年下でかわいい恋人だと思っていたのに、半年後にはすっかり大人になって帰ってきた
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年下のかわいい貴族青年と、不器用な女騎士のお話です。
王都の春は、貴族たちの衣擦れの音とともにやってくる。
夜会の季節ともなれば、磨き抜かれた大理石の床には幾重もの灯りが映り、壁を飾る金の燭台は、まるで宮廷そのものが星を飼いならしたかのようにきらめいていた。葡萄酒の香り、香水の甘さ、低く交わされる社交の笑い声。それらのすべては豪奢だったが、レオナにとっては、もう何度も立ち会ってきた“職場の景色”でしかない。
今夜もまた、彼女は主の傍らにいた。
濃紺の礼装に身を包んだ主人のすぐ後ろ、半歩下がった位置。長身の体をまっすぐに立て、背には剣。夜会にふさわしい装飾の少ない騎士装束は、華やかな会場のなかでひどく無骨に見えたが、それでよかった。目立つ必要はない。むしろ、必要なのはいつでも動ける静けさだけだ。
レオナ・ヴァルツは、主人に忠実な騎士として知られていた。無駄口が少なく、感情が顔に出ない。剣技は確かで、判断も早い。頼もしい、と言われることはあっても、愛想がいいと言われたことはない。女騎士というだけで物珍しげに見られることはあっても、しばらく話せば大抵の者は気づくのだ。この女は、やわらかい話題を転がして愛想笑いを返す類の人間ではない、と。
もっとも、それは半分だけ正しい。
たしかにレオナは、笑顔を振りまくのが得意ではなかったし、甘やかな会話にも向いていない。だが、その一方で、彼女はかわいいものときれいなものに目がない。
庭先で丸くなって眠る子猫。朝露を含んだ白い花。小鳥の胸元のやわらかな羽。繊細な刺繍、透きとおるようなガラス細工、菓子職人が砂糖で作る小さな薔薇。そういうものを見ると、胸の奥のどこかがひっそりとほどけるのを、自分でも知っていた。
もちろん、それを人に言ったことはない。
同期の騎士たちに知られれば、まず間違いなく笑われる。男より男らしい、色気より剣、石像みたいに無表情——好き勝手に言われているのは、すでに知っている。今さらそこへ“花細工が好き”だの“街角で売られている動物の形の焼き菓子に心惹かれる”だの、そんな情報を上乗せする気にはなれなかった。
だから今夜も、レオナはいつも通り壁際に立ち、静かに会場を見渡していた。
そのときだった。
広間の入口近くで、ひときわやわらかな空気が動いたような気がして、レオナは自然とそちらを見た。
招待客が数人、係の案内に従って入ってくる。そのなかにいた青年に、なぜだか一瞬で目を引かれた。
華やかというより、整っている。いや、それとも違う。美しいというには、まだどこか幼さが残っている。すらりとした長身の青年貴族たちに囲まれているせいか、彼は少しだけ小柄に見えた。肩の線は細く、顔立ちは端正だが威圧感がない。春の若葉を思わせる淡い緑の瞳がやわらかく、明るい栗色の髪はきちんと整えられているのに、どこか素直な印象を残している。
そして何より、微笑み方が穏やかだった。
貴族の子弟にありがちな、よく磨かれた社交用の笑みではなく、もっと静かで、相手を安心させるような笑い方だった。
周囲の令嬢たちが、さっそくくすくすと楽しげな声をあげる。
「まあ、アルフレッド様」
「相変わらず可愛らしいこと」
「今日はどちらのお兄様もいらしてないの?」
青年——アルフレッドは、困ったように、でも不快そうではなく微笑んだ。
「兄たちは別のご招待を受けております。僕ひとりでは、ご期待に添えませんか」
その言い方が妙に柔らかくて、令嬢たちの笑い声がひときわ華やぐ。
レオナは無表情のまま視線を外した。
……なるほど。
貴族令嬢たちに“かわいい”と愛でられるタイプか。
たしかにわかる。ああいうのは、守ってやりたいと思わせる。高慢さがなく、押しつけがましくもない。人好きのする顔立ちに、穏やかな声。年上から見ればなおさらだろう。
そこまで考えて、レオナはほんの少しだけ眉を寄せた。
いや、何を分析しているんだ私は。
興味を持つ必要のない相手だ。客人のひとり。主人に害をなさないかだけ見ていればいい。
そう判断して、意識を切り替えようとした、その直後だった。
