1.私は恵まれている
縦読み推奨
予告なく容赦なく誤字修正を行います。温かい目で見てあげてください。
この地方は四方を山に囲まれているため、冬は特に冷える。かちこちに固まってしまった自分の手に、動け動けと叱責するように白い息を吹きつけて、手をこする。外での作業だから仕方がないと、諦めるしかない。
小さな村の領主の屋敷は、敷地もそれほど広くないため、使用人は両手の数ほどしかいない。ブーツボーイも洗濯係もいない。そのため、手が空いていれば、私なようなレディーズメイドでも掃除や洗濯をしなくてはならない。屋敷がそれほど広いわけでも、主人の衣類やアクセサリー類が多いわけでもないため、過重労働ということではない。ないはずなのだが、どうにも仕事量が多すぎる。
あのメイド長は、どうにも私のことを嫌いすぎているようだ。この間も私の替えの服が畳んでいたはずなのに、乱雑に捨て置かれていた。嫌われすぎていて、ああそうね、としか思わなくなってしまった。
洗濯物を板に押し付けて、鉛のように重い手を半ば条件反射のように動かした。水気を切り終わり、干し終わった頃には夕餉の時間になっていた。
***
遅れたことを私の主人、領主の一人娘であるシャーロット様に謝ると、彼女は優しく笑って許してくださった。
「どうせまた、嫌がらせを受けたのでしょう? あんまりだわ。貴女は私付きのメイドなのだから、貴女をいじめていいのは私だけなのに」
そんな冗談まで言って励ましてくださる。
シャーロット様は気心が優しい上に、綺麗な女性だ。柔らかくカールしたストロベリーブロンドの髪は美しく編み込まれ、上品なドレスを身にまとっている。華美すぎない飾りは彼女の魅力をよく引き出している。白くほそいが頬がこけているわけでもない。見ているとため息が出てしまう。自慢の主人だ。
シャーロット様とその父である領主様は、村で行き場のなかった私を引き取ってくださった。
私の両親は、村々を歩いて渡る商人だった。旅をしながら珍しい物産を仕入れ、旅をしながら売り歩くといった商売をしていた。そして、この町に立ち寄った際、夫婦そろって宿で倒れてしまった。高熱にうなされるふたりをなぜかひとりだけ元気だった私が看病をすることになり、必死に行った。しかし、その苦労むなしく、両親そろって先へ逝ってしまった。
「ごめんね、ごめんねアデル」
と母は私に何度も何度も謝っていた。まだ、耳に残っている。
「ひとりにしてごめんね、アデル。どうかあなただけでも、幸せになってね」
そう言い残して、母は息を引き取った。
両親の病名はその当時のはやり病で、現在では治療薬が広く出回っているものだ。
仕事柄たくさんの人々、土地、食べ物に触れ合ってきたため、明確な感染経路はわからない。医者に、私だけ病気にならなかったのは、私の両親が私に、を自分たちは我慢してでも栄養価のあるものを与えてくれていたからだろうと言われた。
その当時は、自分のせいで両親を殺してしまったような気分になり、ひどくふさぎこんだものだが、今はそうは思わない。両親が残してくれた命だからこそ、生きなくては、私は幸せにならなくてはいけないと思っている。
両親が持ち込んだ形になったはやり病は、小さな村で蔓延した。それでも、死にいたった人間は少なかった。病気に立ち向かうからだができていなかった子供や老人、赤ん坊……といった具合で、それほどには死者が出なかったのだ。
それでも、遺族の死者へのやるせなさは募る。そして、そのあて先は、はやり病を持ち込んでしまった一家の生き残りである私だった。街を歩いていれば、ひそひそと陰口が聞こえてき、両親が残してくれた少しのお金で食事をとっていると、どこからか指をさして笑われた。直接的ではないにしろ、嫌がらせは昔からあった。そのため、先ほどのメイド長のようなことも私にとっては珍しくない。
そんなひとりぼっちの私を引き取ってくださったのが領主様だ。領主様は幼いシャーロット様とちょうど同い年くらいで、遊び相手にもなる使用人を探していたらしい。私が病の疑いがなく、身体が丈夫なことを確認すると、食事と住居、働く場所を与えてくださった。私は心からそのことに感謝している。給料が不足しているだとか、仕事場や住居が辛いだとかあまり思ったことがない。もちろん環境が良いからというのもあるのだが、それ以上に領主様のこともシャーロット様のことも大好きだからだ。
「ねえアデル、今日のメインディッシュがとても美味しかったってシェフに伝えてくださるかしら?」
「はい。かしこまりました」
シャーロット様は本当に心優しく、美しい。これでシャーロット様がふたつ年下だというのだからとてもそうは思えない。美味しそうに食事を食べている彼女を見ていると、いつも私まで幸せな気持ちになる。見ているだけで、満足であるはずなのに、ふとした瞬間に私は貪欲になる。要するに、シャーロット様が羨ましいのだ。シャーロット様が昔お話してくださったお姫様を思い出す。
ドレスを身にまとい、幸せそうに笑うお姫様。楽しそうに、笑うお姫様。いつか素敵な王子様と出会って、幸せな結婚がしたいと、幼いシャーロット様は言っていたけれど、今はどうだろう。そして、私はどうだろう。私も小さい頃は多少、夢見がちなところがあって、どこかにいる私だけの王子様がいつか迎えに来てくれるものだと思っていた。しかし今は、それほど子供でもない。自分の王子様なんていないこと、どこからも迎えに来てはくれないこと、今は分かっている。大丈夫。私はそう、自分に言い聞かせるように心のなかで言う。
今の生活に、何の不満もない。むしろ恵まれすぎているくらいだ。そう思ってはいるにも関わらず、私はどこかでこの日常が変わることを望んでいたのかもしれない。
「そうよ、アデル。隣村との境界あたりに、化物が住んでいるんですって」
「化物?」
シャーロット様の言葉に、少し考えこんでいたため、いつもより数瞬遅れて返事をした。
隣村とは、山から続く森で区切られている。隣村との境界あたりということは、森に住んでいるということだろうか。隣村とこの村の関係は良好で、人びとの行き交いも多い。森には大きな獣も住み着いていないため比較的安全とされており、森の面積もさほど広くはないからだ。隣村はどちらかというと、この村よりも海よりに位置するため、交易の交差点としての役割を担っている。そのため、この村からわざわざ珍しい物産を買いに行くために、隣村まで足を伸ばすこともある。
「ええ。なんでも、家畜を襲うんですって。それも一晩に雌牛二頭も! 羊なら五匹、あんまりよね。被害は両方の村にあるし……」
「はいそうですね。その化物の正体は分かっているのですか?」
そう私が尋ねると、シャーロット様は待っていましたと言わんばかりに、背筋を先程よりもぴんと伸ばして――伸ばしすぎてすこしのけぞっている様子――答えた。
「それが、まだ分かっていないんですって。なんでも、肉はそのまま残っているのに、血だけが綺麗に抜かれているとか」
だから、夜は気をつけてねとシャーロット様は心配そうに仰った。私はかしこまりました、十分に気をつけますと言うと、他のメイドに後片付けを任せ、シャーロット様のご就寝の準備をともにした。