88 新旧婚約者
「ぺラム男爵家長女ルナと申します。この度は、アンナ様に申し訳ないことになりまして」
だが、可愛らしいはずのルナ様の挨拶に、胸の奥に小さな怒りの火が灯ってしまう。
思わずルナ様の真意を聞こうとしたが、ヘンリー様が眉間に皺を寄せて私を見ていることに気付き、慌てて冷静を装ってそのまま微笑み続けた。
(『申し訳ないことになりまして』って、どういう意味?そこは、『アンナ様に申し訳なく思っています』って、謝るところじゃないの?)
笑顔を保ち続けながらも、胸の奥で苦々しい思いがさざ波のように立っていく。
ルナ様の言い方だと、私とヘンリー様の婚約破棄は、まるで自然の摂理であるかのように聞こえる。
でも、少なくともルナ様は、私からヘンリー様を奪うという明確な意思があったはずだ。
(・・・・・・きっと緊張していたから上手く言葉が出てこなかっただけで、ルナ様は私に謝ったのよ)
心を落ち着かせようと、一生懸命自分に言い聞かせる。
僅かな言葉の差に苛立つのは、私の心がまだ完全に立ち直っていないからなのだろうか。
怒りを静めようと、気付かれないように深呼吸をしようとしたが、ヘンリー様の言葉で怒りの炎が燃え上がった。
「いや。ルナは悪くないから、謝る必要なんてないさ。元々愛情なんてなかったしな。アンナだって怒ってないさ。そうだよな、アンナ?」
(いや、怒ったし、何より傷つきまくって、大泣きしましたけど!?)
どれだけ私が傷ついたと思っているのか。
カッとしてヘンリー様に文句を言おうとした瞬間、咎めるような眼差しで私を見下ろすダニエル様と目が合った。
(・・・・・・ここで事を荒立てて良いことなど、一つもないわね)
ホランド伯爵家はそれなりに力のある家だし、春からはセオドアが騎士団に入団する。
フレディ様が言うように、騎士団内で先輩が幅をきかせる風潮があるなら、ヘンリー様の機嫌を損ねるのは得策ではない。
(感情的になったら負けよ)
以前ダニエル様に、感情を隠せるようにならないと、すぐに付け込まれると教えてもらった。
今こそ、その教えを実践するべきだ。
私の商売の師匠であるダニエル様が、そっと私を気遣うように見ているのがわかる。
それに、常に最悪のことを考えて、先を予測して行動するのが私の信条だったはずだ。
ここは、毅然と対応するのが正解だ。
少しでも凛として見えるように、背筋を伸ばし、口角を上げてにっこりと微笑んで見せた。
「そうですね。私たちの婚約は、ホランド伯爵の意向に従っただけです。私もヘンリー様に愛情はなかったので、ルナ様もどうぞご安心下さい」
二人が憂いなく結婚できるように気を利かせて言ったつもりが、なぜかヘンリー様が傷ついた顔をして、私を非難するように見てきた。
ルナ様は横目でそんなヘンリー様をちらりと見た後、ふんわりと目尻を下げて私に笑いかけてきた。
「ええ、よくわかっています。ヘンリー様は『アンナ様のことなんて興味もない』って、おっしゃっていましたし」
「・・・・・・そうですか」
ルナ様を通したヘンリー様の言葉に深く心が抉られるが、気にしていないように微笑む。
元婚約者の私はルナ様にとって面白くない存在だというのはわかるが、先ほどの言葉といい、ルナ様は明らかに私を不快にさせようとしている。
(・・・ヘンリー様が守ってあげたいと言ってたけど、そんなにこの方って弱い?)
