表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おすすめ

ブラックボックス

作者: はじ

 目前の大通りを行き交う群集を君は茫然と見つめている。繁華街のメインストリートというだけのことはあり、平日の昼間であるのにその人通りは膨大で川の流れのように途切れることがない。

 君は交通を妨げないよう道端に寄っているが、それでも数センチ手前を何度も人が通り抜けていく。その度に肝の小さい君は、自動車が目鼻の先をかすめていったかのように過剰な反応をみせる。悲鳴を上げて逃げ惑うようなことはさすがにしないものの、心臓に針を打ち込まれた小動物のように両肩をビクンと跳ね上げ、喉から小さく声をもらして背後にある自営業の電器屋へと後退するのであった。

 そんな君の後ろ、電器屋の店内から初老の男性が現れ、

「どう?」

 と後退りする君に向けて訊ねた。

「は、はい! 順調ですッ!」

 とっさに君はそう言い繕った。初老の男性は君の言葉を疑うこともせずに鵜呑みにし、エサを啄むスズメのように頷いて無愛想に店内へと戻っていった。

 胸に手を当て、君はほっと一息つく。不意とはいえ些細な嘘を口にしてしまったことに罪悪感を覚えもするが、それは仕方がないことだ。そう思いながら君は横にある大きな箱、君の胸くらいの高さがある箱を、恨めしそうに見下ろす。

「これはセンタクキというんだ」

 つい数十分前、その箱の上面に手を置いて先ほど姿を見せた胡麻塩頭の初老の男性、寺岡がそう言ったのを君は思い出す。粗い繋ぎ目のように引き結んでいた口元を僅かにほころばせた寺岡が、まるで愛息子の頭でも撫でるかのように軽く擦る仕草をするのを見た君は、初体面から感じていた印象、頑固一徹の電器屋のおやじという印象を、改めることにしたのであったが、続けて寺岡の口から出てきた言葉によってその判断は先送りになった。

「君にはこれを売ってほしい」

「え、え」

 当惑の声をもらした君だがそれには訳が二つある。

 一つ目は、今日からこの寺岡電器で働き出したばかりである社会人一年目の自分に、研修も何もなくいきなりそんな仕事を任せられたこと。二つ目は、先ほど寺岡が「センタクキ」と称した箱が、どう見ても君の知っている洗濯機ではないことに今更のように気付いたこと。

 この二つの理由によって口にされた「え、え」は、ここ数年で耳が遠くなった寺岡には、「ええ」という自信に満ちあふれた了承の頷きに聞こえていた。

「そうか、それはよかった。じゃあ、頼むぞ」

 そう言って寺岡は誰かの視線から逃れるようにそそくさと奥座敷へと引っ込んでなにやら作業を、ヘルメットのような溶接面で顔を厳重に防備して小型溶接機の電源を入れてしまったので、君はなす術なく言い付けに従うしかなかった。

 胸に不安と猜疑を感じながら、君は今一度、そのセンタクキなる箱の外観を見やる。

 外面の素材は平状の鉄板のようだ。軽くノックしてなかの様子を探ってみると、鐘を衝くような音がその内部で響き、細かく振動して萎まっていった。どうやらセメントのようなものが充填されているのではないらしい。

 色はグレーとホワイトの絵具を適度に混ぜ込んだかのような、例えるならば黒ゴマラテ、それが刷毛でサッと刷いて全体に塗布されていて、いかにも手作りといった感じだ。大きさは前述した通り、高さは君の胸元くらい、横幅と奥行きは君の肩幅くらいだ。重量は線の細い君が息絶え絶えになりながらも運んでこられるほどなので、それほど重いものではない、おそらく二〇キログラムに届かない程度だろう。その重苦しい色合いもあってか、この見た目にしては重量が軽すぎるような気がするのは私だけであって、ひぃひぃ、言いながら店頭まで自力で運搬してきた君にとっては見た目にそぐった重量だ。

 しかし、まぁ、これは一体なんなのだ。

 と、私、いや君は首を傾げて考える。

 どの面からうかがっても開閉する扉はない。屈んで底面をのぞきこんでみたが、電源スイッチやプラグの差込口と思しきものもない。天地を逆さにしてもこれはただの箱型のなにかであって、決して洗濯をする機械ではないと明言しても差し支えないだろう。

