152 ダニエルの後悔
「・・・・・・何が正解だったのだろう」
ヘンリーを乗せた馬車を見送ると、思わず声が漏れた。
深いため息とともに、あの日の光景が甦る。
あの日、牢へ連れられるヘンリーの背中を見送るアンナ嬢の瞳には、何の感情もなかった。
だが、その背が見えなくなった瞬間、微かに歪む表情が漏れた。
どうやら、立場上平静を装っていたようだ。
声をかけ、慰めたかった。
だが、それは俺の立場ではない。
唇を噛み締めるアンナ嬢の前で、王弟は何の躊躇いもなく、そっと声をかけた。
『大丈夫か、アンナ?』
『え、ええ』
『・・・・・・・・・無理しなくていい。思うところがあるのだろう?』
『アルバート殿下!アンナ様!また甘いことを考えてていらっしゃるのでしょう!?情けは禁物ですよ!』
すぐに口を挟んだのは、ライアンだった。
一見「いい人」に見えるライアンは、敵と見定めた者には容赦しない。
しかし、そうでなければ王弟の右腕は務まらない。
この男が睨みがあるからこそ、騎士団の統制は保たれているのだ。
『ライアン』
『・・・・・・不敬罪は、親告罪ではありませんからね。手を回すことは無理ですよ』
『ライアン、手段はあるだろう』
『誰であろうと、法を曲げることはできません』
『ライアン様』
『・・・・・・・・・そんな顔をしないでくださいよ。貴女にそんな顔をさせたと知ったら、イザベラ様が黙ってはいませんからね』
困ったように言うライアンだが、その実、アンナ嬢に弱いことを俺は知っている。
誰にも頼れず、必死で俺のもとへ来た頃のアンナ嬢には、いまや頼れる味方が大勢いた。
『・・・・・・アンナ様が減刑嘆願書に署名すれば、まあ何とかなるとは思いますよ』
『いいえ。ヘンリー様については、特に構いません』
『えっ!?』
『そうなんですか!?』
本来なら、口を挟むべきではない。
そう自分に言い聞かせていたが、思わず声が出た。
その声は、ライアンも同じことを考えていたからこそ出たのだろう。
お人好しのアンナ嬢なら、絶対にヘンリーの許しを乞うと思っていた。
『ただ、もしわかっているなら、今のヘンリー様の家庭の状況を教えてもらえますか?』
『・・・・・・アンナ』
『その様子だと、ご存じなのでしょう?』
『・・・ああ、わかったよ。ライアン、アンナに説明してくれ』
『それでいいんですか、アルバート殿下?』
『ああ、構わない。アンナの望むとおりにしてくれ』
『・・・・・・ヘンリーの家庭は、崩壊寸前ですね。原因の一つは、借金です』
『私に支払った慰謝料のせい、ですよね』
『違いますよ。借金の原因は、アンナ様への慰謝料だけではありません。酒場で作った借金があるんですよ。返すだけならまだしも、給料が入るたびに使い、借金を膨らませています。自業自得です』
『・・・ルナ様は、どんな風に過ごされているのですか?』
『義姉のナンシー様から翻訳の仕事をもらって、家計を支えているようです』
『お子様は?』
『今5歳ですね。子育ては、友人の助けを借りながら、何とかやってる感じですかね。近所の人の話だと、しょっちゅう怒鳴り声が聞こえるそうですよ。夫婦仲も破綻しているようですし、あまりいい生育環境ではないでしょうね。ヘンリーは仕事も首になったし、教育どころか、日々の生活にも困る状態になるでしょうね』
『・・・・・・ヘンリー様が解雇された原因は、私のせいでしょうか?』
『そんなわけないですよ!アンナ様のせいではありません。本人の勤務態度が悪すぎて、首になっただけです。アンナ様との婚約を破棄する前から悪かったんですよ。証拠もありますしね』
(・・・・・・・その証拠は、多分俺が置いていったものだな)
ヘンリーに仕事を押し付けられる後輩たちのために、役立てばと思って作ったものだった。
