4 説得と告白
「カレーってさ、食べると気持ち良くなるよね。何か、体がふわあって浮いて、どこかへ飛んでしまいそうになるよ」
幸せそうに、目を細める父さん。
――確かにオレは、カレーのスパイスで飛んできました。うん。
「お、そこの可愛い女の子は彼女かい? いいねえ」
「彼女じゃありません」 オレの背中越しに、アゲハが即座に否定する。
――オレの娘らしいですよ、父さん。
「ふうん、そうなの……まあいいや。そうだ、ソフトクリーム、おごっちゃおう」
父さんがベンチから立ち上がり、ゆっくりと駅の入り口にあるソフトクリーム屋へと向かう。スーツには、だいぶ皺が寄っていた。
「ちょっと、何なの? あのオヤジ」 アゲハが、嫌そうに口を尖らせて言った。
「判らないか? あれは僕の父さんだよ。つまり、キミのお祖父さん」
「えっ、本当?」
ベンチから身を乗り出し、アゲハが父さんの背中を凝視する。父さんは、ズボンのポケットから小銭を取り出し、カウンター越しにソフトクリームの注文をしていた。
「案外、簡単に見つかったわね。ラッキー」
アゲハが、ペロッと舌を出す。どうやらこれが、彼女の癖らしい。
「本当だったんだ……スパイス・トラベラー。それならキミは、本当に僕の娘?」
「まあだ、信じてなかったの?」 呆れ顔で笑う、アゲハ。
――そりゃ、そうだろ。普通。
父さんが三色の渦巻きみたいなソフトクリームを両手で持ち、よたよたと帰って来た。
「はい、どうぞ。そこのカワイ娘ちゃんにはストロベリー。少年には、バニラだ。おじさんは、チョコにした」
オレの左腕を、アゲハの右肘が小突く。
――ん? 何だよ。
アゲハを、チラリと見遣る。
「早く、お祖父さんに言いなさいよ」
「言うって、何を?」
「犬を助けるな、に決まってるでしょう?」
「オ、オレが?」
「あったり前でしょ。あんた、私のお父さんなんだから」
――そんな時ばかり、父親扱いすんなよ……気が重いな。
父さんは、ソフトクリームを美味そうに、舌でチロチロとやっている。
「あの、おと……いや、オジサン。ちょっといいですか?」
「ん? 何だい? アイスのお礼ならいいよ、出世払いで」
「いえ、そうではなくて、犬のことなんですが――えーと、犬はお好きですか?」
――何聞いてんだ? オレ。
「はあ? 犬? 犬って、あの四本足の動物の? 別に好きじゃないけど――」
……。犬って、四本足の動物の他にいるのかよ。
アゲハがそのとき、オレの太腿を、ぎゅりっと捻った。
(早く言え)
氷のように冷たい眼差しが、そう訴えている。
「そ、それでですね、犬は助けないほうが良い、と思うんです」
既に、ちんぷんかんぷんだ。
「あ、そう。わかった」 父さんは、にっかりと笑い、素直に頷いた。
――ええっ? 分かったの? ホントかよ!
あまりのスピード解決に驚くオレの横で、よかったぁ、と涙を流すアゲハ。もしかして、オレの家系って、変なヤツばっかりなの?
「それじゃあ、今度はおじさんの話を聞いてくれるかい? 初めて会ったのに、何故か君達は身近に思えるんだよね。不思議だなあ」
――そりゃ、息子と孫娘ですから。
感動の涙が嘘のように消えたアゲハは、キラキラ輝く瞳を、父さんに向けている。
「実はさあ……おじさん、今日、会社辞めちゃったんだよ」
――会社を辞めた? イキナリ来たね……そんな話、聞いたことない。
「会社で上司とケンカしちゃったんだ。まだ小学生の子どもがいるってのになあ……」
その子どもはオレのことだよ、父さん――そう出かかった言葉を、ぐいっと飲み込む。 アゲハはきょとんとして、目をぱちくりさせている。
「それを、かあ……いや、奥さんは知っているのですか?」
「いや、まだ知らせていない。知ったら、鬼のように怒るだろうなあ。おーこわッ」
父さんが、身震いした。
「それで、どういう言い訳しようかとこのベンチで考えていたら、つい、居眠りしてしまってねえ……なあ、何か良い案はない?」
――そ、そんなこと言われても……
「と、特に……」
「じゃあ、アイス返してもらおうかなあ」
――無理。もう、胃の中に入っちゃいました。
ふと横を見ると、「何だそんなことか」とつまらなそうな表情のアゲハがいた。
「そうだキミ、一応、女だろ? 奥さんと同じ女として、何かアドバイスない?」
「一応は、余計だけどね……」
上目使いで、頻りとアゲハが考えを巡らしている。
「それなら、思い切ってダイヤモンドの指輪をプレゼントするとか?」
「職を失った人が指輪なんか買ったら、もっと怒られるに決まってるよ」
「はあああ……」
三つの大きな溜め息が三人を包みこんだ、そのときだった。
きゃんきゃんきゃん、きゃーん!
あたりにけたたましく響く、動物の鳴き声。それは、すぐ傍の交差点の向こうから、聞こえてきたものだった。