 君は店内に寺岡の姿が見えないことを確認し、通りにいる大群を眺める。移動する人々の洋服は例外なくすべて清潔なものであり、それは即ち彼らの肌にまとわりついている布はすべて洗濯されたものであるということを意味している。君が身に付けているビジネススーツも同じだ。社会人としての第一歩であるこの日のために、あらかじめクリーニングに出し新品同様にまで整えた逸品だ。

 皆すべての人が外装を洗濯し、清潔に保っている。それが世間に出るというもので、言わば洗濯とは世間に出るために必要な通過儀礼のようなものなのだ。

 だとしたら。

 そうだとしたら、今の私はどうなのだ。

 中学生時代に着ていた、丈の短くなったジャージを上下に身に着け、髪は伸び放題、顔には苔のような無精髭を生し、悪臭が立ち込めた箱の内部に閉じこもり、接合面の僅かな隙間に顔を押し付け、度の合っていない眼鏡で外の様子をうかがっている、親の脛かじりのこの私はどうなのだ。

 言うまでもなく、清潔な世間というやつからあぶれている。

 いいや、それも少し違う。

 あぶれているというよりは隔離されている。

 清潔な世間に出られるような身なりをしていない私は、この箱のなかに幽閉され、世間から分離させられている。そして今私は君によって売却されようとしている。君は私を売りさばくことでなにを得るというのだ。金や名誉といったものだろうか。

「違うだろ?」

 発酵味のある口臭と一緒に箱の隙間からそう投げかけると、気を抜いていた君の目がゴマのような点になる。そして小さなゴマの一粒から風味を引き出すようにして、耳に届いた問い掛けの意味を吟味しはじめる。

 深まる君の思考と相乗するようにして、箱の内部から漂っていた臭気が鮮明となり鼻腔に茂った毛へと吸着していく。その臭気の粒子と一緒くたにして君は息を呑む。呑まれた臭いを体内へと取り込んだ君は、この箱を開けてみようと決意する。

 さて、私は箱の外に出るための身支度をする。といっても散髪に行く資金も卸したての洋服もない私がする支度とは、精々目やにを取るくらいだ。そしてその目やにすら私は取らない。私は米粒ほどの清潔さも抱える気はない。私が用意するものは覚悟だけだ。薄汚い身なりのまま世間へと飛び出す、厳格な覚悟だけなのだ。

 君が電器屋の店内からペンチを持って戻ってくる。その鋼鉄の蟹の手を箱の隙間に差し入れ挟み込む。挟んで挟んで挟み倒す。上下に縦に、左右に横に。挟んで揺らして揺すぶって、回して捻って抉じ開ける。

 上面の鉄板が凧のように跳ね跳び上がり、濃縮されていた私の体臭が放散される。近くを歩いていた通行人が一斉に鼻を摘まむ。君はペンチを取り落とす。私は屈み込んでいた身を起こし、薄汚い姿を平日の白昼のもとに堂々と晒す、晒し出す。

 悲鳴はそれほど上がらない。思ったより怒号は飛び交わない。阿鼻叫喚とは程遠いが通りは確かにざわめいた。

 五〇数個の眼球が私を見て脚を止める。それは流れを止める些細な置石。しかし雑踏に生まれたその停滞は、方向性を持っていた流れを変える。一人の若者が止まり、二人の男女が止まり、待ち合わせていた二人が合わさって四人となり、八本の蛸足が周囲に絡み、十六の脚を巻き込んで三十二とんで六十四人が防波堤のように立ち止まる。

 電器屋を中心にして世界が凍り付いたかのように停止動作が広がっていく。大通りから脇道へ、そしてその隣の通りへと人の流れが止まり出す。信号が青でも皆立ち止まる。クラクションが鳴る。鳴らないクラクションは壊れている。突如として止まった人々を避けきれなかった車がサイレンを呼ぶ。数々の音が飛び交うそれは、ファンファーレのように私を迎える。

