第二章:コミュニティ
クイーンガーネットの盗難から二日が過ぎた。俺は犯人を見つけたもののしばらくは捜査をするふりをして黙っていることにした。学院長からとんでもない宣告を受けてはいるが、時間制限はそこまで厳しくもない。今はそのタイミングを気にする必要はないだろう。今のところ不安材料があるとすれば、学院長かメリッサさんに捜査状況についてせっつかれた時の対処法くらいだ。
俺は今朝エルと会った後寮に戻り、メリッサさんから呼び出しを受けた。昼前の時間を指定されたし学生寮のすぐ近くの喫茶店で待ち合わせだったので、俺は寮の朝食をとった後談話室のテレビでニュースを見たり、級友と情報交換したりしていた。そろそろかという頃に身支度をして指定の喫茶店へ。テラス席で新聞を読む黒髪の魔女を見つけるのは難しいことではなかった。
「おはようございます、メリッサさん」
「おはよう、アル」
今日は個人的には似合っても場に似合わないパーティードレスではなく、至って普通の柄シャツに黒のロングスカート姿だった。緑の玉がくっついた帽子は相変わらずだが、あまりにも雰囲気が違うので俺は少し動揺した。
「今朝の新聞ですか?」
「マスコミが嗅ぎつけて記事にするとしたら今日だろうと思ってな」
テーブルの上には三種類の新聞が並んでいる。まず最大の読者数を誇る全国日刊紙ユナイテッド。同じ内容のマキナ語版とマギカ語版を同時に制作できるシステムを確立していることでも知られ、ここに用意されているのはマギカ語版だ。次に栄光新聞、こっちは二つの文明の調和と対立に焦点を絞った週刊新聞。先にマキナ語で出て、その三日後にマギカ語版が「グローリー」の名前で出される。三つ目がここデクス島のローカルな記事がメインのデクステラタイムズ。こちらは記者の母語によって記事の言語が変わるユニークな日刊紙だ。その脇にもう一方の言語でレジュメを掲載しており、読みづらいと評判らしい。
「アカデミーには新聞記者だろうと簡単には入れませんよね? だったら大丈夫でしょう」
「マスコミのパワーを侮っちゃいけない。情報っていうのは、どんなにうまく隠しても漏洩する。格言にもあるだろう、上手な手がどうとか」
「上手の手から水が漏れる、ですか?」
「そうそれ」
「どんなにうまい人でも失敗することはあるって意味ですよ」
「紛らわしいな。じゃああれだ、誰がどこで覗き見したり盗み聞きしたりしてるか分からないから気をつけろ、っていうの」
「壁に耳あり障子に目あり、ですね」
「マキナの文化圏にメアリーなんて名前の人がいるのか?」
「ベタなボケを……」
「ん? ああそういうことか」
どうやら冗談ではなく本当に間違えたらしい。無理もないか、昔は一般的だったらしいけど、今や諺のたぐいは教養や雑学の象徴として一部の人に使われるだけだし。
「それで、何か怪しい記事はありましたか?」
「ユナイテッド紙にミッションの生徒に港が占拠されたことの続報が書いてある」
「占拠って。そんな大掛かりなことやってたんですね。迷惑な」
「それが見当外れだと知った時の彼らの顔が目に浮かぶようだ」
分かる気がする。全員が全員カンディ・ロッソみたいな生徒だと言うつもりはないが、ああいう思考をする人がいれば、勘違いの暴走があってもおかしくはない。
「クイーンガーネット盗難事件のことは?」
「当然。アカデミーが生徒の実力を試すために出したゲームで、一昨日の夕方に終わったことまで書いてある。このニュース自体は生徒にも担当官にも配信されたものだから、怖がることもないだろう。今日中にエギルが謝罪の言葉を出すくらいだろうな」
「ゲームと言うとだいぶ印象が軽くなりますね」