当時は善意のつもりだったが、ヘンリーの家庭を壊してしまったのかと思うと、胸が重くなった。
『・・・・・・少しだけ、手助けをしてもいいでしょうか?』
『アンナ様!』
『ヘンリー様のためではありません。お子様のためです。だって、親のことは、子どもには関係ないことでしょう?』
(・・・・・・・・・甘い、よなぁ)
あれだけヘンリーにいいように扱われ、ルナ嬢にも酷いことを言われた。
それで本当にいいのだろうか。
この人の良さを見越して、ヘンリーは今日来たというのに。
それに、ヘンリーが仕事を失ったのは、俺の証拠が後押ししたかもしれないが、結局は自分が撒いた種だ。
でも、そう言ってくれるアンナ嬢でよかったと、ほっとする自分がいた。
子どもには罪がない。
みすみす不幸になる状況がわかっていて、放っておくことはできなかった。
知らなければ無視できたかもしれないが、知ってしまった以上、手を差し伸べたいと思うのが人情だ。
多分、王弟もライアンも立場上言えないだけで、胸の内は同じだったのだろう。
アンナ嬢を通じて関わるうちに、彼らが立場上厳しく振る舞うだけで、心根は優しい人間だということは分かっていた。
話し合いの末、母親であるルナ嬢の意見を尊重することにした。
夫婦仲もすでに破綻していたし、彼女こそが子どもにとって最善の道を選ぶはずだと信じたからだ。
(・・・・・・・まさか、一人でサイレニアへ行くとは思わなかった)
フレディの妻がルナ嬢の友人だったことから、ルナ嬢の意思を確認するために家へ向かわせた。
公平であるべき王族が、個人的に手を差し伸べることなどあってはならない。
心配した騎士団の上司が法律家を手配したことにし、ルナ嬢に今後の相談をするようにさせた。
後ろに王族の存在がいることを隠すため、フレディに話をしたのは、他でもない俺だった。
母子二人で、静かに暮らすことを願っていると思っていた。
だが、ルナ嬢の決断は、「ハリソンを義兄に預け、サイレニアへ行く」だった。
身内から犯罪者を出せば、家族の人生に影を落とす。
そう考えて減刑嘆願書に署名をしたことが、いけなかったのだろうか。
ルナ嬢は、釈放されるヘンリーを恐れたのか、サイレニアへ一人で渡った。
(・・・俺たちが最善だと思ったことが、本人の希望とは限らないからな)
母子が離れ離れになるという選択など予測していなかったアンナ嬢は、その話を聞いて呆然としたらしい。
多分、子どもから母親を引き離すようなことをしてしまったと思ったのだろう。
だが、アンナ嬢のせいではない。
その決断をしたのは、他でもないルナ嬢だ。
現実的に考えれば、子どもを抱えながらの生活は厳しいと判断したに違いない。
親子共倒れになるくらいなら、義兄に預けるという考えも、あながち間違いではないのだろう。
子どもの命を守ることを考えれば、きっと、それが最善の道だったのだ。
それでも、本当にそれで良かったのかと思う自分もいた。
(正解が、わかるといいのにな)
可哀想だからという理由で、王族が個人的に金銭的支援をすることはできない。
そう線引きしつつも、母親と離れたハリソンのことが、気になって仕方がなかったのだろう。
アンナ嬢が世間話を装いながら、ボビーにハリソンの様子を確認していたのをたびたび目にした。
(・・・・・・・・・ハリソンは、いい青年になっていたな)
特待生の面接に来たハリソンを見たアンナ嬢の喜びようは、まさに凄まじかった。
本人の前では冷静な面接官を装っていたのに、扉が閉まるやいなや、喜びを爆発させ、俺に抱きついてきた。
アンナ嬢に落ち着くよう諭しつつも、俺自身も嬉しさに胸が熱くなり、涙が滲んでしまったのは内緒だ。
アンナ嬢が創設した学校で学び、自らの努力で夢を勝ち取ったハリソン。
