3センチ 初めてのLIME
「鼻、大丈夫?」
わたしのすぐ目の前まできた渡合くん。
腰を低くして、少し鼻を気にするようにわたしの目線の高さまで合わせてくれてる。
か、顔が近くない? いや、わたしが不慣れなだけでこれくらい当たり前?
首筋のラインがはっきりと目に映って、男の子なんだなと意識をしてしまう。心配そうにしてくれてる姿にドキリとしつつ、その気持ちが嬉しくて心があたたかくなるようだった。
「は、はい。おかげさまで鼻血が止まりました!」
「結安。声が大きいよ?」
ほんの少し教室に残っていた男女の注目を集めてしまう。
いけない。緊張したり心が浮つくとつい大声になってしまう。体が小さいことで逆に声を大きくしてしまう癖がいつの頃からかついていた。
「良かった。それじゃあまた明日」
横を通り過ぎようとする渡合くんの手をとっていた。
「あの、ハンカチをありがとうございました。ちゃんと洗って返します」
「……それは大森さんにあげるよ」
「え。でもとても大事なものですよね? 手縫いの小さな鳥の刺繍がありました。とても思いがこもってます。渡合くんのための大事なものなんてもらえません」
わたしの言葉に反応する表情。優しく微笑んだ瞳の奥にやっぱり寂しさを感じる気がする。
「ふふ。そうだね。下手くそだけどね」
糸がずれてるところもあるけどひと針ひと針、きっと思いを丁寧に込めて縫われてると思う。
「でもいいんだ」
「あ……わたしの血で汚しちゃったから」
そうだよ。ヒトの血がついたものなんか洗ったとしても気持ち悪いよね?
「違う違う! そんなことは気にしないから! ほんとに大丈夫だから……迷惑かもしれないけどもらってくれる?」
その表情は嫌そうな印象を少しも感じさせない透き通るように優しいものだった。その代わりに少し寂しそうな色を瞳に感じるのはなんでだろう。
「でも、そんなの申し訳ないです。なにか御礼をさせて欲しいんです」
「ありがとうって言ってもらえたから。それでいいんだ」
どうしよう。なにを言っても御礼をさせてもらえないかも。
もらってしまうのは申し訳ないし、どうしたらいいか分からなくてすぐにいい考えが思いつかない。
「それなら新しい物を買って返せば?」
「蓮の言う通りでいいかもね。そうすればお互い気が楽でいいんじゃない?」
二人が顔を見合わせてからわたしたちに提案してくれる。
そうだ。わたしもそう思っていたんだ。
「渡合くんが良かったらそれでもいいですか?」
「や。そんなこともしなくていいから。そうだなあ……この先、もしも勉強でわからないことがあったりしたら教えてよ」
「わ、わたしで良ければ」
本番に弱くても勉強だけなら自信がある。志望校に落ちたとはいえ人一倍努力してたつもりだし。
よし。毎日の勉強をこれからもしっかりがんばろう。
「小さな手だね」
渡合くんの大きな手を握るわたしの手に向ける視線がとても優しいものだった。
「わ!? ごめんなさい! わたしの手、がさがさしてるから!」
パッと手を離す。ずっと手をつかんだままだった!
「そんなことない。小さくてかわいい手だよ」
鼓動がとびきり跳ねた。
にっこりと爽やかな微笑。大きな手。心地いい声。すべてがわたしの心に沁み込むようだった。
水仕事で手荒れをしてるわたしの手がかわいいだなんて恥ずかしい。
「それじゃあ先に帰るね。また明日」
「また明日」
離れた大きな手がわたしの前でヒラヒラしてる。お返しに小さな手で振り返した。
とても大きい手だったなあ。わたしの手は身長と同じでひと並外れて小さいから余計に大きく感じてしまう。
また明日……自然と口元が緩む。
「(大森さん。分かりやすいなあ)」
「(結安ったらずっと顔が真っ赤)」
二人がそれぞれわたしのことをにっこり見てる。
どうかしたの?