目尻こそ下げて笑って見せているが、ルナ様の目の奥は冷たい光を放っている。
柔らかくて可愛らしい雰囲気とは裏腹に、ルナ様は気の強い方なのだと思う。
「だって、ホランド伯爵が無理に勧めた縁談ですものね」
「・・・ええ」
「名前だけの婚約者だったとお聞きしています」
「・・・・・・そうですね」
「だから、ほとんどお会いすることもなかったんですよね?」
「・・・・・・・・・ええ、そうですね」
(多少なりとも会っていたし、手紙や荷物は毎月送っていたけどね)
確かに愛情はなかった。
でも、少なくとも婚約者としてヘンリー様を気遣ってきたつもりだった。
だけどヘンリー様にとっては、3年間も婚約していた私の存在は、無きに等しいものだったらしい。
私とルナ様の会話は聞こえているだろうに、ヘンリー様は素知らぬ顔で店内を見回している。
ルナ様の言葉を私が否定したら、どうするつもりなのだろう。
きっと弱小貴族の私なら、何も反論してこないと思っているに違いない。
(・・・でも、どちらが先に声をかけたのかは知らないけれど、ルナ様は少なくとも私の存在を知っていたわけね)
私という婚約者の存在を知ったルナ様が、身を引くという選択はなかったのだろうか。
別にヘンリー様を好きだったわけではないが、ルナ様が現れなければ、私たちは結婚していた。
ヘンリー様は高圧的なホランド伯爵に逆らい、私との婚約を破棄してまでルナ様を選んだ。
金銭に細かいヘンリー様が、婚約を破棄するために高額の慰謝料を用意したということは、それほど真剣にルナ様のことを愛しているのだろう。
私とルナ様の決定的な違いは、何だったのだろうか。
「だからこそヘンリー様は、私に『真実の愛を見つけたんだ』って、プロポーズしてくれたんですよね」
「あ、おい、ルナ。そんな恥ずかしいこと人前で言うなよ」
「え~、いいじゃないですか。だって、私、ヘンリー様のプロポーズに感動したんですもの」
「そ、そうかぁ?」
「そうですよ。私、嬉しくて友だちに自慢したら、みんな『ヘンリー様のプロポーズって、素敵!』って、すごく羨ましがられて」
「よせよ、そんな照れるじゃないか」
「だって、本当に素敵なんですもの」
「ルナにそう言われると、嬉しいな」
ヘンリー様たちは、二人のせいで傷ついた私のことを気にする素振りもなく、肩を寄せ合いながら、くすぐったそうな表情を浮かべている。
白けた気持ちで見ていたら、ヘンリー様がルナ様の肩を抱き寄せて、私たちの反応を窺うように見てくるので、どうにも居心地が悪くてダニエル様を見れば、ダニエル様はいつもの微笑みを浮かべているだけだった。
(・・・ダニエル様は、何事にも動じないわね)
経営者として私もそうあるべきだと自分に言い聞かせて、苛立つ気持ちを落ち着かせる。
だが、二人の世界に浸っていると思ったルナ様が、ちらりと意味ありげに私の顔を見上げたことで、再度胸の怒りの炎が大きく立ち上がった。
(でも、お腹にお子さんが出来なければ、ヘンリー様は貴女を選ばなかったかもよ!)
ルナ様の挑戦的な態度に怒りが収まらず、ルナ様のお腹に視線を移す。
貴族令嬢として、いや、平民でも結婚前に子どもが出来るのは、はしたないとされる。
ルナ様はお腹の子を、私からヘンリー様を奪うための手段にしたかもしれない。
私の視線に気が付いたのか、ルナ様はお腹を隠すようにバッグを移動させ、傷ついたように目を伏せた。
ヘンリー様は目を細めて満足げに私たちをみているだけで、ルナ様の様子に気付いた様子はない。
(・・・しまった!この後、私はどんな態度を取ればいいのかしら!?)
ルナ様が、私に意地悪をされたとヘンリー様に訴えたらどうすればいいのだろう。
でも私は一言も発していないから、誤魔化すことはできるような気がする。
だけどヘンリー様は、私の言うことに聞く耳を持たずに怒り出すかもしれない。
どうしようかと焦ってダニエル様に視線を移すと、いつも微笑んでいるダニエル様が、僅かに眉を顰めて私とルナ様を見比べていた。
きっと私たちの幼稚な行動に呆れているのだろう。
(・・・・・・・私、全然だめね)
冷静に対処するつもりが、さっきからヘンリー様とルナ様に振り回されているばかりだ。
なんでこうも立ち居振る舞いが下手なのか。
ルナ様は、ヘンリー様に肩を抱かれたまま、睫毛を震わせて俯いている。
(・・・・・・・・・ごめんなさい、ルナ様)
まだ目を伏せているルナ様に、心の中で謝る。
あまりにも腹が立って意地悪な行動を取ってしまい、ルナ様を傷つけてしまった。
結婚前に子を宿したら、男性は非難されないのに、なぜか女性は蔑まれる。
一人で子どもが作れるわけじゃないのに、ルナ様だけを責めてしまった。
責めるべきなのは、私のことも、ルナ様のことも思いやれなかったヘンリー様だ。
ルナ様に謝るべきかと迷っていたら、ルナ様は肩を小さくすぼめてから、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「でも、いくら愛情がなかったとはいえ、私がヘンリー様と結婚することになってしまって、本当に申し訳ないです。アンナ様は、もうすぐ18歳ですよね?アンナ様の次の縁談に差し障りがでると思うと、心が痛みます」
「・・・・・・・・・・・・」
(ちょっと待って、それ、貴女が言うの!?)
