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86 ダニエル様と契約


「よかったら試してください。昨日お話した手に塗るクリームです」

「ああ、これですね」


案内された事務所の椅子に座ると同時に、オリバーの作ったハンドクリームと説明書を差し出す。

ダニエル様は蓋を開けて香りを確認すると、片方の手の甲に丁寧に塗り広げた。

クリームを塗った手は、しっとりとした艶が生まれていた。


微妙に目を細めながらダニエル様が、クリームを塗った手と塗っていない手をじっと真剣に見比べている。

商品化してもらえれば、使用料が入るかもしれないと思うと、胸がドキドキする。


「どうでしょうか?私は水仕事をするから手荒れが酷かったのですが、このクリームを塗るようになったら、随分症状が和らぎました」

「なるほど。ただ王都にも、すでに似たような物があるんですよ」


「・・・そうですか」

「それに、他の製品と比べると、このクリームは少しベタつきますね」


残念ながら、王都には同じような製品が沢山あるらしく、ダニエル様の反応はあまり良くなかった。

ベスも肌に塗るクリームのことを知っていたし、珍しい物ではないのだろう。

やはり人生そんなに甘くないとがっかりしつつも、一応クリームの宣伝はしておく。


「ただ、このクリームには蜂蜜を入れています。蜂蜜は保湿成分が高いので、肌がしっとりする効果は十分にあると思います」


「・・・わかりました。ではサンプル品として、こちらを預からせていただいてよろしいですか?」

「ええ、勿論です」


ダニエル様がサンプルのクリームを机の上に置き、オリバーの書いた説明書に目を通し始めた。

笑顔を消して真剣な瞳で説明書を読んでいたが、気になることでもあったのか、眉を顰めて机を指でトントンと叩いている。

その懐かしい仕草に、アルバート様と書斎でした会話を思い出した。


「あの、そのサンプル品を王立研究所にお願いして、成分検査をしてもらったらどうでしょう?」

「王立研究所?」


「ええ。実は今日契約する飴も、王立研究所に成分検査をお願いしてもらっているんです。効果が証明されれば特許も取れるし、宣伝効果も高くなるでしょう?」


「ああ、それが出来ればいいんですけど。王立研究所は、民間の者は気軽にお願いできないんですよ」

「え?」


「国の機関ですから、国が必要と認めたものしか検査はしませんよ」

「そうなんですか!?」


「実際成分検査は、手間もコストもかかりますしね。民間の者がお願いするなら、研究所が認めるだけの目的があることが必要になります。執拗に身元の確認もされるし、申請手続きが煩雑なんですよ」

「・・・・・・・」


「それに申請したとしても、門前払いされることがほとんどです」

「・・・・・・そうですか」


アルバート様は王族だから、王立研究所に成分検査を簡単に依頼出来たのだろうか。

いや、真面目なアルバート様は、きっと自分で正規の手続きをしただろう。

軽い気持ちで頼んでしまったが、アルバート様に無理をさせたかもしれないと思うと、途端に申し訳なくなる。


「・・・あの飴の成分検査を、王立研究所にお願いしていると言いましたよね?」

「ええ、そうです」


アルバート様は、王立研究所に成分検査を頼むことを請け負ってくれた。

お土産として馬車に積んでいた飴は持ち帰っていないが、非常食としてポケットに入れるよう渡してある。

陛下が来たため慌ただしく帰ってしまったが、アルバート様ならポケットの飴に気が付いてくれただろう。


「知人が頼んでくれると言っていたので、飴の成分検査はできると思います」


アルバート様のことは信頼している。

あの方がすると言ったら、必ずしてくれるだろう。


(・・・でも、もう私たちのことなんて、忘れてるかもしれないわよね)


きっと毎日、寝る時間も惜しむように働いているに決まっている。

うちにいた時だって、誰よりも働こうとしていた。

王族としての仕事の大変さは、サウスビー家の比じゃないだろう。


「そうですか。もし成分検査の結果が出たら、教えてください。効果が実証されれば、販売に弾みがつきますし、騎士団との継続契約も夢ではないでしょう」


ダニエル様は一瞬不審そうに私を見たが、すぐに、にこやかに笑いかけてきた。

自信ありげに言うダニエル様の様子から窺うに、王立研究所のお墨付きはすごい威光があるのだろう。


「では、このクリームも、その方に頼んでいただいて、王立研究所に成分検査をお願いできますか?結果がよければ、商品化も検討してみましょう」


「あ・・・、それは、ちょっと無理かもしれません」

「どうしてですか?お知り合いなのでしょう?」


「・・・・・・今は、もう会えないので」


そう言った瞬間、心の奥がぽっかりと空き、その中に鉛の塊を詰め込まれたような重苦しさが胸に広がった。


(そうね、もう会えないのよね・・・)