「ほんとにもらっちゃっていいのかなあ?」
「渡合がいいって言うんだからいいんじゃないか?」
「わたしもそう思うよ。それに嫌そうな感じとかは全然なかったし。気にしなくても大丈夫そうだね」
「でもやっぱりハンカチを買って返した方がいいよね?」
「いらないって言うんだから俺はそんなことしなくてもいいと思うよ?」
「買って返せばって言ったの蓮なのに」
「だっていらないんだろ?」
「結安の気持ち次第かな?」
「考えてみる……」
だけど男子のものなんて、どんなのを買ったいいか分からないなあ。
「結安。LIME交換しない?」
「え? うん! する! どうやってやったらいいの?」
「もしかして初めて?」
「うん。スマホは高校入学祝いに親から買ってもらったの」
「あー。中学だと持たせてくれないことあるよね。へへ。わたしは結安の初めてだね。じゃあ……」
初めて。そんな風に言ってくれるなんて嬉しい。
慣れた手つきでぱぱっと操作するこまりちゃんに教わりながら簡単にできた。
「じゃあ送るよ」
「うん。あ、きた!」
今日からよろしくね♪とあった。
ほんの簡単な言葉なのにとても嬉しい。
「返信は……」
こちらこそよろしくお願いいたします。
「あはは。かたい。敬語じゃなくていいのに」
「あ、そっか。今度からそうする。初めてのLIME……ふふ。嬉しい」
「わたしも嬉しいよ。じゃあ帰ろうか」
教室にはもう誰もいなくなっていた。こまりちゃんと中村くんと並んで帰り道に向かう。
「なんだ。最後に帰る生徒も君たちか。気をつけてお帰り」
下足室で注意してきた先生だ。今度は優しく話してくれてる。よく見ると爽やかそうな先生だった。
「先生、今日からよろしくお願いします」
こまりちゃんの明るい声ににっこりしてる。失礼します。と中村くんが礼儀正しく挨拶してる。わたしはお辞儀だけして通り過ぎた。
正門の桜が春風を受けてそよそよと揺れている。
「こまりちゃんと中村くんは幼馴染だから、家が近いの?」
「そうだね。実は隣なんだ」
「生まれたときから一緒なんだよねー」
「生まれたときから?」
二人ともなんだか澄ました感じでいる。
こまりちゃんの歩くスピードが早くてペースを合わせるのが大変。中村くんは慣れてるのか普通についていってる。
「あー。病院も一緒で、生まれた日もおんなじだからさ」
中村くんがぽりぽりと頬をかいている。
「え! それってすごいよね! もしかして幼稚園からずっと一緒なの!?」
「「まあ」」
二人とも返事がぴったり。
「へー。なんだか運命みたいだね。これからもずっと一緒だといいね」
こまりちゃんの歩調が早くなった。さらに足早にしないと追いつけない。後ろを振り返ると中村くんは変わることなく歩みを進めてる。
離れちゃうけどいいのかな?
「こまりちゃん、中村くんが」
「いいよ別に」
振り返ることなく少しツンとした返事が返ってきた。学校から始まる通学路の先にある最寄駅の通り。
おしゃれなショップや飲食店、再開発でビジネスエリアとしても真新しくなった駅前のショッピングモールを足早に進んでいく。
「あ。もうすぐ電車がくる。結安はどっち?」
「わたしは上り」
「一緒の方向だね。早く行こ」
駅構内の電光掲示板を見上げると、あと1分で電車がやってくる。改札を通り抜けて階段を登っていくこまりちゃんを足早に追いかける。
中村くんを置いてけぼりにしちゃったけどいいいいのかな?
電車に乗り込んで今日の入学式のこととかを話した。お互いに期待や不安なことがあったねと話し合えた。
「結安はどこで降りるの?」
「わたしは……」
最寄り駅の名前を教える。
「わたしが降りる駅のひとつ先だ。明日から一緒に登校する?」
「うん。こまりちゃんがよければ」
「じゃあ、LIMEで待ち合わせ時間を決めようね」
そんな約束をして、こまりちゃんは電車を降りていった。ほんの数分でわたしが降りる駅に着いた。他のお客さんの後をついて電車から降りる。
隣の駅だなんてびっくり。もしかしたら家が近かったりして。まだ慣れることのない電車通学だけど、新しくできた友達のおかげで安心して通うことができそう。
改札口を通り抜ける。家までは歩いていける距離だけどちょっと遠い。見慣れた商店街を進んで行くとコンビニからビニール袋を手に提げた渡合くんが出てきた。
え。え? え? 渡合くん? もしかして駅が一緒? 降り口も一緒だなんてびっくり。
こちらに気づくことなく駅とは反対の方に歩いていく。わたしの家のある方向。声をかける勇気もないわたしはなんとなく後をついていくことに気まずい思いをしてしまう。だけど同じ方向だししょうがないよね?
足の長い渡合くんはやっぱり足が速い。少しずつ距離が離れてしまうと、わたしの足が早くなってしまう。
やだ。こんなのまるで尾けてるみたいじゃない。でも渡合くんの背中を見ているとうっかり追いかけたくなってしまう。
あれ? さっきから右に曲がったり左に曲がったり。道順がわたしの帰り道とずっと一緒だ。どんどん家が近づいていく。
あれ? あれ? あれ?
わたしの家が見えてきた。少し前に流行ったデザインを取り入れたどこにでもある普通の分譲戸建て住宅。お父さんとお母さんと一緒に相談して中学校になる前に引っ越してきた。
渡合くんが鍵を玄関ドアに差し込んで入っていく。以前は老夫婦が住んでいたというお隣さんの空き家。
渡合くんの家が、お隣?




