黄昏時のジャバウォック
「……なぁ、ちょっと聞いて欲しいんだけどさ」
それは中学時代の出来事だった。
昼休み中、三階にある教室で自分を含めた男友達、計五人で固って昼食の弁当に手を付けていると、その内の一人が不意にこう語り始めた。――――彼曰く、昨日の木曜日に非通知の電話が鳴ったのだと。
「夕方の6時を過ぎたぐらいに掛かってきたんだ」
「別に……非通知電話ぐらい珍しくないだろ」
「いや、でもさ。先週と先々週の木曜も非通知の電話があったんだって! それも同じぐらいの時間帯に!」
非通知の電話が掛かってきたと言う少年、■■君とはそれなりに付き合いが長い。彼は少しばかり神経質な面があった。それもあり、こういった出来事には人一倍敏感だったのかもしれない。
■■君の話を色々と掘り下げていったが、結局の所、非通知の電話は合計二回である。何らかの規則性があると判断するのは難しい。この時は偶然の範疇であるとしか判断できなかった。
ただ、それを踏まえた上で別の友人が『来週の木曜日に電話が掛かってくるのか全員で確かめよう』と言う。自分を含め、■■君を除いた四人は面白半分に同意。■■君も少し考えた後に……彼は首を縦に振る。そうして、この場の全員が来週の木曜日への約束を交わす。
斯くして時が過ぎ、件の非通知の電話が掛かると言う木曜日となった。自分を含めた何時もの四人は公園に集合し、時刻は18時00丁度。園内の屑入れに空になった菓子袋が積み重なる。刺激に飢えたこの年頃の少年達の歪な期待感が膨れる中、突如として■■君の携帯が震えた。
■■月■■日。木曜日18時00分。
黒い画面に大きく表示された『非通知』という文字に無機質な着信音。それを見て……聞いて、体を強張らせる■■君の傍へ皆が急いで集まる。
彼が語った通りに不在着信が掛かった。聞き慣れている筈の着信音は何処か不気味な音色。また、周囲に自分達を除いて人はおらず、この着信音だけが夏場の筈なのに冷え込んだ空気を揺らしていた。
「なぁ……出てみようぜ」
その着信音が……危険な好奇心を駆り立ててしまった。
一人の友人が、■■君を除く自分達の奥底に眠る心情を代表して口にする。
「いや、ちょっと待って……」
「言い出しっぺの俺が出る、貸してくれ」
何処か戸惑いを帯びた全員の視線が交差する。その後、おずおずと差し出される■■君の左手。その手の中で未だに震える携帯電話。それを受け取った友人の一人は作り笑いをして、応答のアイコンをタップする。
『――――』
携帯電話から聞こえてきたのはズザザと鳴る砂嵐の様な音、それだけ。特に何か語ることは無かった。
「……もしもし?」
声を掛けてみる――相も変わらず不快な雑音のみ。
どうしたものかと、応答する少年が携帯から目線を離したその時、何か意味を成す音が聞こえてくる。
『――――1、――2』
「……は?」
『8、――9、――3、――1、――0』
機械音声を思わせる無機質な声。それが数字の羅列を読み上げている。電話相手の疑問符にも答えずに。そして数字の0を読み上げたのを最後に電話はぶつりと切れた。その後、数十分は待ってみたが特に音沙汰がないので、解散となる。
――――その日の翌日からだった。■■君の様子が妙になったのは。
出席番号が一番早い彼は現在の席順が出席番号順であることもあり、窓際に席を持っていた。そんな彼は授業中、時折窓の外を見る様になった。普段真面目で素行不良の欠片も無い事もあり、その様子が一層異様に見える。
「……誰かに見られている気がする」
話を聞くと、どこからか視線を感じるらしい。ただそれは学校の外からであり、クラスメイトや学校の生徒でもなさそうとの事。確かに、彼の二つ後ろの席の自分も■■君が窓の外を見たタイミングで、同様に外に目を向けたみたのだが……見えたのは誰も居ない静かなグラウンドだけ。学校関係者ではなさそうという理由も納得はできる。であるならば、彼が持ち前の神経質を発揮しているだけではないだろうか。
話を聞いた友人達も同意見らしく、彼に気にし過ぎない様言い聞かせたり、半分からかったりして過ごしているうちに次の木曜日となった。