令嬢のひとりが、手にしていた装飾付きの扇を落とした。金の細工が施された華奢な扇は、床に当たってぱたりと開き、そのまま別の客の靴先に引っかかりそうになる。
レオナが一歩踏み出しかけるよりわずかに早く、アルフレッドがそれを拾い上げた。
ただ拾うだけではない。壊れやすい蝶の羽でも扱うように、そっと。持ち主の令嬢に返すときも、その精巧な細工を傷つけまいと指先に気を配っているのが、遠目にもわかった。
「どうぞ。綺麗なお品ですから、壊れてしまったら残念です」
その言葉に、令嬢の頬がほのかに染まる。
レオナは思った。
ああ、この青年は、きれいなものをきれいだと自然に言える人間なのか。
それだけで、不思議と記憶に残った。
それが最初だった。
次に顔を合わせたのは、主人の屋敷で催された小規模な茶会の折だった。ごく親しい家々のみを招いた集まりで、夜会ほどの華やかさはないが、そのぶん、客同士の距離は近い。
レオナは庭に面した回廊で警備にあたっていた。白い石柱のあいだから春の陽が差し込み、手入れの行き届いた庭では、淡い色の花々が風に揺れている。
その一角に、アルフレッドがいた。
ひとりで立ち止まり、花壇に顔を寄せるでもなく、ただ静かに眺めている。近づけば気づくだろうに、そのまなざしはどこかやさしくて、花を“観賞の対象”ではなく、“そこにあるもの”として大事に見ているようだった。
レオナは足を止めた。
彼女は花が好きだ。だが、人前でしゃがみ込んで見入るようなことはできない。騎士としての立場もあるし、何より似合わないと自分でもわかっている。だからいつも、通りすがりに視線だけで愛でる。
その“同じこと”をしている青年がいるのが、妙におかしかった。
不審に思っているわけではない。ただ、気になる。
と、向こうがふと顔を上げた。
目が合った瞬間、アルフレッドは少しだけ目を見開き、それからきれいに会釈した。
「いつもご主人の傍にいらっしゃる騎士様ですね」
声をかけられるとは思っておらず、レオナは一拍遅れて頷いた。
「……はい」
「お邪魔でしたか」
「いえ」
短く返す。普段ならそれで会話は終わる。だが彼は気まずそうにせず、むしろ安堵したように微笑んだ。
「よかった。綺麗だったので、つい立ち止まってしまって」
そう言って、花壇の一角に咲いている薄紫の花を見た。
レオナもつられて視線を向ける。小さな花弁が幾重にも重なった、春咲きの花だ。確かに綺麗だ。
「……お好きなのですか」
「花ですか?」
「はい」
アルフレッドは少し考えてから、柔らかく首を傾げた。
「好き、ですね。見ていると落ち着きます。……あなたも、お嫌いではなさそうだと思いました」
思いがけない言葉に、レオナは一瞬だけ沈黙した。
なぜわかったのか。
顔に出したつもりはない。視線を向けただけだ。
しかし彼は、それ以上踏み込んではこなかった。ただ、こちらの沈黙を拒絶と取るでもなく、静かに微笑んでいる。
「差し出がましかったなら申し訳ありません」
「……いや」
レオナは少しだけ視線を外した。
「嫌いでは、ない」
それを聞いた彼が、ひどく嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、レオナの胸の奥で何かがふわりと浮き上がった。
かわいいな、と思った。
本当に、何の含みもなく。春先の小動物を見たときのような、ごく素朴な感想だった。
それから、会うたびに少しずつ言葉を交わすようになった。
もちろん、最初は取るに足らないやり取りばかりだ。天気のこと、庭の花のこと、主人の蔵書が見事だったこと、最近貴族学校で出た課題が大変だという話。レオナは話し上手ではないし、そもそも客人と親しくおしゃべりをする立場でもない。だがアルフレッドは、不思議と沈黙を苦にさせなかった。
無理に話題を作ろうとしない。相手が答えやすい言葉を選ぶ。こちらが短く返せば、それに合わせて会話を閉じる。かと思えば、ほんの少し気を許したと見れば、そこにそっとやわらかな問いを差し出してくる。
その距離感が、心地よかった。
あるときは、主人の屋敷の書庫で。アルフレッドは借りた本を数冊抱えていて、そのうちの一冊を落としかけた。とっさにレオナが片手で支えると、彼はぱっと目を丸くして、それから申し訳なさそうに笑った。