それは、経済的な理由で夢を諦めてきた子どもたちを救いたいと願ったアンナ嬢の希望そのものであり、何より、これまでの努力がついに実を結んだ瞬間だった。
そして、あの時の俺たちの選択は、やはり正解だったと告げられたような気がした。
(・・・・・・でも、結局は俺の自己満足だったのかもしれない)
ヘンリーは、きっと不健康な生活を送っていたのだろう。
張りのない肌、たるんだ体。
騎士として働いていた頃のヘンリーの面影は、もはやどこにもなかった。
王宮で最後に会った時も随分と人相が変わっていたが、今日はもう完全に別人だった。
もし、あの時、俺たちがルナ嬢に手を差し伸べなければ、ヘンリーの姿は、今とは違っていたかもしれない。
ハリソンも、親子三人で暮らす道を望んでいたかもしれない。
子どもの成長を間近で見られなかったルナ嬢は、今、どんな思いを胸に抱えているのだろう。
(・・・・・安易に手を差し伸べるものではないな)
良かれと思って手を出したつもりなのに、かえって傷つけてしまっているのかもしれない。
人の心も、未来も、目に映るならどんなにいいだろう。
そうすれば、傷つく者はいなくなるのに。
後悔だけが、胸に押し寄せてくる。
「カッコー、カッコー」
(・・・・・・カッコウが鳴いているな)
周囲を見渡したが、声だけが響き、カッコウの姿はどこにもなかった。
カッコウに托卵の習性があるなんて、誓って知らなかった。
あの日、高価な置き時計を渡したのは、あの場を和ませるため。
そして、自分の罪悪感を少しでも軽くするためだった。
(・・・・・・・何であんなことを言ったんだろうな)
最初は、ルナ嬢が落ち込む姿に同情し、親切心から別の店を勧めた。
『まあ、それもそうか。お前、商売人だもんな』
だが、ヘンリーの、あの悪気ない侮蔑に、それまで必死に保っていた理性の糸が切れた。
あの瞬間、俺を見下すヘンリーや、アンナ嬢に酷い言葉を投げつける二人に、一矢報いたいという気持ちが込み上げたのだと思う。
『ルナ様が、今身につけていらっしゃるブローチと同じシリーズを、モイン商会が取り扱っていますよ』
自分でも後味の悪さを自覚するほど、強烈な嫌味だった。
これでヘンリーが怒って殴りかかってくれば、こちらも殴る口実になる。
そんな気持ちで、つい口に出してしまった。
あの模造品のブローチをヘンリーに渡したのは、俺だ。
ルナ嬢は、本物と信じ、疑うことすらなかったのだろう。
そうでなければ、偽物をつけたまま、うちに堂々と足を踏み入れることなどできなかったはずだ。
ヘンリーだけに通じる嫌味として言ったのだが、本人は模造品だということを忘れているのか、まったく気に留めなかった。
それどころか、親戚の商会だからと乗り気になった。
それならと、ルナ嬢にもモイン商会を勧めた。
実の弟に模造品を売りつけるような真似はしないだろうが、モイン商会の品は品質が悪い。
品質の悪い婚約指輪を掴まされるヘンリーと、それを疑いもせず大事にするルナ嬢。
彼らの気づかないところで仕返しをし、溜飲を下げようとした自分がいた。
(・・・・・・本当に、俺は「コウモリ」だよな)
アンナ嬢への恋心を自覚する前の俺は、誰にでもいい顔をしようとしていた。
「上手く場を収める」と言えば聞こえはいいが、実際は自分が泥を被りたくないだけだ。
正面からやり返す勇気もなく、その逃げが、あんな姑息な真似を生んだ。
そして、そんな真似をしておきながら、相手が困っている姿を見ると、つい手を差し伸べてしまう自分がいる。
花壇に咲き誇るラナンキュラスに目を遣る。
あの時、ラナンキュラスの話を持ち出したのは、あまりにもルナ嬢が沈んでいたからだ。
ヘンリーの店での態度に加え、俺への疑念や恥ずかしさも、重く心にのしかかったに違いない。
最初に挨拶を交わした時の様子からしても、彼女がそのことを気にしていたのは確かだった。