「違うだろ? 違うだろ?」

 ぼそぼそと口を動かして箱から飛び出した私を恐れた君は、落したペンチを拾い直して身構える。騒ぎを聞きつけた寺岡が慌てて店から飛び出してきて君にぶつかる。君の手からペンチが飛んで私のこめかみに当たり、私はよろめきながら人ごみのなかに飛び込む。

 するとそれが引き金となり、停まっていた人々は石を投げつけられた鯉の群れのように一斉に動き出し、慌てふためいた君やまだ状況を理解できていない寺岡を巻き込んで、お祭り騒ぎのように前後左右上下に、えんやこらえんやこらと、まるで洗濯機の渦に巻かれる衣類のように人々を揉みくちゃにする。

 焦点も定まらない渦中のただなか、

 家族やカップルが連れ合いを見失うそのただなか、

 君を描写するはずの私は君を見失い、

 寺岡の目を気にする君は寺岡を見失い、

 私を意識していた寺岡は私を見失う。

 各々が観察の対象を見失い、雑踏はその名以上に雑然とした人の塊が乱れ行き交う混沌の様相へと変じる。


 やがてやって来た警察官たちの手腕によって、騒ぎは沈静化する。人々ははぐれたものと連絡を取り合って合流し、再び通りを歩き出す。

 通りは平常を取り戻す。そのただなかに私と君と寺岡の三者がぽつねんと取り残される。三人はそれぞれをすばやく視認してから、急いで電器屋へと走り戻っていく。

 私、いや寺岡、いや君は、急いで奥座敷に返って溶接面を被り、机に散らばっていた紙片になにかを書き始める。君がずっとやりたかったことは、きっとそういったなにかを、その細く繊細な針金のような指で形のないなにかを創作することだったんだろう。そして君、いや私、いや、慌てて箱のなかに閉じこもった寺岡は、妻と別れ残された引きこもりの息子との生活や、取引相手の先方との世間話に嫌気が差していたんだろう。だから、寺岡、いや君、いや私は、その代役として箱の横に立って背筋を伸ばし、声を張り上げて民衆に訴え始めるのだ。

「違うと思うんですよ、ぼくは――」

 しかし、伝えたいことなどそれほどない声は尻すぼみに縮こまっていく。

 たぶん、私が世間に向けて訴えかけたいことなんてなにもないのだ。喉を枯らしてまで他人に伝えたいことなんてなにもないのだ。

 じゃあどうして私は、ここでこうして、薄汚い姿を晒してまで、冷たい視線を浴びてまで、ここでこうして立ち竦んでいるのだろう。その回答ですら言葉にならない。ならない言葉はわからない。わからないので答えが出るまで私はここで、多くの人が通り過ぎるここで立っていようと思う。

「父さんはずっと応援しているぞ」

 箱のなかからそう投げかけてみたが、おれには息子を奮起させる力はもうないようだ。息子は目の前を行き来する多勢の人々の波に立ち竦んでいる。頬骨が浮き出した貧相な顔にある虚ろな瞳が浮浪者のような風体に輪をかけている。その息子の立ち姿は、まるでおれの人生の集大成のようだと思った。

 おれは中小の電機メーカーの営業員として一〇余年働いた。人付き合いは昔から苦手だったが、そんなことに逐一文句を言っていられる時代でもなかった。拙い言葉とツヤツヤしたパンフレットだけを武器にして、おれは無我夢中に働いた。やがて嫁ができた。子どももできていた。入社当初よりは多少まともになったと思う言葉で自社製品を売り込んでいたら、嫁が離婚したいと言い出した。理由を訊ねようとしたらいつの間にか離婚届に判を押していた。嫁は家を出て行った。まったく改善していなかった言葉とツヤツヤしたパンフレット、そして息子が残された。

 嫁がいなくなるとまるで要石が外れた橋のようにあらゆるものがおれから崩れていった。仕事がますます上手くいかなくなった。言葉が舌先で詰まるようになった。クビになった。メシが不味くなった。息子と気まずくなった。退職金と失業保険でなんとか食い繋いだ。次の仕事はいつまでも見付からなかった。一念発起して小さな電器屋を始めることにした。知り合いの懇意により繁華街の大通り沿いという立地で商売をすることができた。しかし、今日日こんな小さな電器屋で買い物をする人はいないのか客数は伸びなかった。収入は前職の半分以下になった。それでも日々にやり甲斐を少しだけ感じた。細やかながらメシは美味くなったが息子とは気まずいままだった。