「ありがとうございます。僕、こういうとき、案外手元がおぼつかないんです」
「……見ればわかる」
「厳しいですね」
「本当のことだ」
「そういうところも、好きです」
さらりと言われて、レオナは危うく本を取り落としそうになった。
アルフレッドは自分の言葉の破壊力を理解しているのか、いないのか。おそらく後者だろう。言ったあとで自分の言葉を反芻して恥ずかしくなるような気配はなく、ただ本当にそう思ったことを口にしただけらしい。
レオナは本を彼の腕に戻し、いつも通りの無表情を保つのに少しだけ苦労した。
……いや、本当に、かわいいな。
顔立ちがという意味でも、もちろんある。だがそれ以上に、こういうところが妙に無防備なのだ。自分に向けられる好意を、打算や駆け引きなしに差し出してくる。まるで人懐こい子犬のように。
そういうふうに思っていた。
思ってしまっていたからこそ、その告白も、最初は同じ延長線上にあるものだと、どこかで勘違いしていたのだ。
初夏が近づき、日差しの色が少しだけ濃くなった午後だった。
屋敷の裏庭は人通りが少ない。客人を見送ったあと、主人から“アルフレッド殿を庭門まで案内してやれ”と言いつけられ、レオナは彼の隣を歩いていた。石畳の小道の両脇には白薔薇が植えられ、咲き始めた花が風にかすかな香りを乗せてくる。
学院の話をしていた。近々試験があること、寮の食事に飽きてきたこと、上の兄たちが揃って背が高いせいで仕立屋に“あなたもいずれ伸びますよ”と笑われたこと。
「そんなものか」
「家族はみんなそう言います。父も兄たちも、十五、六の頃は今の僕とそう変わらなかったらしくて」
「ふむ」
「……でも、あなたは、今のままでも構わないと思っていそうですね」
「なぜそう思う」
「だって、そういう顔をしているので」
そんな顔をした覚えはない。だが彼はくすっと笑って、次いでふっと真面目な目になった。
「レオナ様」
呼び方が、少し改まっただけで空気が変わる。
レオナは足を止めた。彼も止まる。風が白薔薇の葉を揺らす音が、妙にはっきりと耳に届いた。
「どうした」
アルフレッドは一度だけ息をついて、それからまっすぐレオナを見上げた。彼女のほうが、まだ少し背が高かった。
「僕、あなたのことが好きです」
あまりにも率直な言葉で、逆にレオナは理解が遅れた。
好き。
それは、どの種類の好きだ。
花が好き、本が好き、穏やかな午後が好き——そういう意味合いでなく?
おそらく、その迷いが顔に出たのだろう。アルフレッドは少しだけ困ったように笑ったが、視線は逸らさなかった。
「困らせたいわけではないんです。ただ、黙っているのが、なんだかずるい気がして」
「……私は」
「はい」
「私は、騎士だ」
「知っています」
「お前は貴族だ」
「それも知っています」
「年下だし」
「それも、知っています」
「……お前は、学院に通っているだろう」
我ながら意味のわからない反論だった。だがアルフレッドは笑わなかった。
「通っています」
「同年代の令嬢も多いはずだ」
「多いですね」
穏やかに頷いてから、彼は少しだけ眉尻を下げた。
「それでも、僕が好きなのは、あなたです」
レオナは黙った。
きれいな目だと思った。まだ若く、やわらかい顔立ちをしているくせに、その目だけは静かに意志が強い。
今までの自分なら、この場できっぱり断ったかもしれない。立場が違う、先がない、仕事に差し障る、そんな理由はいくらでも並べられる。
だが、喉まで出かかった言葉は、うまく形にならなかった。
かわいいな、とまず思った。
次に、こんなふうに真っ直ぐ好意を差し出されるのは、悪い気がしないな、と思った。
そして——どうせ、今だけだろう、とも思った。
学院にいるあいだの気の迷い。年上の女騎士なんて珍しくて、物語の登場人物にでも憧れるような気分で、少し心を動かされているだけかもしれない。そのうち同年代のかわいらしい令嬢たちに囲まれて、卒業して、もっとふさわしい相手を見つけるのだろう。
ならば、少しくらい、こんな時間があっても罰は当たらないのではないか。
そう思ってしまった。
彼があまりにも誠実な顔で、返事を待っていたから。
レオナはわずかに目を伏せ、それから、ほんの少しだけ頷いた。
「……いい」