「本当に盗み出された宝具を探すトレジャーハントだとは誰も思うまいよ」
「それにしても、卒業試験が事件として報じられるのって初めてじゃないですか?」
「初めてではないよ。ただレアではある」
「あったんだ……」
「衝突が避けられないテストなんだよ、ミッションは。興味があるんなら栄光新聞を定期購読したりバックナンバーを読んだりするといい。そういう事件や功績を拾うのが大好きな新聞社だからな。私達もいずれはそこに取材を受けるかもしれない」
「あの木の影に隠れてカメラをこっちに向けてる人とか?」
メリッサさんが素早く振り向くと、カメラ小僧は身を引っ込めた。どう見ても不審者だ。
「ジャーナリストなら隠れたりはしない、普通は」
「誰なんでしょうね?」
「確かめてみるか」
するとメリッサさんはテーブルの隅に置かれたコーヒーカップを持ち上げ、数滴ソーサーに落とし、もう片方の手でそれに触れると指をぱちんと鳴らした。次の瞬間、木の向こうに隠れていた男が、ジャケットに縫い付けられた糸に引っ張られるように後ろ向きにこちらへと歩いてくる。テーブルの直前でターンして、棒立ちになった。
見た目は二十代くらいの中肉中背の男。左手の薬指にダブルリングをはめているから既婚者だと分かる。まだ寒いわけではないのに、薄手のカーキ色のジャケットを羽織っている。カメラを首から下げている以外には持ち物は見当たらず、記者にしては不自然だ。
「身分証明書を」
メリッサさんは冷たく言った。警察じゃあるまいし、何もそこまでしなくても。と思う俺をよそに、男は懐から一枚のプラスチックのカードを取り出した。それをじろじろ眺めてからメリッサさんは、「仕事は? 名刺くらい持ってるでしょう」と続けて聞いた。慌てて男は先程とは反対側のポケットからアルミケースを取り出すと、紙切れを一枚差し出した。
「ごく普通の会社員のようですね、これが偽造でなければ」
「本物です!」
顔を赤くしながら叫ぶように男は言った。どうやら緊張しているようだ。まあこそこそと隠し撮りしていたところを見つかったのだから無理もない。ここは公共の場所だし犯罪に問える理由もないから、堂々としても良さそうなものだけど。
メリッサさんがテーブルの上に置いた二枚のカードを俺も手に取る。プラスチックの方は免許証だった。俺も持ってるしよく知ってるが、不自然なところは特にない。番号やピクチャーコードの照会をすればはっきりするだろう。一方名刺は何の変哲もない紙に文字と会社のロゴが印刷されてるだけで、いくらでも偽造が出来そうな代物だ。裏面にはマギカ語で同じものが書いてある。
「そう。それでタニグチ氏、私に何かご用?」
社交辞令で丁寧な言葉づかいをしているとはいえ、その口からこういう言い回しを聞くのは言い知れない違和感がある。まだ会ってから三日目だというのに。
「め、めめ」
「めめ?」
「メリッサ・レインズさんですよねっ!」
先ほどと同じように突然叫ぶように、というか本当に叫んだ。テラスでお茶をしている人だけでなく、店内の客やウエイターも一斉にこちらを振り向いていた。これにはさすがに黒猫さんも圧倒されたらしい。
「あ、そ、そうですが」
「ファンなんです!」
男は跪くなりいきなりそう言った。まあ無害そうなので良しとしよう。というか、ファンなのに本人かどうかも知らないで追いかけてたのか。いや問題はそこじゃない。
「サンキューサンキュー」
ものすごく面倒臭そうに握手している。というか実際面倒なのだろう。ファンというよりストーカーだ。
「私のことを知っているということは魔法省の関係者ですか?」
名刺を見る限りごく普通の食品会社だけど?