誠実さに欠ける店を勧めた罪悪感も、確かにあった。
だからラナンキュラスの花言葉である「秘密主義」にかけて、「俺に声をかけていたことは、誰にも言わない」と伝えたつもりだった。
多分、意味は伝わったのだろう。
ルナ嬢は、感謝を伝えるように、俺に微笑んだ。
だが、その信頼を裏切ったと思うと、胸がぎゅっと重くなった。
ルナ嬢との関係は他言しないが、俺は信用ならない店を勧めてしまったのだ。
勝手な理由でアンナ嬢を捨てたヘンリーが悪い。
俺に分からないよう含みを持たせて、アンナ嬢を攻撃してくるルナ嬢だって悪い。
必死に笑顔を保ちながら耐えているアンナ嬢のために、俺くらいはやり返してもいいと思った。
いや、やり返してやらなければ、気が済まなかった。
それでも、胸の奥から湧き上がる罪悪感に耐えきれず、せめてもの贖罪として、あの時計を贈ったのだ。
誰にでもいい顔をしてしまう情けなさ。
信頼を裏切りながら、それでもいい気味だと思う心の浅ましさ。
そして、胸を締めつける罪悪感。
アンナ嬢のためだけに動ければ、それでよかったはずなのに、余計なことばかり考えて、結局すべてが中途半端になった。
複雑な感情に飲み込まれ、自分でも制御できないほど、あの日の自分は最低だった。
(・・・・・・あの時計と花がヘンリーを苦しめ、ハリソンとの親子関係を疑う元になるとはな)
善意だったのかと問われれば、すべてが善意から出た行動ではない。
だが、少なくとも悪意ではなかった。
まさか、こんなことになるとは思いもしなかった。
『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉があるが、まさしく俺は、ヘンリーを地獄へと案内してしまったのではないだろうか。
ハリソンは、確かにヘンリーに似ていない。
だが、あの子の耳の形は、ヘンリーにそっくりだ。
間違いなく親子なのだろう。
それでも、それを証明する手段がない限り、ヘンリーは一生、苦しみ続ける。
「俺は、どうすればいいんだろうな」
つい、暗い声が漏れた。
思いがけず、俺はヘンリーの人生に大きな影響を与えてしまったのかもしれない。
正直に伝えたところで、ヘンリーの心は納得しないだろう。
「ゴーン・・・ゴーン・・・、ゴーン・・・」
(・・・・・・学院の鐘の音か)
入学式の開始10分前を告げる学院の鐘の音が響いた。
ここで立ち止まっているわけにはいかない。
まずは学院へ向かい、ボビーにヘンリーのことを伝えなければ。
そう思うが、足を進めることはできなかった。
大したことがなければいいが、あまり具合はよさそうではなかった。
ホランド伯爵から縁を切られ、ルナ嬢とも離婚したヘンリーが頼れるのは、ボビーだけだろう。
次兄のヒューゴは5年ほど前に出所しているが、遠く離れた地にいると聞く。
ボビーはヘンリーの兄として、ハリソンの義父として、ヘンリーの今後を考えてくれるはずだ。
ただ、人格者と言われるボビーだって人の子だ。
ヘンリーのことだから、ボビーにお礼ひとつ言ってこなかっただろう。
自分の子同様にハリソンを育て、その上でヘンリーの面倒まで見ろと言われたら、さすがに拒否するかもしれない。
ボビーにだって、自分の家庭があるのだ。
身内に見捨てられ、頼れる友もいないヘンリー。
その時、ヘンリーの胸には、どれほどの寂しさと絶望が押し寄せるのだろう。
(・・・・・・・・・いや、こんなことを考えている時間はないな)
このままでは、入学式が始まってしまう。
理事の俺が姿を見せないせいで、学院の職員は慌てているだろう。
迷惑はかけられない。
服は、ヘンリーを抱きかかえたときの泥で汚れてしまった。
この有り様では入学式に出席できないが、欠席の連絡をしなければならない。