言ってから、自分でも何に対して“いい”と言ったのかわからなくなった。だがアルフレッドの顔がぱっと明るくなったので、たぶん通じたのだろう。
「本当ですか」
「……ああ」
「夢ではなく?」
「違う」
「よかった……」
胸に手を当てて息をつく仕草まで、やっぱりかわいらしい。
その日から、ふたりは恋人になった。
何がどう変わるのかといえば、最初は案外、たいしたことは変わらなかった。
もともと頻繁に会える関係ではない。レオナは主人付きの騎士で、アルフレッドは学院の生徒だ。夜会や茶会、屋敷への訪問、あるいは主人が関わる行事の折に顔を合わせ、その前後に少し話す時間が増えたくらいだった。
だが、その“少し”が今までとは違った。
目が合ったときの微笑み。別れ際の“またお会いできますか”という言い方。人目のない回廊で、ほんの一瞬だけ袖をつままれる感覚。会話のなかに自然と混じる“あなたに話したかったんです”という言葉。
そのひとつひとつに、レオナはじわじわと落ち着かなくなっていった。
アルフレッドは恋人になったからといって、急に大胆になったりはしない。むしろ前より少しだけ丁寧になった気さえする。こちらの都合を気にし、仕事の邪魔にならないようにし、会えない日は無理を言わない。
それなのに、いや、だからこそかもしれない。
ときおり見せる甘えが、ひどく効いた。
「レオナ様」
「何だ」
「少しだけ、こちらを向いていただけますか」
「……向いている」
「そうではなくて、ちゃんと」
「ちゃんと、とは」
「僕を見てください」
真顔で言われると、妙に断りづらい。
仕方なく視線を向ければ、彼は満足そうに笑う。その笑顔を見るたびに、何か小さくて温かいものを胸の中へ押し込まれるようで、レオナは内心ひどく困った。
ある日、庭の東屋で短い時間だけ会えたとき、アルフレッドが小さな箱を差し出してきたことがある。
「学院の近くの菓子店で見つけました」
「……私に?」
「はい」
開けてみれば、花の形をした砂糖菓子が整然と並んでいた。淡い桃色や白、薄紫。小さくて繊細で、食べてしまうのが惜しいくらい綺麗だ。
どう見ても、武骨な女騎士に贈るものではない。
なのに、アルフレッドは少しも不思議そうではなく、ただ当然のようにこちらを見ている。
「綺麗だと思って」
「……そうか」
「あなた、こういうもの、お好きでしょう」
レオナは箱を持ったまま、しばらく固まった。
「なぜ知っている」
「なんとなく」
「なんとなくで当てるな」
「当たっていましたか」
「……」
答えられないでいると、彼は目元を和らげて笑った。
「よかった」
その“よかった”があまりにも優しくて、レオナは敗北を認めるしかなかった。
「……好きだ」
「ええ」
「とても、好きだ」
「知っていました」
知っていたのか。知っていて、くれたのか。
箱の中の小さな花々を見下ろしながら、レオナは胸の奥がやわらかくなるのを感じていた。
かわいい恋人だと思っていた。
抱きしめたいというより、守りたい。寒い日にはちゃんと暖かくしているだろうか、夜遅くまで勉強をして無理をしていないだろうか、貴族社会の悪意ある視線に晒されて傷ついたりしていないだろうか。そんなことばかり考える。
それは恋というより、もっと穏やかな庇護欲のようにも思えた。
だから、まだこのとき、レオナは気づいていなかったのだ。
その気持ちが、いつの間にか、自分の想像よりずっと深いところまで根を張っていたことに。
夏の終わりが近づいた頃、アルフレッドがしばらく姿を見せなかった。
学院が忙しいのだろう、とは聞いていた。試験や実習、文官を目指す者のための選抜課題、各家への報告書、秋以降の実務見学。上位成績を維持しながら卒業後の進路を定めるには、この時期がもっとも慌ただしいらしい。
それでも、いつもより間が空くと、妙に手持ち無沙汰になる。
彼から贈られた砂糖菓子の箱は、空になっても捨てられなかった。机の引き出しの奥にしまい込んでいるくせに、ときどき取り出して眺めてしまう。そんな自分に、レオナは少しだけ呆れていた。
久しぶりに会えたのは、秋口の、空が高く澄んだ午後だった。
主人の使いで伯爵家へ書簡を届けに行った帰り、迎えの馬車を待つために立ち寄った屋敷の前庭で、見覚えのある栗色の髪が視界に入ったのだ。
「アルフレッド」
思わず呼ぶと、向こうが振り返った。