「いえ、自分はしがないパン職人です。かつて海で泳いでいたところを魔術師に助けられたのがきっかけで趣味でいろいろ調べ始めたんです」
そういうことか。もう大体の事情は飲み込めた。メリッサさんの反応が面白いので黙っていよう。
「手を放してくれませんか。あと逃げないのでちゃんと座って下さい」
俺も心の底からそう願う。跪いて女性の手を取って目をキラキラさせながら大声で熱弁を振るう人間とは、出来れば一緒にいたくない。視線が痛すぎる。ほら通行人までこっち見てるじゃないか。
「し、失礼しました、興奮のあまり……」
相当この人に会いたかったんだろうな。彼の僅かな言葉から俺が予想した通り、このタニグチ氏は若い時分、海で遊んでいたら離岸流に流され、溺れそうになっていたところを魔術師に助けられたことがあるらしい。それまでマギカとは全くと言っていいほど接点のない生活――事務的な会話を除くと――を送っていた彼だったが、その一件を境に考えが一転、魔術師というものを英雄視するようになり、その色眼鏡で現役の魔術師の情報を集めた結果メリッサ・レインズという人物に行き当たり、たいそう惚れ込んだ、という次第だ。
国家資格を持つ中級以上の魔術師については、国民全員がその情報にアクセス出来るようになっている。個人情報がダダ漏れかというとそうでもなく、基本的に本名、生年月日、ランク、専攻、出身地、所属協会と顔写真に限られる。その目的は魔術師による犯罪を防ぐため。魔法が絡んだ犯罪は犯人の特定が困難になるが、魔術師の知名度が予め高ければそれだけ捜査がしやすくなるというメリットがある。また、専攻、要するに得意分野も掲載することで、魔術師を必要とするクライアントが適切な魔術師を探せるようになる――とそのデータベースはのたまっているが、それは協会の仕事だし、そこにある情報だけじゃ需要と供給がマッチするかどうかなんて分からない。ちなみにメリッサ・レインズの項目にはズバリ『専攻:狙撃』と書いてある。いくらランクが高いとはいえこれを見て依頼しようというクライアントはいまい。
「それでストロース協会に出向いたのに、仕事の依頼でないなら帰れの一点張りですよ! こんなことが許されていいんですかっ!」
「協会は慈善団体じゃないんですよ。魔術師だって暇な人ばかりでもありませんし、協会に常駐しているわけでもありません。ただ『会いたいから』だけでは門前払いされて当然です。だからと言って、こういう方法に出るのはどうかと思いますけどね」
「それにしてもタニグチさん、どうやってメリッサさんがここにいるって分かったんです? カメラを持ってウロウロしてたら偶然そこにいた、なんて都合のいい話ではないんでしょう?」
俺がさっきからずっと気になっていたのがそこだった。彼女のファンなのはいい。隠し撮りもまあ瞑目するとして、こちらの行動が誰かに筒抜けというのなら、やましいことはないにしても無視は出来ない。この店がお気に入りでよく出没する、なんて噂があるという程度ならまだ許せるけどさ。
「よくぞ聞いてくれましたね名も無き少年。ところで君は一体何者? というかいつの間にそんなところに」
「いや最初からここにいましたけど!」
恋は盲目、とはよく言ったものだ。こんな近くにいたのに認識すらされていなかったのか。
「ああ、分かりました。息子さんですね」
俺とメリッサさんがユニゾンで否定したのは言うまでもない。
「やれやれ、朝の良い空気が台無しじゃないか。もう昼だが」
コインパーキングの支払いをしながら、メリッサさんはそう呟いた。
「あんな人もいるんですね」
「長いこと魔術師やってるがああいうのは初めてだ。一番苦手なタイプだ」
「それはよく分かります」
クールで人を寄せ付けない一匹狼にしてみれば、ああいう熱いハートのベタベタした子犬は邪魔者でしかない。とにかく相性が悪いのだ。
「それで、今日はどこに?」
「協会に行く。本来なら一昨日に済ませておくはずだった手続きがあるから」
初日はゲームに参加し翌日まで幽閉され、解放されたら捜査でそれどころじゃなかったから、無理もない。
「手続きって何をするんです?」
「チイと私が組んでミッションに参加する承認だよ。これがないと二人一組で行動できない。アカデミーから出された指令は別として。もちろん事情は全て話してある。遅くなったことに気後れする必要はないよ」