反省して鎮火した怒りの炎が、また勢いよく膨れ上がった。
お腹に視線を遣った私も悪かったかもしれないが、ルナ様は、一見謝罪に見せかけながら、私の傷口に塩を塗ってきた。
傷つけたことをルナ様に謝ろうとした私が馬鹿だった。
絶対この方、性格が悪い。
婚約を破棄され、適齢期を過ぎた私が、これから結婚することはないだろう。
縁談を持ち込まれるとしたら、後妻か、訳ありの方か。
このまま独身ならば、修道院か。
そんなこと、貴族令嬢なら痛いほどわかっているはずだ。
(・・・私の辿る道がわかっていながら、ヘンリー様を略奪したのね)
内心怒りで煮えたぎったが、ルナ様に非難の言葉を発しないように、ぐっと拳を握り締める。
手の平に爪を食い込ませ、家を出る時にかけられたクララの言葉を反芻する。
『お辛いでしょうが、どうか私たちのためと思って頑張ってください』
(大丈夫よ、これぐらい平気。何でもないわ)
必死で笑顔を作りながら、これぐらい耐えなくてどうするのだと自分を叱咤する。
セオドアはクララの大事な息子で、私の大切な弟分だ。
これから騎士団で、ヘンリー様のお世話になることもあるだろう。
ヘンリー様の愛するルナ様と喧嘩するのは、得策ではない。
後で延々と後悔するぐらいなら、今、いくらでも耐えてみせる。
そう決意したのに、ヘンリー様の「ルナは本当に優しいな」と感動した声が耳に入り、心が砕けた音がした。
(・・・・・・ルナ様の、どこが優しいの?)
ヘンリー様に、ルナ様を優しいと思う根拠を聞いてみたかった。
私の未来に予想がつくなら、最初からヘンリー様に手を出さないで欲しい。
ヘンリー様の言う優しいルナ様は、先ほどから言葉に毒を含ませて、私の心を蝕んでくる。
一言ぐらい、言い返したい。詰りたい。
でも、言ったら、きっと後からセオドアに迷惑がかかる。
ヘンリー様と私の板挟みになるダニエル様だって困るだろう。
(もう嫌だ。この場から逃げだしたい。逃げて、誰も知らないところに行きたい)
何も言い返せない自分が悔しくて、目の端に涙が滲みそうになり俯いてしまう。
目尻を下げ、口角を上げて、涙をこらえて笑う私は、道で人に笑われる道化師みたいだ。
情けないが、でも、これこそが最善だと信じて笑うしかないのだろうか。
ついに涙が零れ落ちそうになった時に、甘く包み込むような声が慰撫するように降ってきた。
「大丈夫ですよ。アンナ様は、こんなに美しくて賢い方だ。むしろ、婚約を解消されたことを喜ぶ者たちが多くいることでしょう」
(・・・・・・・・・ありがとうございます)
アスター商会としての立場もあるだろうに、ダニエル様が庇ってくれたことが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
別に私が婚約を解消されて喜ぶ人間などいないが、ダニエル様が味方をしてくれたと思うと、何とか立ち直れた。
顔を上げ、ルナ様の言葉など気にしていないよう、にっこりと笑って見せる。
そんな私を見て、一瞬だけルナ様の目が細くなったが、すぐに可愛らしく小首を傾げて、ダニエル様を見上げて笑った。
ベスが教えてくれた、あの男性を虜にするポーズだ。
私が真似をしても全く効果はなかったけど、ルナ様がすると、すごく可愛い。
「そうかしら?ヘンリー様は、アンナ様は気が利かないと嘆いていらっしゃいましたけど?」
お読みいただきありがとうございます。
ブクマや評価もしていただき、本当にありがとうございます。
傷口に塩を塗ると非常に痛いですよね。
江戸時代は民間療法の一つとして傷口に塩を塗っていたそうですが、現代医学の観点では、痛いだけで効果はないそうです。
明日も朝7時に更新予定ですので、引き続きお楽しみいただけると嬉しいです。