その瞬間、レオナは足を止めた。
まず、背が伸びていた。
前に会ったときより、明らかに。たった数か月のはずなのに、視線の高さが違う。肩の位置も上がっているし、手足も少し長くなったように見える。もともと華奢だった体つきにまだ成長の途中らしいぎこちなさはあるが、それでも“少年”の輪郭がうっすらと崩れ始めているのがわかった。
「レオナ様」
声も、少しだけ低くなっていた。
だが完全に落ち着いたわけではない。喉にまだ不慣れな響きが残っていて、時折、言葉の端がわずかに掠れる。
レオナはしばらく彼を見つめ、それからようやく口を開いた。
「……伸びたな」
「やはり、そう見えますか」
「見えるどころではない」
「家でも同じことを言われました」
困ったように笑う顔は以前のままだ。そのことに、なぜかほっとする。
だが、近づいてみると、制服の袖丈が少しだけ危ういことに気づいた。手首の位置が前より覗いている。肩幅も、以前よりわずかに広くなっていた。
「制服も、少し合っていないように見えるが」
「ああ……実は、仕立て直しの最中で。これは予備なんです」
「予備」
「急に伸びてしまって。母からは“あなたもようやくか”と笑われました。兄たちも、半年ほどは成長痛で大騒ぎだったそうです」
「成長痛?」
「ええ。最近、膝や足が少し……。歩けないほどではないのですが」
そう言って照れたように笑うので、レオナは思わず眉をひそめた。
「大丈夫なのか」
「はい。医師にも、よくあることだと言われました」
「……そうか」
大丈夫と言われても、気になるものは気になる。
以前なら見上げてきていた彼が、今日は少しだけ近い高さにいる。その事実が妙に落ち着かないくせに、足の痛みの話を聞けば、やはり心配が先に立つ。
相変わらずだ、とレオナは内心で苦笑した。
自分はきっと、どこまでいっても彼を“守ってやりたい存在”として見ているのだろう。
だがその日の彼は、以前より少し大人びて見えた。
笑うときの目元は変わらない。けれど、言葉を選ぶ間や、こちらを見る静かな視線の強さが、前より確かになっている。
しばらく近況を話したあと、アルフレッドは少しだけ言いにくそうに息をついた。
「実は……卒業まで、かなり忙しくなりそうなんです」
その一言で、レオナの胸がわずかに固くなる。
「そんなにか」
「はい。文官試験の準備に加えて、実習もありますし、論文も提出しなければなりません。秋の行事の運営も任されてしまって」
「断れなかったのか」
「断れませんでした」
「お前らしい」
「褒め言葉と受け取っても?」
「好きにしろ」
少しだけ笑い合ってから、彼はまた真面目な顔になった。
「だから……しばらく、お会いするのは難しいかもしれません」
その言葉が思った以上に重く沈んで、レオナは瞬きをした。
しばらく。
たしかに、忙しいのだろう。学院を卒業し、文官になるための大事な時期だ。ここで歩みを止めるわけにはいかない。自分がそれを引き留める理由など、どこにもない。
「……そうか」
「申し訳ありません」
「謝ることではない」
そう返した声は、驚くほど平静だった。
アルフレッドはじっとこちらを見てから、ほんの少しだけ、何かを堪えるように微笑んだ。
「でも、手紙は書きます」
「手紙」
「必ず。どんなに遅くなっても」
「忙しいのだろう」
「忙しいです。でも、書きます」
そして、少しだけ声を落として言った。
「待っていてください」
そのとき、風が吹いた。
庭木の葉が揺れ、陽の匂いを含んだ空気がふたりのあいだを通り抜ける。レオナは彼を見下ろしながら、なぜか答えるのに一拍だけ時間がかかった。
「……ああ」
「本当ですか」
「本当だ」
「よかった」
笑った顔は、やはり以前のままだった。
それなのに別れ際、馬車へ戻る前に一瞬だけ振り返った彼の横顔は、ひどく遠くへ行ってしまうもののように見えた。
会えなくなって、初めて、自分が思っていた以上に彼に馴染んでいたことを知った。
手紙は本当に来た。
最初の一通は五日後。端正な筆跡で、実習先の役所の慌ただしさが綴られていた。机の上で書類に埋もれていること。上官が厳しいが理不尽ではないこと。学院の友人が試験前でみな顔色をなくしていること。追伸に、最近また少し背が伸びた気がするとあった。