「全て、と言うと、あれも?」
「会長にはクイーンガーネットの件も、チイがその捜査の責任者であることも話したよ。魔石杖の持ち主の一人だから知らせない訳にはいかないだろう」
そう言いながらヘルメットを装着し、モーターを起動させる。
「ディアナが犯人だと見抜いたくだりを話したらたいそう興味をもったようだ。力になってくれるかもしれないな」
「それは心強い」
サイドカーは駐車場を離れ、ストロース協会の本部へと向かう。その間俺は端末を起動して、先ほどタニグチ氏から聞いたBBSへのアクセスを試みた。彼によると、魔術師のファンのコミュニティがネット上に存在し、そこの目撃情報の掲示板からメリッサさんがミッションに参加していること、彼女があのカフェにいることを知ったのだそうだ。そういうのがあるのなら、見ておいて損はないだろう。それに、もう少し度が過ぎればプライバシーの侵害にもなりかねない掲示板だ。黙って見過ごせない可能性だってある。
検索エンジンにサイト名を入れると真っ先に出てきた。その名もwizardfancom。分かりやすいな。会員登録して早速メリッサ・レインズの名前で検索をかけたが膨大な件数がヒットした。適当に覗いてみると、やはりというか、エルが教えてくれた噂話に尾ひれどころか手足や角や羽やたてがみが生えたようなものばかりだった。
「メリッサさん、カタストロフを食い止めた英雄ってことにされてますよ」
信号待ちで止まったところを見計らってそんなことを言ってみた。カタストロフというのは、戦争が終わるきっかけとなった大災害のマギカ語の名称だ。
「それはもはや噂以前にジョークでさえないな」
「考えなくても嘘だって分かりますからね。それを知っててこういう書き込みしてるのかもしれません」
「まあユーモアの範疇で済むならいいのだがね」
「やっぱりありますよ、何かしらの殺人事件に関わったんじゃないかって噂が」
「そのうち手を打たないとトラブルになりそうだな。身に覚えがない逆恨みを食らっちゃ笑い事じゃない」
それにしてもどうしてこんなにもこの人には変な噂が付き纏うんだろうか。本人はその内容を完全に否定した訳じゃないし、何かしらの理由があるんだとは思う。仕事の最中に上の指示で誰かを死なせることはあっても、自ら誰かを殺すことを仕事にしているのではない――エルとヴィントさんを交えて四人で話した時に、そんな話をしたっけ。しかしながら、犯罪歴がある魔術師なら協会に所属できないだろうしましてやミッションに参加したりはしないはず。人を殺したことがあるのは事実でも、それは決して犯罪とは見なされない類のものなんだろう。このあたりが歪んで広まったんだろうか?
何か手がかりでも見つけられればと思ってしばらく検索してみたけど、有力な情報は手に入らなかった。というか、雑多な情報が多すぎる。
「着いたよ」
気づけばサイドカーは水色の大きな建物の前に停車した。石を組み上げて作られた、前時代的な造りの四階建ての建造物。入り口の上には豪華なプレートが飾られ、「ストロース魔術協会」と彫られている。さすが三大魔術協会の一角をなすだけのことはある。
メリッサさんが駐車場から戻ってくるのを待って中に入る。アイボリーを基調とした落ち着いた雰囲気の事務所だ。正面に受付カウンターがあった。そこを顔パスして、奥の階段から最上階へ。絨毯の敷き詰められた廊下を少し歩き、高級そうな木の扉に突き当たった。雰囲気でわかる。ここが会長の部屋だ。チーフルームと書いてある。
「失礼のないようにな」
「はい」
メリッサさんがノックをすると男性の返事が聞こえて、二人で中に入った。
「待っていたよ、メリッサ。そしてアルクラッド君。私がここの会長、ヴァレンス・ストロースだ」
そこにいたのは胡麻塩頭の老人だった。青みがかったグレーのスーツはこなれていて、その体によく馴染んでいることが遠目からでも分かった。座っているので背丈はよく分からない。非常に温和な外見で、田舎のじいちゃんに雰囲気が似ている。学院長とは良くも悪くも対照的なマギカだ。
「はじめまして、会長」
「座ったままで失礼する。最近背中が痛くてね」
マギカ語では腰と背中を区別しない。だからこういう言い回しになる。