 仕事の合間、暇を持て余して手持無沙汰だったおれは工作をした。鉄板をガス切断機で手ごろな大きさに切断し、また別の鉄板と溶接して引っ付け折り曲げて、本能の赴くままに鉄の板を弄繰り回しているうちに箱を作っていた。

 箱を作り上げた瞬間、表面だけが強固で中身は空っぽなこの箱は粗大ゴミ以外のなにものでもないと思った。この労力を仕事に回せば伝票整理くらいは余裕できたはずだ。おれはなにをしているのだろうと、罪悪感のようなものが箱ではなくおれを満した。

 なにもかもが突然嫌になった。バーナーで店に火を放ってすべてを失いたくなった。それもこれも、この箱が空洞な所為だと思ったが、それならばこの箱もなにかで満たせばいいのではないだろうかと思い返し、おれは部屋中を見回した。おれに残されていたのは、拙い言葉とツヤツヤしたパンフレット、引きこもりの息子だけだった。

 息子は今年の春に高校を卒業する予定だったが、大学受験も就職活動もせず自室に引きこもり、毒にも薬にもならない本ばかりを貪るように読んでいた。何度か怒鳴って叱りもしたが一向に改心する素振りもなく、おれはおれで仕事のことで手一杯だったのでそのまま放置することにした。そのような対応を取ったのは、心のどこかで息子が家業を継いでくれることを期待していたのかもしれない。

 そうだおれは息子に期待をしている。そしてこの息子じゃ期待に応えられないことを知っている。けれどおれの息子がおれの期待に応えられないことをおれは知ろうとしない。おれは息子を知らない。誰だこいつ。おれに似てて気持ち悪い。見たくもない。もう見たくもない。

 だから箱に閉じ込めたはずなのに、その箱のなかに何故おれが入っている。何故おれは息子を応援している。やはりおれは期待しているのか、自分の息子に、期待をしているのだろうか。こいつに何ができる。毎日、意味のない文字の羅列を追い、追われることから逃げているこいつに、なにが期待できるのだ――。

 机に散乱した紙片にそこまで書き終えた君は、突然、脳味噌に電気が流れて記憶を失ったかのように自分がしていることへの虚しさに襲われた。その電流の急襲によって君は、自らの行為の無意味さを知り書くことを止めた。


 しかし物語はまだ続いていた。

 誰も読まなくても、

 誰も書かなくても、

 この先に続く空白には、

 物語が綴られているはずだった。



































                                 鉄の





     鳥





「   、    」









     々と、しかしそれは美し





       。





           甲殻類の一種、いや、鼻行類?」



      ……!












       虹とは、虫のなんなのだろうか。僕はそれをずっと










   ――。

  ――、――――。








  6786人の










   家な ない。











 から、僕は肘で         なかからあふれ出した体液  








         本の               空へと    





 もう             

         いる           。

       なのだ。

    

 僕は        

   紙に      

 この    

 僕を     

        

 書き けて る だ。

  イ   メ セー の  な、小 を。


              ( おわり )


































  <(^O^)>
















































































































































































「僕に主張することがないからといって、僕が空っぽの人間である、ということにはならない。

 見よ、僕のなかで渦巻いているこの混沌を。

 僕はこの混沌を言葉にする術を持たないだけだ。

 僕はこの混沌を表現する技を持たないだけだ。

 僕に何もないわけじゃないのだ。

 解ってくれるだろうか。

 解って欲しい。

 僕は君と、あるいはあなたと違って複雑すぎるのだ。

 その複雑さを現出させるには、言葉では足りない。

 言葉から本当の僕は現れない。

 言葉では僕は生まれない。

 言葉では、

 言葉では、

 言葉では、














 自分にとって小説とは何だろう、とか、思いながら書きました。答えはまだ分からずです。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