アルバート様と知り合ったこと自体が奇跡なのだ。

王都に来たからといって、気軽に会いに行ける相手でもない。

多分、一生会うこともないだろう。


思わず唇を噛んで黙り込んでしまった私を見て、何かを悟ったのか、ダニエル様はそれ以上お願いしてこなかった。


「気にしなくても大丈夫ですよ。この飴は王立研究所の検査結果がなくても、全て売って見せますからね」

「あ、ありがとうございます」


励ますように微笑んでくれるダニエル様の気遣いが心に沁みる。

大人のダニエル様は、私の心を読むように気遣って行動してくれる。


(・・・いや、大人だからじゃなくて、ダニエル様が人の心の動きに鋭敏なのよね)

今こそ、ダニエル様の本当の優しさの源が、ようやくわかった気がした。

自分の心の制御すら上手くできない自分を反省し、顔を上げると、ダニエル様が私を安心させるように柔らかく微笑んだ。


「さあ、飴の契約に移りましょうか。契約内容を確認をして、本契約に進みましょう」

「は、はい。ありがとうございます」


私の目の前に、静かに滑るように契約書が置かれた。

その時に目に入ったダニエル様の細くて長い指がこそが、ダニエル様の繊細な優しさを象徴しているように感じ、じっと見つめてしまう。


「昨日お話された使用料についての文言も追加しておきましから、確認してくださいね」

「ありがとうございます。今から確認しますね」


見落としがないように、しっかり目を通す。

契約書を見れば、確かにアイディアを教えた場合の使用料についても契約書に追記されていた。

アルバート様のアドバイスのおかげだと、心の中で感謝する。


「その内容でよければ、サインをお願いします」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・わかりました」


(これで、大丈夫よね)

ダニエル様を待たせているのはわかっていたが、もう後戻りはできないのだと思うと怖くて、何度も契約書を読み直す。

この事業の成功の有無で、うちの経営は大きく変わってしまうだ。


ほんの少しだけサインする手が震えてしまったが、何とか平静を装いながらダニエル様に契約書を渡せた。


ダニエル様は私のサインを確認して契約書の控えを渡しながら、驚くべきことを言ってきた。


「・・・それから、昨日の目潰しに使った粉についてですが、商品化したいと思うので、今度オリバー様に作り方を教えてくださるようお伝えください」


「あの目潰しを、ですか?」


驚いて、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

あんなもの家庭にあるもので、誰でも作れる。

材料は、唐辛子と塩と灰だけだ。


「ええ。フランシス隊長も興味を持ったようですし。騎士団で、今後購入が見込まれますので」


「・・・わかりました。でも、あんなもの、誰でも簡単に作れますよ?」

「アンナ様、あなた方姉弟が当たり前に使っている物が、王都では珍しいのですよ。これからも、商品化できそうだと思ったものは、何でもいいので教えてください」


(そんなものなのかしら・・・?)

うちにはお父様やオリバーの作った、よくわからない研究品が沢山ある。

ただ、お父様たちには申し訳ないが、ガラクタにしか見えない。


だがサウスビー家にとって、アスター商会と取引できることは、利でしかない。

家に戻ったら、何か商品化できそうな物がないか探してみる価値はあるだろう。


「今後とも、長いお付き合いをお願いしますよ」

「ええ。どうかよろしくお願いします」


ダニエル様がにこやかに握手を求めてきたので、その手をしっかりと握りしめた。

昨日は冷たく感じたダニエル様の手は、今日は熱でもあるのか、ほんのりと温かった。



お読みいただきありがとうございました。


指が長いと、関節の可動域が広いので、ピアノやギターなどの楽器を弾くのに向いていると言われています。その一方、末端の血流が少ないため、冷え性になりやすいとも言われていますが、実際のところはどうなのでしょうか?


明日は、朝7時「再会」を投稿する予定ですので、引き続きお楽しみいただけたら嬉しいです。

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