ストロース会長は机の引き出しから書類を一枚取り出し、ペンを添えて差し出した。
「この枠内を埋めた後、ここにサインを」
「はい」
「君のことは調べさせてもらったよ。実にメリッサと相性の良さそうな少年だ。ところでアカデミーから渡された書類によると学科の成績が今ひとつ振るわないそうだが、これにはなにか理由があるのかね?」
ペンを走らせる手を止めて、俺は答える。
「俺は平均くらいだと思っています。理由と言われましても、性分としか答えられません。座学でひたすら物を暗記するのは好きじゃないんです」
「なるほど、アカデミーの勉強ができることとパズルを解くひらめき力とは別物ということか。結構結構。メリッサはうちの協会でもトップを争う魔術師だ。学ぶものは多いだろう、大いに吸収しなさい」
「はい」
最後にAlklard SHIRANAMIと署名して、メリッサさんへペンを渡す。
「私ばかり話してしまったね。君からも何か言いたいことはないかね」
「では……マギカとマキナの戦争は、また起こると思いますか」
「絶対に。地形を大きく変え人口を十分の一にするほどのものはもう起きないだろうが、人は争うものだ。君も男なら、分かるだろう。そして、歴史は何度も繰り返す。忘れた人間が、同じ過ちを繰り返す。大きな民衆の流れを、私達のようなサヴァンが導かなければならない。たとえどんなに無力でも、だ」
「私達のようなサヴァン……」
「そう。サヴァンとは『多くを知る者』の意だ。この世には二つの文明がある。その二つを知り得ているものこそサヴァンと呼ぶにふさわしいのだよ。君はどちらかね。愚者か、賢者か」
「その定義に準ずる限り、俺は後者です」
「その点に関しては私も保証します、ヴァレンス」
メリッサさんが援護射撃をした。
「そうか、それは安心した」
手続きを済ませた俺達は、協会にあるコンピューターから例の掲示板にアクセスしていた。何か問題となる書き込みがあるようなら、管理会社に抗議しに行く必要があるからだ。
とは言ってもサイト名が示す通り結局はファンサイトである。サイバー犯罪防止法に則って、閲覧には簡単だが会員登録が必要で、書き込みには本名を含めた個人情報の登録とアクセスログの取れる端末が必須というだけあり、下手な書き込みはそう簡単には見つからない。あっても、マギカの軽犯罪を摘発する画像や動画がアップされている程度だ。
「メリッサさん、何かありました?」
「私に関する噂は本当にどうにかならないものか。あとカタストロフの検証記事だ」
「あの戦争を終わらせた大災害ですよね、何を検証するんです?」
「あれがマギカの手で人為的に引き起こされた可能性だ。伝承では初日に大雨、翌日に暴風、その翌日に地震と、一日ごとに違う災害が起こり、それぞれが一日で終わっていることから魔法によるものだと結論づけているようだ。でもそんなこと、魔法で出来るレベルじゃない」
「伝承が意図的に歪曲された可能性も高いですし。雨雲も低気圧も移動するものですからね」
「誰もが荒唐無稽な話だと信じているのが救いだ。チイは何か見つけたか?」
「いえ、問題のありそうなのは特に。こういう、立ち小便だとか庭の林檎を盗むだとかの証拠写真が集まる掲示板はありました」
「……知り合いの刑事に知らせておくか」
実は「レッツ・ショー・ノストラ・トレジャーボクス」「VISYOUZHO八犬伝」とか、絶対に何かあると匂わせるタイトルも見つけていたのだが、ここは敢えて黙っておいた。ノストラって何だ? エルなら古いマギカ語にも詳しいから後で聞いておこう。
それからニューススタンドで写真誌を二冊買い、カフェで軽食がてらその雑誌を回し読みした。なんでも、マギカの文化を知るのにはこういうのが一番らしい。買ったのはマギカ向けの男性誌と女性誌。語学の教材として切り抜きを読んだことはあるが、全体を通して眺めたのは初めてで新鮮だった。男性誌がビジネスや数字が好きなのは共通だけど、特にアート分野に興味があるようだ。最近クラシックな技法の絵画や彫刻が、人の手の温もりが感じられるとして見直されているらしい。新たな絵の具の製造法が出来たこととも関係があるとか。女性誌? 下着の広告しか覚えてないね。