次の手紙には、膝の痛みが少し和らいだことと、それでも階段の昇り降りが辛い日があること、とうとう制服を一式仕立て直したことが書かれていた。
『以前の上着は肩も袖もまるで合わなくなってしまいました。仕立屋には、ようやくヴェルナー家の血が本気を出しましたね、と笑われました。少し悔しいです。あなたに会うときは、もう少し見栄えが良くなっているといいのですが』
その一文を読んだとき、レオナは不覚にも、しばらく手紙を閉じられなかった。
見栄えが良くなっているといい。
そんなことを思いながら、自分に会う日を想像しているのか。胸のどこかが、じんと熱くなった。
彼の手紙はどれも、押しつけがましくなかった。寂しいとも、会いたいとも、むやみに書かない。ただ、日々の出来事の合間に、こちらを思い出した痕跡がそっと差し込まれている。
『庭の白い花を見て、あなたの屋敷の薔薇を思い出しました』
『今朝、子猫が窓辺にいました。あなたなら気に入りそうだと思いました』
『この前、花の形の砂糖菓子を見かけて、また買いそうになりました。さすがに我慢しましたが』
それらを読むたびに、レオナの胸は妙に騒いだ。
会えないのは仕方がない。彼には未来がある。学び、働き、やがて立派な文官になるのだろう。その道を、自分が邪魔するわけにはいかない。
そう頭ではわかっているのに、手紙を受け取るたび、次はいつ来るだろうと考えてしまう。忙しいだろうに、無理をしていないだろうかと案じる。返事を書くときは、何度も文面を見直してしまう。
そしてある夜、任務を終えて自室に戻り、机の引き出しにしまってある手紙の束を見下ろしたとき、レオナはようやく気づいた。
寂しいのだ。
ただ会えないから寂しい、ではない。
彼が自分のいない場所で、日々変わっていくことが。成長し、忙しさに揉まれ、痛みを抱えながらも前へ進んでいくことが。自分の知らない時間を重ねていくことが、胸の奥でどうしようもなく切なかった。
それは庇護欲ではない。かわいいから手元に置いておきたい、という軽い感情でもない。
会いたいと思う。声を聞きたいと思う。手紙の文字だけでは足りないと、思ってしまう。
レオナは椅子に腰かけたまま、しばらく動けなかった。
——ああ。
遅い。
あまりにも遅い。
私は、いつの間にか、本気になっていたのか。
気づいた瞬間、胸の奥が熱くなると同時に、ひどく冷えた。
今さらだ。彼は卒業を控えている。将来ある青年だ。家柄もよく、文官としての道も拓けている。やがて社交界に本格的に出れば、彼にふさわしい娘は山ほどいるだろう。年も近く、やわらかなドレスをまとい、彼の隣に並んで絵になるような娘たちが。
それに比べて自分はどうだ。
剣を持ち、主に仕え、男たちと同じ鍛錬場に立つ騎士。恋愛より職責が先にあり、可憐とはほど遠い。花の砂糖菓子を贈られて喜ぶくせに、見た目は鋼の塊みたいな女だ。
彼に似合わない。
その思いは、気づいてしまった感情の甘さを容赦なく削った。
だからレオナは、自分に言い聞かせることにした。
卒業の日が来たら、彼の未来を祝おう。
もし彼が“これからも”と言ってくれたとしても、そのときは——。
そこまで考えて、言葉は途切れた。何と答えるつもりなのか、自分でもよくわからなかった。
冬の気配が薄れ、王都の空に再び春の明るさが戻り始めた頃、アルフレッドは学院を卒業した。
その日は、主人が別邸へ移る日でもあり、レオナは朝から忙しかった。荷の確認、護衛配置の指示、来客への対応。卒業式の刻限など気にしている余裕はない——そのはずだったのに、空を見上げるたび、今ごろ彼はどんな顔をしているだろうと考えてしまう自分がいた。
昼過ぎ、別邸にひと通りの移動が済み、ようやく正門脇で一息ついていたときだった。
門番が、少し驚いたような顔でこちらを見た。
「レオナ殿。来客です」
「私に?」
「はい。お名前は……アルフレッド・ヴェルナー様と」
心臓が、ひどく大きく打った。
振り返る。
正門の向こうに立つ人物を見た瞬間、レオナはほんのわずかに息を呑んだ。
一瞬、誰かわからなかった。
そこにいたのは、以前までの“少し小柄でかわいい青年”ではなかった。
背が伸びていた。自分と、ほとんど変わらないほどに。肩の線も以前よりしっかりとして、仕立てのよい卒業式帰りの礼服がよく似合っている。顔立ちのやわらかさは残っているのに、輪郭はすっきりとして、少年らしさの影が薄れていた。静かに立っているだけで、以前とは違う重心の低さがある。
