14 図鑑とアリ
「動物の扱いはさすがねって、あら、ベスったらどうしたの?」
ベスが下を向いてしゃがみこんでいる。
「ううん、アンナ、この黒いの、なぁに?」
見れば落としたリンゴにアリが集っていた。
「え、あ、ああ、アリよ」
貴族令嬢は、アリを見たこともないのだろか。
(でも外で遊ぶ機会が少なければ、見ないかもしれないわね)
「ああ、これがアリなのね」
興味深いのか、ベスがアリに顔を近づけて見ている。
「見たことないの?」
「ううん。図鑑で見たことあるけど、こんなに小さいって知らなかった」
「図鑑?」
「え~っと、絵が描いてあって、その横に詳しく説明が書いてあるご本。調べたら、大抵のことはわかるの」
(そんな本があるのね・・・)
「アリの顔とか足も詳しく載ってたわ」
(それは見たくないけど)
きっと高価な本に違いない。
でもオリバーなら、喉から手が出るほど欲しい本だろう。
王都の本屋に行けば、売っているのだろうか。
売っているとしたら、オリバーに是非買ってあげたい。
今なら慰謝料だってある。
慰謝料は領内の整備のために使う予定だが、少しぐらいオリバーのために使っても罰は当たらないだろう。
(お金の話を持ち出すのは気が引けるけど、いくらぐらいするか聞いたらダメかしら・・・・?)
「私、このくらいだと思ってたから、すごく怖い虫だと思っていたの」
ベスが近くにある握り拳ほどある石を指さす。
「えっ、それはちょっと・・・。そんな大きさだったら私も嫌だわ」
「でしょう?だから読んだときは、お部屋の中にアリが入ってきたらどうしようって怖かったの。私、安心しちゃった。お母様たちは知っているかしら?教えてあげないとね」
うふふ、とベスが笑う。
(多分、お母様は知ってると思うけど)
でも、ベスの話す楽しみを奪わないように黙っておいた。
「それにしても、色々なことがわかる図鑑ってすごいわね」
「ええ、そうなのよ。お父様がお誕生日にくれたの。貴重な本だから大事にしなさいって」
(高位貴族が貴重な本って言うぐらいならやっぱり高いわよね・・・。私じゃ買えないかしら)
さっきまで楽しそうに話していたのに、急にベスがため息をついた。
小枝を拾って、面白くなさそうに土を弄くりだす。
「でも、破れちゃったの」
「え、貴重な本なのに?」
「リチャードが破ったの。私がちょっとお庭に行ってる間に」
「あら、それは・・・」
「私、すっごく怒ったの。すっごくすっごく大事にしていたから。なのにマイラは、リチャードは赤ちゃんだから怒るのはおかしいって言うし。お母様は、大事なものをリチャードの手に届く所に置いてた私が悪いって言うし。ミリーは自分がちゃんと片付けていなかったからって泣いちゃうし。お父様は、また買うからそんなに騒ぐなって怒るし」
アリを見つめながら、ベスは悲しそうに唇を噛む。
そっと肩に手をのせる。
ベスの気持ちがよくわかる。
ただ、ベスの両親の気持ちも、多分侍女であろう人たちの気持ちもわかる。
「私、リチャードにもすごく怒っちゃった。まだ赤ちゃんなのに」
「そう」
「でも、怒っても、本は戻らないの」
「悲しい思いをしたわね」
「うん」
こんな時、人生経験の浅い私には、ベスが納得する言葉をどうかけてあげていいかわからない。
善悪の判断ができない赤ん坊に罪はない。
赤ん坊から目を離したのが悪い。
片付けていなかったから悪い。
喧嘩するぐらいなら買い直せばいい。
(・・・・・・これは我が家にはちょっと無理だけど)
どの意見もわかる、ような気がする。
でもベスが大事にしていた本は元に戻らない。
たとえ同じ本を買ったからといって、それはベスの大事にしていた本ではないのだ。
思い入れがある本なら尚更だ。
大人にとっては大したことない物でも、子どもにとっては宝物ということはよくある。
(こういうのは、理屈じゃないのよね・・・)
だからと言って、赤ん坊に怒りをぶつけることもできやしない。
何も言えずにベスの手を握るが、ベスからは握り返されることはなかった。
ベスは小枝を持ったまま、ぼんやりした目でリンゴを運ぶアリをただ見ていた。
(よっぽど辛かったのかしら・・・)
「お~い、ベス、アンナ。待たせたな」
セオドアが坂の下から大きな声を出して、手を振っている。横にはアルバート様もいる。
「セオドア、アルバート様も!」
「えっ、おじ様?」
ベスも立ち上がり、私のスカートをきゅっと握る。
「・・・アンナ、図鑑のことはおじ様には言わないで」
「え、い、いいわよ」
「約束ね」
ベスが小指を差し出してくる。
「ええ、約束ね」
二人で小指をそっと絡める。
坂道をセオドアが駆けあがってくる。
「悪かったな、結構待っただろ?」
涙目のベスをそっとスカートの影に隠す。
「いいえ、そんなこともないわ。二人でアリを見ていたし」
「アリ?」
セオドアが私の足元を覗き込む。
「ああ、本当だ。結構集まってきてるな」
「すごいでしょ。リンゴがほとんどアリに覆われて真っ黒よ」
アルバート様も覗き込む。
「ああ、クロヤマアリか」
「クロヤマアリ?」
「このアリの名前だ。黒くて山林でよく見るからこの名がついたんだ。人間の食べ物でも蜜でも昆虫でも、何でも食べるよ」
「アルバート様、アリに詳しいんですね」
「いや、昔、子どもの頃に図鑑で読んだ」
図鑑の話題が出て、思わずドキッとする。
ベスがきゅっとまた私のスカートを握って後ろに隠れる。
いつも会話に加わるベスが大人しいので、アルバート様が怪訝な目をベスに向ける。
「アリと言えばさ、昔、旦那様が家に持ち込んで大騒動になったよなぁ?」
セオドアがおかしそうに笑いながら言う。
(ナイス!セオドア!)