水たまりを避け、重い足を進めようとしたその瞬間、跳ねるような声が耳に飛び込んできた。
「ダニエル様ったら、こんなとこにいらっしゃったんですね!」
「・・・・・・えっ?」
息を弾ませ駆け寄ってきたのは、後ろにフランシスを従えたアンナ嬢だった。
その姿を目にした瞬間、心臓が驚くほど跳ねた。
なぜ、彼女は俺が暗闇に落ちた瞬間に、こんなにも絶妙なタイミングで現れるのだろう。
「早くしないと、入学式が始まってしまいますよ!」
「・・・・・・・・・どうして、ここに?」
「ダニエル様に何かあったのではないかと思って、心配で捜してたんですよ」
「・・・・・・入学式までには、まだ時間はありますよ」
「そうですけど。でも、もう10分前ですよ」
「ダニエルは、いつも余裕を持って来るのが普通だからな」
まるで、俺の行動を把握しているかのような発言に、思わず苦笑いが漏れた。
それにしても、アンナ嬢は、いつから俺を探していたのだろう。
絶対、俺より先に学院に着いていたはずだ。
心配性なのか、慎重なのかは知らない。
だが、「ここぞ」という時のアンナ嬢は、いつも早く現れる。
俺との契約に来た日も、随分と早く現れ、俺を驚かせた。
その時、まるで蝶のように美しく変身したアンナ嬢に、俺は息を呑んだ。
それ以降も、笑顔の奥に秘められた優しさや強さ、何より人を思いやる心の美しさに驚かされ、今なお心を奪われ続けている。
とっくに「嬢」と呼ぶ年齢でなくなっても、俺にとっては、永遠に「アンナ嬢」なのだ。
たとえ関係が「友人」という形に落ち着いても、そこだけは変わらない。
そんな彼女は、やおらハンカチを取り出すと、俺の服についた汚れをはたき落とした。
自分のハンカチが汚れるのも気にせず、無心になって汚れを落とそうとしている。
「えっ、あ、あの、アンナ様!?」
「ダニエル様ったら、服が泥で汚れていますよ。転んだのですか?」
「え、あ、いや・・・」
「泥汚れは、まず乾かすことが大事なんですよ。でも、入学式もありますし、ささっと大きな汚れだけでも落としてみますね」
「あ、やめ・・・」
「ほら、顔も汚れてるぞ!」
有無を言わさず、フランシスが俺の顔をごしごしと拭く。
ヘンリーの手についていた泥は、服にはついたが、顔についていたはずはない。
「フランシス、やめ・・・」
「後で茶を飲もう。話はそれからだ」
大きな体に似合わず、小さな声で囁かれた。
その声にハッとしてフランシスを見上げた瞬間、アンナ嬢の張りのある声が意識を現実へと引き戻した。
「さあ、学院へ戻りましょう!」
「そうだな。ダニエル、早く行かないと入学式が始まってしまうぞ!」
「いや、そう言っても・・・」
「気にしなくても大丈夫ですよ!汚れは落ちました!」
「えっ、そんなわけないですよね?」
「このくらいなら、全然大丈夫です!遠目から見たら、汚れなんてわかりませんよ!」
力強く言い切るアンナ嬢に、思わず笑いがこみ上げた。
確かに大きな汚れは落ちているが、小さな泥は、まだあちこちに残っている。
長年の付き合いで、彼女が実は大雑把なことには気づいていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「アンナ様、少し大雑把過ぎませんか?」
「そうですか?私は気になりませんけど?」
「私は気にします」
「ダニエル、細かいことは気にするな!ほら、行こう!何とかなる!」
「そうですよ、ほら、行きますよ!」
アンナ嬢に左腕を引かれ、右腕はフランシスに取られた。
抵抗する間もなく、二人に引きずられるように足を進める。
「心配しなくても大丈夫ですよ。『三人寄れば文殊の知恵』と言いますしね。きっと、私たちで何とかできます!」
「そうだ!俺に任せろ!」
(・・・・・・・・・この「泥汚れ」のことを言っているのか?)