日も傾いた頃、連れて来られたのは港だった。夕焼けの海ってなんか物悲しいな。
「おやメリッサ嬢、こんな時間に来るとは珍しい」
中年の毛深いマキナが近づいてきてそう言った。頭には手ぬぐい、半袖の白いシャツに防水のカーゴパンツ。漁師だろうか。
「その呼び方はやめろと何度も……アル、この人は船貸家のワタリ。仕事で何度も世話になってる。ワタリ、彼はミッションのパートナーのアルだ」
お互い挨拶を済ませると、メリッサさんは今日は船を借りに来たんじゃないと言って、サイドカーのポリタンクを俺に渡した。
「そこの坂から水を汲んできて欲しい」
「海水をですか? 分かりました」
すぐそこには船を陸に上げるためのコンクリートの坂がある。そこを下って直接水を入れろということか。仕事を終えてタンクとバイクをつなぎながら、俺は尋ねた。
「海水が動力なんですか?」
「そう。私の属性が水だというのは前にも話したな? そして私は魔法を使うのに代償物として水が必要なんだ。魔法で電気を起こしてモーターを動かしてる。代償物のことは……エルから聞いているな?」
「ええ、魔法を発動するのに必要な三要素、魔力、回路、代償物と教わりました。エルの場合それが『言葉』なんですってね。ディアナさんも」
最初にアカデミーの地下で出会った時の小瓶、今朝のコーヒーと、確かにこの人は液体を使ってから魔法を発動していたな。
「そういうことだ。実はああいう原始的な方法が一番応用範囲も広くて強い。ただし使うのに時間がかかるのと慎重に言葉を選ばなければいけないのがネックだそうだ。代償物も魔力の波長と同じく一人ずつ異なる。一昨日対峙したカンディとやらは砂糖を使っていたな、そういえば」
「そうか、口に何か入れていたのはそういうことだったのか。それで、メリッサさんの場合水を使うというのは分かったんですけど、何故海水なんですか?」
「いろいろ試してみたが、純水の効率が一番悪くて、不純物が多いほど魔力変換率が高いことが分かったんだ」
「なるほど、それで無料でいくらでも手に入り、自然にある全ての元素が溶け込んだ海水がうってつけという訳ですね」
「そう。ちなみに水だけじゃなくて液体なら何でも使えることまで分かってる」
「ということは溶けたハンダや水銀も?」
「水銀は試した。効率としては第二位くらい」
「一番は?」
「魔術師の血液」
「分かる気がします」
「そう。血は特別な液体なのだと、ある悪魔も言っている。とある地方の怪物も、血を吸うことでパワーアップする」
「古い魔法に血を使うものがあるのと無関係じゃなさそうですね」
「属性に限らず血はクイーンガーネット同様の効力があるから当然だ」
「そんなに?」
「でもそれを頻繁には使えないしリスクがあるし血は保存できない。普通はやらない」
「ですよね」
「さあ、そろそろ帰ろうか」
「ですね。思い出したので一つ良いですか?」
「何だ?」
「メリッサさん、手の届く範囲でしか魔法を発動させられない、その補助のために銃を使っているって言ってましたよね。じゃあアカデミーの地下でのあの長距離狙撃は完全な実力ですか?」
「あれは弾丸に、『マズルから飛び出す直前の五センチの運動を的に当たるまで繰り返す』という魔法をかけて撃ったからああなった。向きさえ間違えなければ、重力や風の計算をせずとも、必中魔法を使わずとも、的に当てられるという寸法」
「長距離狙撃向きの魔法ですね」
「さすがに限度はあるがね」
色々とパートナーのことを知れた良い一日だった。そのまま寮まで送ってもらった。明日の予定は今のところ何もないらしい。
その日の夜、エルにノストラの意味を尋ねたら「一人称複数の所有形容詞の女性単数形(とっくの昔に死語)」と返ってきた。やたら難しい言葉を使っているが「我々の」の意ということだ。ふむ、「俺達の宝箱を見せようぜ」っていう意味なのか。何故そこだけ死語を使ったのか気になるところ。
ところでエルのような言葉(俺は呪文と言った方がしっくりくる)が必要な魔法は、文字として残せるという特徴がある。言葉の中に術式の鍵があって、発音が一文字分でも狂うと言葉の意味が変わるから上手く使えないらしい。だから古い言葉を勉強する必要があり、エルはそれに詳しいのだ。
さてそこにはどんな宝が眠っているのか、俺は寮からネットの海へダイブした。