けれど。
緑の瞳だけは、少しも変わっていなかった。
こちらを見つけた瞬間に灯る、あのやわらかな光。
「……レオナ様」
呼ばれて、ようやく足が動いた。
門のほうへ歩み寄る。近づけば、彼は少し緊張したように笑った。
「突然、すみません」
「いや……」
それ以上、言葉が出ない。
近い。高さが。空気が。何もかもが、以前と違う。
彼はそんなこちらの戸惑いを読み取ったのか、わずかに眉尻を下げた。
「驚かせてしまいましたか」
「……少し」
「やはり」
「少しどころではないかもしれない」
「それは、よかったのか悪かったのか」
「判断がつかん」
正直に言うと、アルフレッドは小さく笑った。その笑い方があまりにも見覚えのあるもので、レオナはようやく少しだけ息をつけた。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
春の光が、彼の髪にやわらかく落ちる。
しばし沈黙があった。短くはない沈黙だったが、気まずくはなかった。ただ、その沈黙の中に、これまでの半年が静かに横たわっているようだった。
先に口を開いたのは、アルフレッドだった。
「……待っていてくれましたか」
その一言で、胸の奥が強く締めつけられた。
半年前、別れ際に言われた言葉がよみがえる。必ず手紙を書きますから。待っていてください。
レオナは唇をわずかに開き、それから、ゆっくりと頷いた。
「待っていた」
言ってしまえば、それは驚くほど簡単だった。
だが、言葉にした途端、これまで無理やり押さえ込んでいたものまで一緒にあふれそうになる。
アルフレッドはほっとしたように目を細めた。そして次の瞬間、以前の彼なら見せなかったような、静かでまっすぐな眼差しでレオナを見た。
「僕は、変わりました」
「……ああ」
「背も伸びましたし、声も、少し落ち着きました。ようやく家族に似てきたと言われます」
「そうだろうな」
「でも」
彼は一歩だけ近づいた。
以前なら、見上げられていたはずの距離。今はもう、ほとんど同じ高さだ。その事実が、遅れて胸に響く。
「あなたを好きな気持ちは、何も変わっていません」
レオナは息を止めた。
「レオナ様。僕は、卒業したらきちんとお伝えしようと決めていました」
「……何を」
「今だけではない、ということを」
彼の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの下に揺るがないものがあると、今ならわかる。
「あなたはきっと、僕のことを“そのうち気が変わる若造”だと思っていたでしょう」
「……」
「違いますか」
「……少し」
「少しですか?」
「かなり」
正直に答えると、彼は苦笑した。
「ひどいな」
「すまない」
「いえ。あなたらしいです」
それでも笑ってくれるのが、少し苦しい。
もう、かわいいだけの相手ではない。
自分の知らない半年をくぐり抜け、痛みのなかで背を伸ばし、忙しさのなかで手紙を書き続け、それでもこうして真正面から来るだけの強さを身につけている。
守ってやりたいと思っていた相手は、いつの間にか、こちらの胸の奥にまっすぐ手を伸ばしてくる男になっていた。
「私は」
レオナはかすれそうになる声を、どうにか整えた。
「お前に、似合わない」
「誰が決めたんですか」
「見ればわかる」
「僕にはわかりません」
「……アルフレッド」
「わかりません」
言い切る声音が、あまりに穏やかで、あまりに頑固だった。
「僕にとっては、あなたがいいんです。最初から、ずっと」
「だが」
「あなたは?」
静かに問われて、レオナは言葉に詰まった。
ずるいと思った。そんなふうに聞かれたら、もう誤魔化せない。
彼は待った。急かさず、責めず、ただまっすぐに。
レオナはゆっくりと目を閉じ、短く息を吐いた。
認めてしまえば、あとは簡単だった。
「……会えないあいだ、寂しかった」
自分の口からそんな言葉が出るとは思わず、少しだけ視界が熱くなる。
「手紙が来るたび、嬉しかった。お前が変わっていくのが、誇らしくもあった。だが、遠くへ行ってしまう気がして……苦しかった」
そこで一度、息を飲んだ。
「気づいたときには、遅かった。私は、思っていた以上に、お前のことを」