もしかして、俺の顔を見ただけで、瞬時に問題を抱えていると判断したのだろうか。
フランシスを見上げると、下手くそなウィンクを寄こしてくる。
そしてアンナ嬢は、俺の目を見つめながら、しっかりと頷いた。
言葉はなくとも、二人にはすべて伝わっているらしい。
(・・・・・・勘弁してくれ)
この二人、絶対に俺から離れるつもりがない。
入学式が終わっても、俺の心が軽くなるまで、理由をつけて側にいるに違いない。
どう返していいかわからず、つい関係のないことを口にしてしまった。
「・・・その諺って、凡人でも、三人集まって知恵を出し合えば優れた知恵が出るという意味ですよね。自分で『凡人』なんて言っていいのですか?」
「ええ、だって私たちは『凡人』ですからね!」
「そうだ!『凡人』のどこが悪いっ!?」
「『凡人』でも、何とかなりますよ!」
「俺たちで足りなければ、いくらでも友人は呼んでやるぞ!」
(こんな『凡人』なんて、いるわけないだろう・・・)
相変わらず、どこかズレている。
力強く自分たちを凡人だと力説する二人に、俺は呆れと苦笑いが入り混じった笑みをこぼすしかなかった。
教育に力を注ぎ、様々な事業を支援して国の経済を押し上げていく王弟の妃、アンナ嬢。
諸外国から恐れられるほどの強力な騎士団を築き上げ、今や第一騎士団長となったフランシス。
こんな『凡人』、そうそういるものではない。
だが、立場が変わり、年月を重ねても、この二人の本質だけはまったく変わらない。
「時間がありません!走りますよ!!ダニエル様!!!」
「・・・わかりました。でも、その前に手を放してください。学生に変な目で見られますよ」
「いいではありませんか!仲良く、三人で門までゴールしましょう!」
「俺たちは、親友だからな!」
(・・・・・・・・・ああ、もう敵わないなぁ)
学生から見れば、立場のあるいい大人が何をしているかと思うことだろう。
本人たちだって、それくらいはわかっているに違いない。
でも、人目よりも、何があっても俺の側にいると伝えたかったに違いない。
明らかにやり方は間違っているけれど、それでも、二人の俺を思う気持ちが心に沁みた。
きっとこの二人なら、俺の過去の悪行を聞いても、離れていきはしないだろう。
眉を顰めるかもしれないし、呆れるかもしれない。
それでも、俺を受け止め、側にいてくれるはずだ。
ヘンリーのことを相談すれば、きっと親身になって、一緒に考えてくれるに違いない。
何が正解かはわからないが、少なくとも、正しかったと思えるように、力を尽くすだろう。
(・・・・・・・・・本当に、いい友人を持ったな)
過去を振り返れば、後悔はいくらでもある。
それでも、友人に恵まれたこの人生を後悔することはない。
あの日、滲む目でフランシスと見上げた青空。
それはいつの間にか広がりを見せ、年月とともに深みを帯びていった。
傷ついて眠れない夜も、救われた言葉も、すべてがこの色に溶けている。
この空は、きっとこれからも続いていく。
関わったすべての人の思いとともに、この「青」は、さらに深みを増していくだろう。
両腕を掴まれたまま、アンナ嬢とフランシスに負けじと走り出した。
お読みいただき、ありがとうございました。
ブクマ、評価をしていただき、ありがとうございました。
次回の投稿「ハリスの決意」で完結です。
よかったら、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。




