かって囁く。ほとんど、音をなさない唇は、ゆっくりと『俺の家』という形を形成する。
「幼稚な手品に妹が引っかかるなんて、兄貴として耐えられないからな」
机の下で、オッケー!とサインを送りながら、悠理は夜刀に勘付かれないように、頬を膨らませて、睨むふりをする。夜刀は涼しい顔のまま、ちらりと紫苑を見ると、
「あ、それから、夕飯は七時からだ。紫苑の家にいって見ようとする悪あがきは、俺には通用しないからな」
がっくり、首を落とす二人に、夜刀は口端に微笑を浮かべ、甘いんだよ、と小さく呟いた。
「お前が、バカ正直に表情に出すからバレるんだ」
「夜刀兄が鋭すぎるんだよ!」
じゃれあう二匹の子犬の様に、恒例の痴話喧嘩を始めた二人を見て、やれやれとお兄様は髪をかき上げた。何だかんだ言っても、悠理に甘い夜刀は助け舟を出してやる。
「悠理、牛乳とってくれ」
「あっ、俺も!」
「自分でとればいいじゃん」
そう言いつつも、冷蔵庫から牛乳を取り出す悠理。コップについで渡そうとして、ふいに夜刀がものすごく真剣な眼差しをテレビに注いでいることに気がついた。
『昨夜未明、季由山(きゆさん)にて、ミイラ化した遺体が発見されました』
淀みないアナウンサーの言葉に、悠理と紫苑の視線もテレビに集まる。夜刀が音量を上げた。画面に、死体発見の状況が映しだされる。
『警視庁で身元を捜査していますが、完全にミイラ化している上、身分証明書なども持ち合わせていないため、捜査は難航しそうです』
「季由山って、確か学校の裏山じゃないっけ?」
「ん〜、そーいやー、昨日ロープで囲ってた気がする」
ごくごくと牛乳を飲み干しながら紫苑が答える。
「ぶっ!あれメイじゃん」
地元の人々の聞き込みに映し出された映像に、紫苑は叫んだ。
「ああっ!ほんとだ。メイだ」
臆することなく話す友の姿に、悠理は笑った。
「あっ、あいつ、マイクまでとっちゃって!ぷぷっ、質屋(みせ)の宣伝までしてやがる!ギャーハッハ……おっ!」
ふいに画像が途切れて、アナウンサーの生真面目な顔が覗く。いささか緊張した面持ちで、
『ただいま、事件の続報が入りました。死体鑑定の結果、遺体は死後三日経過の模様です』
「はぁっ!?」
悠理は叫んだ。
「そんなに簡単にミイラができるわけないじゃん」
「警察、てきとーなこと言ってんじゃねぇか?」
『とりあえず、周囲の皆さんは、厳重に注意してください。……続きまして──』
別の話題に変わったニュースを尻目に、悠理は片付けを始めた。ボーンボーン、と時計が八回鳴る。
「紫苑、遅れるぞ!」
かばんと弁当を持つと、悠理は玄関へと急いだ。
「俺のは?」
靴をはきながら、紫苑が尋ねる。悠理は、でかい方の弁当箱を押し付ける。
「……悠理」
珍しく、玄関まで見送りに来た夜刀が、神妙な声を出した。
「ん?何、夜刀兄?」
夜刀はしばらく悠理の顔を見つめていたが、
「……いや、気をつけろよ」
「大丈夫、夜刀さん!こいつより強い奴なんか、めったにいやしませんよぉ。昨日みたいに襲われたって、アチョーと格闘技でK.O.っす。それに俺もいるし。じゃ、いってきます!」
「あっ……」
紫苑に引っ張られながら、悠理は後ろを振り返った。何だか、夜刀の表情が気になったのだ。
「悠理、遅れるぞ!それじゃあ、時計を操作した意味がなくなるじゃないか!」
だが、夜刀はいつもと変わらない様子で笑っている。
「やっぱり、いじったんじゃん!」
「妹想いの、良い兄貴だろっ?」
パチン、とウインクを決める夜刀に安心して、悠理は駆け出した。
「紫苑!学校まで、競争だ!」