サールの旅
サールは王都を後にして東へ向かった。今度は一人ではなく、アルデも一緒だ。
乗り合い馬車に揺られながら、慌ただしく去ったあの集落へ向かう。
山に辿り着くと、また最初にあの老人マノリと出くわした。
「坊主! 戻って来たのか!」
「うん。米は上手く収穫できた? 上手に炊けた?」
マノリの声が聞こえたのか、住人がわらわらと集まって来た。「よく戻った!」とたくさんの手で肩を叩かれ、頭をくしゃくしゃにされる。
炊いたご飯を見せて貰ったら、やはり説明だけでは上手くいかなかったようで、お粥のようになっていた。
「これはこれで食べやすいんだが、お前さんが言っていた《おにぎり》とやらが作れなくてな」
「水が多いんだよ。洗った米に手を浸けて……こんな感じ。手首くらいが目安かな」
老人達だけで脱穀して白米を作り出すまでは成功している。
サールが手本を見せながら米を炊き、おにぎりを作って見せると、老人達から「おおっ」という声が上がった。それぞれを手に取りかぶりつく。
「これは美味いな」
「なるほど。塩で握るだけでこんなに美味くなるのか……」
皆からの好評を得て、サールも笑顔になる。
棚田の風景を見に行ったら、サールが耕した場所以外にも範囲が広がっていて驚いた。
「これは……?」
「皆で広げてみたんだ。米をもっと食べたいという声が多くてな。坊主がどんな風にしていたか、わしがずっと見ていたし」
山の中腹から見下ろす棚田は絶景だ。ちょうど新しい苗を植える時期だったようで、水を張った田んぼに空の青さが映っている。
「きれいだ……」
隣のアルデが漏らす声を聞いて、サールも大きく頷いた。
「たまに染料の買い付けに来る冒険者が、これを見て感動してな。下の町で自慢したらしい。素晴らしい景色が広がっていると」
「あらら」
「それからたまに物好きな冒険者がやって来るようになった。空き家に泊まる代賃として、ここにない布や食材、ナイフなどを置いていく。そして米を食べてまた驚き、余っているなら譲ってくれと、いつもより多めの塩を置いていった」
「塩?」
「染料の取引は塩でしてるからな。ここで硬貨を手に入れても使い道がない」
「なるほど」
「そんな風に冒険者が来る機会が増えて、物々交換も頻繁になって、少し生活が便利になったぞ」
「それはよかったね」
老人ばかりの集落なので、悪い連中に目をつけられないかと不安になったが、米の取引がいいお金になると知った町で暮らす老人の息子達が、前よりも頻繁に帰って来るようになったそうだ。
「ここで子供を育てるには不便だが、金を稼げるとなると話は別らしい。現金なものだが、家族の顔を見られるだけで喜ぶ奴もいる。……冒険者ギルドも気にかけてくれているようだし、治安はそう心配する事はねえぞ」
「それならよかったです」
サールは胸を撫で下ろした。自分が米をもたらしたせいで集落が不幸になるのは悲しい。
「稲作は国の事業で大々的に広めていくそうなので、物珍しいのは今だけですよ」
「そうなのか?」
「なのでそれに限った商売はお勧めしません」
「いいことを聞いた。まさにそれをやろうとしたどこかの息子がいた筈だ。助かったよ、ありがとう」
「いいえ」
「それならこの先、小麦農家は困るようになるのか?」
「それは大丈夫です。パンはパンで需要があるし、安定しているので。それに目新しいパンもこれから流行りそうですし……」
そこまで言って気付いた。
もしかして第一王子はこれを予測してパンのメニュー開発を……?
王子なのに足繁く厨房へ通って、楽しそうにはしゃいでいた彼を思い出す。
とても偉い、貴族の中でも雲の上の存在なのに下の者にも丁寧に接していて、王子宮で働く人達からも慕われていた。
サールは半分貴族ながら、貴族というものをよく知らない。
知っているのは父と義母と義姉なので情報が偏っているのだ。学校へ通ってはいたが、個人的に仲良くなった同級生もいなかった。
誰からも好かれる人気者の第一王子。ハーメルという元王宮薬師が諦めずに奇跡の薬草を探し続け、生かそうとした人。
ああいう人が王宮にいるのなら、この国は安泰だろう。国王になるつもりはないと宣言していたが、弟の後ろにいるのなら無駄に民を虐げる政策はしないだろう。
第一王子にもこの美しい景色を見せてみたいな……とぼんやり思いやりながら、サールはその集落を後にした。
サールが次に向かったのは西だ。
「山からの景色は堪能したから、今度は海を見てみたい。アルデも見た事ないよね?」
「はい。楽しみです」
乗り合い馬車に揺られて、ゆっくりと国を横断する。
ギルドの口座にはいつの間にかとんでもない金額が入っていて、サールは自分の目を疑った。
思わずアルデに相談したら「それは当然でしょう。王族の命を救ったのですから」と一蹴されてしまう。
本当に十年以上遊んで暮らせるお金がある。どきどきして心臓に悪いので、サールは金額の事を考えないようにした。
旅の途中で薬草採取をしたり、観光したり、気の向くまま移動して、無事に目的地に辿り着く。
西の端には広大な青い海が広がっていて、サールとアルデは圧倒された。
「海は凄いね……」
「はい。素晴らしいです」
何日もその町に滞在して、ここにしかない料理や食材を堪能する。
海から採れる海藻や貝、魚など、よその町にはない物がたくさんあって物珍しかった。
観光地として成立していているようで、旅人と思われる人もたくさん街道を歩いていた。
殿下はこの景色を見た事があるのだろうか……。
またそんな事を思って、ないだろうなと想像する。
ずっと病弱で、ほとんど自室にいたと言っていた。王子宮の限られた区間だけで生活していたので、王宮の中ですらよく知らないと。
「いつか殿下がここに来て海を見る事があるんだろうか」
「病気は消滅して元気になられたので、可能性はあるのではないですか? なかなか筋肉がつかないと嘆いておられましたが、いずれは」
「そうだね」
こうして平民に混じって町で暮らしていると、あそこで過ごした日々が嘘のように感じられてしまう。
どこもかしこも豪華な装飾が施された室内。テーブルや寝台、家具。
服装も指定されて、サールは渡された物をそのまま身につけていた。最初は着替えまで手伝おうとされたので、慌てて断ったほどだ。
もう懐かしく感じるほど遠く感じる。二度とあんな風に過ごす事はないだろうと思うと、微かな喪失感が湧いてくる。
「楽しかったな……」
サールがぽつりと漏らすと、アルデが「そうですね」と呟く。
そして思う。
サールはこれまでこんなに楽しいと感じた事があっただろうか。
生まれた生家ではあの扱いで、学校へ通い出してからもびくびくして過ごした。
小さい頃から薬草の知識を頭に詰め込むのに必死で、生きる為に全力を尽くしてきた。
あんな風に笑った事もなければ、警戒を解いた事もない。廃嫡されてからの一人旅は解放感でいっぱいだったが、一人きりだった。
あの王宮で過ごした日々は……第一王子と遊んだ日々は、サールにとって人生で初めての友人と過ごした幸福な時間だったのだ。
「は……」
改めて実感して、サールは泣きそうになった。
もう雲の上の、更に上の人。ただの一市民が会う事もないだろう。
寂しく思うのが不敬なのだ。
サールは気持ちに蓋をした。




