第2話 遭遇
「う、うーん……」
伊吹は目は閉じているが自分がうつ伏せに倒れていることに気がつく。
しかし、合点がいかない。
確かベンチを立ち上がって歩き始めたところだった。
それが、なぜ倒れているのか。
冷たい感触に土の上ということを実感させる。
草の匂いが鼻腔をくすぐる。
どう考えてもおかしい。
ベンチの周辺はアスファルトだったはずだ。
目を開けたくない気持ちがあるが、状況を確認しなくてはいけない。
うっすらと目を開けてみる。
すると、クローバーのようなものが目の前にあった。
いきなりおかしかった。
五枚葉のクローバーなのだ。
しかも、目に映る範囲のものが全て。
「五枚葉のクローバーいっぱいみっけ。ラッキー……って、群生しているわけねえじゃねえか」
日本にも五枚葉のクローバーが生えることはあるが、それはあくまで突然変異で今の状況のように目に映る範囲全てが五枚葉になっていることはあり得ない。
伊吹は上半身を起こしてみる。
そこは森の中にひらけた空間があり、五枚葉のクローバーの群生地だった。
「はあ、どう見ても異常事態だよな。都内の動物園にいて、こんな状況になるわけがない。一体どうして……あ」
少女たちの会話が頭の中に蘇った。
(「ねえねえ、知ってる? ここの場所で十何年か前に六人の高校生と4歳の男の子が神隠しにあったんだって」
「何それ、怖い」
「なんか、光ったらしいよ」
「それ、あれだよ」
「何?」
「異世界転移」
「あはは、ラノベ読みすぎ」
「あるかもしれないじゃん」
「あったらどうする?」
「うーんとねー」)
「異世界転移……って、そんな馬鹿なことあるわけないか。ほんとラノベじゃあるまいし」
伊吹も学生の頃は人並みにラノベを読んでいた。
しかし、異世界転移で森の中にポツンとサバイバルをしなければならない状況になるのは絶対に嫌だ。
だから、異世界転移と認めるわけにはいかなかった。いや、認めたくないのだ。
「何かの間違いだ。ここは動物園の森の中のはず……なんで森の中かはわからないけど」
伊吹は立ち上がる。ひらけた空間の外は、四方全てが鬱蒼とした森になっている。
スマホを見るが電波がないようだ。
「こういう時は動かないほうがいいっていうけど、このままで助けが来るとはとても思えない。
とりあえず、ここを拠点にして動いてみよう。その前に木に登って周囲を見てみるか」
周囲の丘の中で一際背の高い木を見つけた。
近寄るが、一番下の枝でさえ、バスケット選手でも届かなそうなくらい高い位置にある。
「うーん、ジャケットを使うしかないか。でも高いんだよな。これ」
娘とのデートのために新調したジャケットはブランドものでとても木登りに使うものではないが、諦めてジャケットを脱ぐ。
そして、木の幹に回して袖を掴み登り始める。
ガサガサの木の肌は、バッシュと噛み合って登りやすい。
「子供の頃木登りしていてよかったな」
元妻の絢音の言うように、なんでも人よりも早く習得するのは子供の頃からで、木登りも同様に人よりできた。
もっとも、それで褒められたのは最初の頃だけで、友達の中で突出してできるようになった子がいて、すぐに霞んでしまった。
下の枝にたどり着いた伊吹は、今度は枝を伝って登り始めた。
四苦八苦しながら、周りの木よりも高い位置に行った伊吹は周りを見回す。
遠くに山が見え、見渡す限りの森があり、その中に川が流れている。遠くを鳥のような生き物が飛んでいる。
爽やかな風が木登りで火照った頬を撫でた。
「うわあ、気持ちいいなー。景色もいいし、最高……って、そうじゃねえよ。明らかにここ都内じゃないよな。どこなんだよ〜」
ノリツッコミ気味に叫んでしまったが、虚しく周囲に響くだけだ。
あまりもの大自然とサバイバルしないといけなそうな状況を思ったら、伊吹の股間がヒュッとなった。
「どうすんだよ、これ。どうするか。ああ〜」
キョロキョロするも森ばかり。伊吹には深刻な事態にしか見えない。
自分の気持ちがパニックになりかけているのを実感する。
「落ち着け、俺。落ち着くんだ。この状況から、今後の方針を考えないと」
自分自身への呼びかけで、ほんの少し冷静さを取り戻した伊吹は、数キロ先の森の中に線があるのに気がついた。
「あ、あれは道なんじゃないか? よく見たら、川の近くに並走するように線がついている。きっと道だ。」
あたりをつけた伊吹は木を降りてリュックを背負う。
「ざっくりあっちの方に向かえば道に当たるな」
とにかく道があるであろう方向へ歩き始めた。
歩くごとに感じていた不安が消えていく。