好きだ、と続けるのは、剣を抜くよりずっと勇気がいった。
けれど、言い切る前に、アルフレッドの表情がふっとほどけたのを見てしまったから、もう止まれなかった。
「……好きになっていた」
その瞬間、彼が見せた顔を、レオナはたぶん一生忘れない。
嬉しさを堪えきれないのに、子どもみたいにはしゃぎもしない。安堵と愛しさと、ほんの少しの切なさが入り混じったような、深く静かな笑みだった。
「よかった」
と、彼は言った。
「本当に、よかった」
そして、少しためらうように手を差し出した。
「触れても?」
そんなことを、今さら聞くのか。
そう思ったのに、レオナはなぜだか胸がいっぱいになって、何も言えなかった。ただ、黙って自分の手を差し出す。
触れた瞬間、驚いた。
大きい。以前より、明らかに。
指も長く、掌も広くなっている。手紙の向こうで、見えないまま育っていた時間が、その手の中にちゃんとあった。
アルフレッドはそっと指を絡め、少しだけ照れたように笑った。
「……やっと、並べた気がします」
「並ぶどころか、もうすぐ追い越されるだろう」
「それは、どうでしょう」
「お前の家系なら十分ある」
「もし追い越したら」
「何だ」
「少しは、男として見てもらえますか」
レオナはしばらく黙り込んだ。
そして、耳まで熱くなるのを自覚しながら、ようやく答えた。
「今さら、そんなことを言うのか」
「今さら、ですか」
「……とっくに、困っている」
アルフレッドが目を見開き、それから心底嬉しそうに笑った。
ああ、と思う。
この笑い方は変わらない。
背が伸びても、声が変わっても、纏う空気が少し大人びても、彼のこういうところは何も変わらない。
そのことがたまらなく愛おしくて、レオナはそっと彼の手を握り返した。
春の風が吹いた。門の向こう、街路樹の若葉がきらきらと揺れる。
半年のあいだに、彼はずいぶん変わったのだろう。見た目だけでなく、中身も。痛みもあったに違いない。眠れない夜も、思うようにいかない日も。会えないあいだに積み重なった時間は、手紙の文字だけでは測れない。
それでも、彼は来た。
卒業の日に、まっすぐに。
レオナは彼を見上げて——ふと、そんな自分に気づく。少しだけ可笑しかった。
「アルフレッド」
「はい」
「これから先、お前はもっと忙しくなる」
「はい」
「文官になれば、今まで以上に責任も増える」
「そうですね」
「私も騎士をやめるつもりはない」
「知っています」
「それでも、いいのか」
「あなたは?」
「……私は」
一瞬だけ迷って、でも、もうごまかす気にはなれなかった。
「お前がいい」
今度こそ、アルフレッドは堪えきれなかったらしい。くしゃりと顔を崩して笑い、そのまま繋いだ手を引き寄せるようにして、ほんの少しだけ距離を詰めた。
「では、これからも待たせることがあるかもしれません」
「うむ」
「手紙も、相変わらず書くと思います」
「知っている」
「会えたときは、ちゃんと会いに来ます」
「……ああ」
「だから、何度でも言います」
彼は、春の光のなかで、あのときと同じ目をして言った。
「待っていてください」
レオナは笑うのが下手だ。
けれどそのときばかりは、自分でもわかるくらい、口元がやわらいだ。
「今度は、待つだけではない」
「え?」
「私も、お前に会いに行く」
アルフレッドが息を呑み、それから耳まで赤くした。
その反応が、まだ少し昔の彼のままで、レオナは胸の奥がくすぐったくなる。
かわいいと思った。
同時に、もうそれだけでは済まないとも知っている。
この先、彼はもっと変わるだろう。背も、声も、立場も。きっといずれ、彼を“守ってあげたい”などと軽々しく思えなくなる日が来る。それでもたぶん、花を見て立ち止まる目や、綺麗なものに素直に綺麗だと言う心だけは変わらない。
その隣に、いられたらいいと思う。
門の向こうで春の風がまた吹いて、どこからか花の香りが運ばれてくる。
アルフレッドは繋いだ手を見下ろし、それから少しだけ照れたように、でも幸せそうに笑った。
「……それは、ずるいです」
「何が」
「嬉しすぎるので」
「そうか」
「はい。とても」
レオナは頷く。
空は明るく、風はやさしい。
待っていた季節が、ようやく来たのだと、そんなふうに思った。




