ドリー2
それからしばらくして、マナミリュ殿下の昼休憩のサッカーに、仲間が一人増えた。
ドリーである。
トーヤに連れられてマナミリュ殿下の前に引き出されたドリーは、食堂の床に正座して謝罪した。
マナミリュ殿下は深く語らず、サッカーの遊び方を教えてくれただけだった。
元々運動好きのドリーはサッカーにどっぷり嵌まり、少し時間が空けばリフティングの練習をするようになった。
寮にもあのオレンジ色の実を持ち帰っている。剣を振る合間の息抜きにちょうどいい。
ドリーはトーヤのように洗脳じみた感覚はなかったが、男爵令嬢と離れてサッカーに夢中になる事で、以前の自分に戻ったような感覚はあった。
元々、本質的に物事を深く考えるよりも、身体を動かす方が向いている。脳筋なのだ。
サッカーはとても楽しい。
サッカーに夢中になればなるほど、自分の周囲にまとわりついていた膜がぺろりと剝けていくような感覚がした。頭が研ぎ澄まされていく。
マナミリュ殿下はそんなドリーの本質を把握している。
殿下の思惑通りだったのか。難しい話をするよりも、サッカーをすればするほど元の自分に戻れた。
「俺は何をしていたのだろう?」
首を捻って考えるが、いま思うと、とても変な事を本気で信じ込み、行動していたような気がする。
これといった切っ掛けはなかったが、じわじわと自分でないモノに浸食されていたとしか思えない。
今ではどうしてあれほどまでに男爵令嬢に執着していたのか、さっぱり分からない。
幼い頃に亡くした馬について男爵令嬢と話したことがあるが、いま振り返るとおかしな話だ。何故、学校へ入学するまで自分の領地から出た事がない彼女がその事を知っているのだ。
馬に関しては繊細な話で、ドリーは本当に親しい友人にしか話していない。それなのに……。
優しい声色で慰められた時は感激したが、今は恐ろしく感じる。あの時、ドリーは頻りに馬房に行こうと誘われた。何か策略があったから、そうしたとしか思えない。
男爵令嬢と距離を置こう。本気でそう決意すると、気持ちが楽になった。
それから昼休憩に高位貴族専用の食堂に入る事を許されて、マリア嬢と昼食を共にするようになった。
彼女に新しいメニューが増えているのを教わった。
「なんだこれっ、美味い!」
ドリーがメロンパンに齧り付きながら驚くと、マリア嬢はくすくすと笑った。
「トマリーナからの留学生をご存知でしょう? 彼等が国のレシピを教えてくれたのです」
「トマリーナのパンなのか。さすが大国は違う」
パンだけでも見た事のない様々な種類が増えていて、しかもとても美味しい。クロワッサンもクルミパンもブドウパンも、どれも柔らかくて美味い。昼食だけでなく、毎食ここで食べたいくらいだ。
あれからトーヤの忠告通り、アリス嬢と行動を共にするようにしている。
アリス嬢には正座で謝罪したが、眩しいほどの笑顔で「次はない」と宣告された。許されるのは今回だけ。
それだけでもありがたいとドリーは思っている。
第三者のトーヤが語ったアリス嬢の人柄が、ドリーにはしっくりきた。
自分では事務的な付き合いだと思っていたが、いつの間にかその静かな佇まいを好ましく感じていたようだ。
感情的にならず、冷静に物事を見極めようとする姿勢が彼女らしくて、彼女が婚約者だった事に心から感謝した。
平和で楽しい昼休憩を過ごすようになった頃。いつものように高位貴族専用食堂の前庭でサッカーをしている最中。
急に留学生の一人、サールが皆を止めた。
「移動しましょう。すぐに建物の影に隠れて下さい。急いで!」
ぽかんとなったドリーはトーヤに腕を掴まれた。オレンジ色の実を胸に抱えたまま、物凄い力で引き摺られる。
マナミリュ殿下と留学生レオン、その従者たち、全員が急ぎ足で建物を回り込むと、息を潜めてしゃがみ込む。
すぐに大きな声が聞こえてきた。
「ちょっと! どういう事よ!」
顔を見なくても分かる。あの男爵令嬢の金切り声だ。
「何で?! どうしてこんなところでサッカーが流行っているの?! おかしいでしょ!!!」
男爵令嬢はかなり取り乱しているようだ。遠目でしか確認できないがピンク頭を振り回し、女性とは思えないほど大声を張り上げている。
その周囲に取り巻き達がいるが、みんな戸惑っているようで、おろおろしている。
やがて食堂職員がやって来て、その一団に注意する。
「ソフィル・メイア男爵令嬢。ここへは立ち入り禁止だと、何度言えば理解して下さるのですかねぇ?」
「うるさいっ! うるさいっ!」
地団駄を踏む男爵令嬢は童子が癇癪を起こしているようだった。
さすがに不味いと思ったらしいマギオンとその仲間達が、暴れる彼女を力づくで連行して行った。
途端に静かになる。
ぽかんと口を開けてそれを見ていた男子生徒達が、再びサッカーを再開する。
ざわめきが戻ってきた。
自分もつい最近まであの中にいたのか……とドリーは遠い目になる。
「やれやれ。物凄い剣幕だったな」
留学生レオンが快活に笑い、マナミリュ殿下が苦笑いしている。
「やはりサッカーも知っていましたね」
従者の一人、モルフが意味深に呟くと、レオンが心得顔で頷く。
「あの様子では、何か企んでいたとしても思ったように進んでいないようだ。我々にとっては良い徴候だ」
「ええ。しかし物凄い暴れようでしたね。私は女性があのように暴れるのを初めて見ました」
「ずっと私の傍に侍っていたモルフが、あのような淑女を見た事がないのは当たり前だ」
「あれのどこがか弱い女性に見えるのでしょうね? 1人対10人でも、女生徒達を蹴散らして勝てそうじゃないですか」
「ピンク猪だからな。猪突猛進だ」
ワハハと豪快に笑うレオン。
ドリーは彼を眩しく見詰めた。
金髪碧眼の美しい見た目、その言動は親しげで穏やか。とても気さくで話しやすい。ドリーにさえ気軽に話しかけてくれる。
伯爵子息だと聞いているが、本当の身分は高いのだろうと想像している。まとう空気がそう示している。高貴な血は隠し通せないものだ。
反してもう一人の留学生サールは腰が低くて、とても伯爵子息には見えない。
本当の身分がそうなのか分からないが、平民ですと言われても納得してしまうような質素な雰囲気があった。
でもレオンもモルフも、サールには丁寧に接しているのを感じる。何かあるのだろう。
マナミリュ殿下がその事情を知っているのか分からないが、トマリーナからの留学生の扱いは慎重に。余計な詮索をして機嫌を損ねてはならない。
側近に選ばれるには理由がある。
ドリーはその判断力では合格していた。