伊吹は自分のペースで歩けるトレッキングが好きだ。
なんでもすぐにできる一方で、突出した能力を身につけられない伊吹にとって、人と競争する必要のないことが心地よい。
だから、知らない森を歩く伊吹の足取りは状況に関わらず軽い。
「やっぱり、山とか森を歩くのは楽しいな。競技と違って景色を見ながら歩いてさえいれば、たどりつけるからな」
伊吹は、今どこにいるかなど考えることなく、歩くことを楽しんだ。
普段見ることはない木や植物を見ることができて興味深い。
完全にレジャーを楽しんでいるおじさんだった。
しかし、楽しめたのはそこまでだった。
「お、あれは道かな? もう着いたか。楽しいとあっという間だな」
伊吹がひらけたところを見つけて足を早めようとした時、それが起こった。
「ぎゃああああああああ」
声に焦り、反射的に身を伏せる。
(なんだ。今の声は)
悲鳴と共に、怒声も聞こえてくる。
(状況がわからないままだと対処できないな。怖いけど見に行こう)
伊吹は気配の消し方などわからないが、できるだけ息を殺して声がした方に近づく。
すると、馬付きの幌馬車が止まっていて、その前には見える範囲で三人の男が倒れていた。
そして、容赦なく剣を振り下ろす、盗賊とでも言えそうな汚い格好の男たちが見える範囲で六人ほど。
盗賊たちは口々に何か叫びながら、笑い声を出し、倒れている人間を切り刻む。
剣を振り下ろされている人物は、臓物がはみ出してビクビクと震えている。
伊吹は胃からせり上げてくるものを感じるが、口を押さえて必死に堪える。
(今はダメだ。吐いちゃダメだ。逃げないと)
伊吹が後ずさろうとすると、落ちていた木の枝を踏んでしまいバキリと、音がする。
「※※!」
盗賊が振り向くが早いか、伊吹は振り返り全力で走った。
盗賊の一人が物音がした方に駆け出そうとするが、茂みから鹿に似た動物が飛び出した。
それを見た盗賊たちは笑いながら、馬車の荷台に向かった。
「なんだあれ、なんだあれ、なんだあれ」
盗賊が追ってきていると思っている伊吹は、混乱しながらも走り続けた。
そして、躓いて転ぶと小さな斜面があり、木の下にえぐれて、人ひとりが隠れられそうなところを発見して、そこに潜り込む。
そして必死で息を潜めた。
幸い誰も追って来ていないようだった。
息を整えた伊吹は、ようやく落ち着きを取り戻した。
「はあ、なんなんだよ。今日は……最悪か」
最悪という意味で言うなら、最愛の娘に会う機会を取り上げられて、気づいたら森の中で倒れていて、彷徨った挙句、惨殺現場に遭遇して命からがら逃げ出して隠れているのだ。伊吹の人生の最悪の中でも一位二位を争うくらいには最悪だろう。
盗賊らしきものたちを思い出す。
「あいつら……何語喋ってたんだろう……やっぱり日本じゃないのかな?」
日本で馬車が使われているのはおかしいが、それより盗賊が集団で何語かわからない言語を喋りながら、人を惨殺しているのがおかしい。
「本当に異世界に来てしまったのか?」
再び、動物園での少女たちの会話を思い出す。
「考えられるのは、女の子たちが話していた神隠しがあったっていう場所を通った時だよな。確かに景色がぐにゃりと曲がった感覚があった」
伊吹はその瞬間を思い出すが、気持ちの悪い感覚を思い出して、両腕を抱きしめる。
「さあ、いつまでもここにいるわけにはいかないな。道に出ないといけないんだけど、盗賊に鉢合わせしたら今度こそまずいな……そうだ」
伊吹はいまだに背負ったままのリュックを下ろし背中のポケットを探る。
たくさんのツールがついたスイス製のアーミーナイフとアメリカの銃器会社のタクティカルペンを取り出す。
アーミーナイフはいつもリュックに入っていて、タクティカルペンは杏果とのデートに必要だ。
いざという時に躊躇せずに杏果を守るために用意しておいたのだ。
娘のためなら職質の可能性など気にしないのが伊吹であった。
これは先端が固く尖っていて刺突ができる。頑丈でビールの缶くらいなら貫くことができるはずだ。
キャップを外すとペン部分が出てくるので実際に書くこともできる。
アーミーナイフをポケットにしまい、タクティカルペンを右手に持つ。
そして、スマホを開いて先月の杏果とのデートで撮った待ち受け画像を見る。
杏果は笑顔の可愛い少女だ。
伊吹と並んで撮っている顔は心底楽しげな笑顔で、見ていると癒される。
どこかこわばっていた伊吹の顔が緩む。
「ここがどこかわからないけど、杏果に会うために日本に帰らないと」
伊吹はそう決心をして、慎重に道の方に向かって歩き出した。