アルバート様がベスに注意を向けないよう、私も身体を前に出してアルバート様に近づく。
「そんなこともあったわね。ねぇ、アルバート様、聞いてくださいよ。父が昔、書斎でこっそりアリを飼ってたら、何とそのアリたちが逃げちゃったんですよ」
「アリを?書斎で飼う?」
「ああ、研究が趣味だったので」
そんなこと考えもしなかったのだろう。アルバート様もびっくりだ。
「で、逃げたアリが台所と書斎の間に行列を作っていて。それを母が発見して、もう半狂乱になって」
「それは、母上は驚いたことだろう」
想像するだけで、嫌だろう。
自分が口にするかもしれないであろう食品にアリが集っているのだ。
「そうなんですよ。母は虫が苦手だったから余計に」
思い出すと笑いがこみ上げてくる。
「なのに、旦那様が、なぁ?」
セオドアも笑いがこみ上げているのか、口元を手で押さえている。
「みんな慌てているのに、冷静に奥様に『君はアリは砂糖と肉、どっちが好きだと思う?』なんて言うものだから、奥様が怒り狂って。しかもオリバーが『アリの種類によって好みが違うと思うから、全種類集めて実験すべきだ』とか言い出して」
「もうカオスよね」
スカートの影で、ベスが小さくふふっと笑う。
(良かった、少し気持ちが落ち着いたかしら)
「お母様が『アリなんか家に入れるものじゃない』って言ったら『じゃあ、他の生き物だったらいいんだね』って、これまたオリバーが火に油を注いでしまって」
「あいつ、ホント空気読めないよな」
セオドアも目に涙を溜めて笑いを堪えてる。
「奥様が鬼の形相で『これ以上口のついたものは家に絶対入れるな!』って。まあ、すごい顔だったな、あの上品で美人な奥様が。普段、あんなに、上品だから、余計に・・・!!!」
二人で堪り兼ねて腹を抱えて笑いだすと、くすくす笑いながらベスがスカートの影から出てきた。
「大人なのに。アンナのお父様とオリバーって面白いのね」
「何言ってるの、ベス。大人って、ただ齢を重ねた子どもよ」
大人だと思っていた17歳になっても、私の中身は子どもと変わっていない。
多分、セオドアもオリバーもだ。
「え~、そうなの?」
ベスがアルバート様を見上げる。
「・・・まあ、そうだな」
「おじ様までそんなこと言うの?」
「まあな。で、アリの研究はどうなったのだ?」
(アルバート様もアリに興味あったのね!?)
「アリの好物の研究は、母から阻止されたので断念したみたいです。ただ、観察を続けたオリバーが言うには、働きアリの2割は働いていないって言っていましたよ」
「はぁ?」
セオドアが呆れている。
「さぼっているそうです」
「なんだ、それは・・・」
「で、働いてるアリが働けなくなると働き始めるそうです」
「・・・つまり非常時に備えている、ということか」
「オリバーはそう考えたみたいですけど」
ちなみに、さぼりアリが働くようになって全員で働くようになるかというと、そうではないらしい。
常に2割が働かない。
セオドアがわかったと手を叩く。
「だからオリバーの奴、いっつも手抜きするのか!?」
「あの子ったら手抜きしてるの?」
「手抜きじゃないかもしれないけど、いつも『余力が必要だから』って全力出さないじゃん」
「あ、それもそうね」
意外なところで、オリバーの行動原理がわかってしまった。
「もう、アンナたちの家族、楽しすぎ」
ベスがころころと笑っている。
ベスの笑い声が呼び水となり、皆でひとしきり笑ったところで、セオドアが背を向けてしゃがみこんだ。
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寓話「アリとキリギリス」で働き者として描かれるアリですが、実際は2割程度は働いていません。
ですが、働かないアリがいる方が、巣全体は長く存続することができるそうです。
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