■■君を除く、自分達4人は『また例の非通知が掛かって来るのではないか』そんな歪で危険な期待感を胸に抱き、夕陽が差す静かな公園で集まって、その時を待っていた。
「――かかってこないじゃん」
だが、暫く待っても着信音は一向に鳴らない。既に時間は18時15分を過ぎており、前回から15分以上の時間が経過している。残り僅かになった飲料水を流し込んで、皆の顔を見てみると幾人は既に変える雰囲気を醸し出していた。一方、■■君はと言うと……彼は俯いたまま沈黙を保っている。
その様子を不気味に思った一人が彼に声を掛けると、要領を得ない返事が来た。
「……やっぱり、動いてる」
そう言うと、徐に顔を上げた■■君は夕陽が沈む方角を見つめ始める。無論、自分を含めて周囲の友人達はその意味を把握しきれない為、詳細を問い質そうとしたその時……件の非通知着信が空気を震わせた。自分達は互いに目配せした後、着信に応答したがらない■■君の代わりに先週も応答した友人の一人が彼の携帯を受けとった。
『――――1、――2、――8、――9、――3、――1、――0』
電話越しに聞こえてくるのは、砂嵐の中で数字を読み上げる無機質な声。相変わらず意味など分からない。だが、ここ最近の■■君の様子を考えると、先週以上に薄気味悪く感じられた。応答してくれた彼もそう感じたのか電話を切ろうとする……が。
『――――■■、■■』
聞き捨てならない単語が聞こえてきた。それの名はこの携帯の持ち主の名である。当の本人は名を呼ばれてその体を大きく震わせていた。
『青い――空。途切れてね、何度もナンドもぐるぐる回って、回って、回って、回って、裏切られた――――メッタメタに引き裂かれた』
「……は……あ?」
『されど、許されず。■■、許されず。希望無き、子。――――無垢なまま。門をくぐれず、地に伏したり――――赤き、コキュートス』
「……」
『だから■■、迎えにいき――――ます。みんな、■■になります』
無機質にそう語った後、通話は途切れた。ただ、最後の『迎えに行く』という言葉が脳裏に不吉な予感を過らせ、不気味な静寂が一層皆を恐怖に駆り立てる。そして本能が警鐘を鳴らしていた。これ以上、今回の出来事に踏み込んではならないのだと。
「なぁ……これ、警察に言った方が良いって」
応答した友人が■■君にそう勧めて携帯を返そうとする。対する当人は、彼と自分の携帯に目もくれず、只々先程と同じ方向を見て震わせ、左手の爪を嚙み締めていた。
「ああ、ダメだ。……ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだッ! 追い付かれるッ! 追い付かれるッ!」
「お、おい……」
■■君は突如、声を荒げたかと思えば今度は走り始めた。自分を含めて皆が彼を引き留めようとしたのだが、聞く耳を持たない。急いでその後を追うと……彼は自宅に戻ったようだった。
一人がインターフォンを鳴らすと、■■君の母親が出て来る。息子のただならぬ様相に焦燥している様だ。そんな彼女に状況を説明する。非通知電話に出てからというもの彼の様子が可笑しくなり、どうやら誰かにつけ回されているらしいのだと。
一通りの説明を受けた■■君の母親は怪訝そうでもあり、納得したような表情を浮かべた後、自分達に帰宅するよう促した。直ぐに、警察にも相談するとの事。こうして自分も一人、自宅にへと足を運んだのだった。
道中、自宅まで最短距離で行く為に先程まで居た公園に立ち寄った。園内に立つ時計が示すは18時59分。その中を歩いていると……砂場の方に妙な跡が見えた。
「……?」
何か不自然だった。
近づくにつれて、それは明瞭になる。
人の足跡だった。それも素足の。ただ、大きさが尋常ではなく50cmはありそうなサイズだ。それが砂場の中心を最後に途切れている。
また、足跡を辿るに……何処かへ向かっているような気がしてくる。方角は丁度……■■君の家の方角だろうか。ああ、今丁度、足跡が新しく増えて――――。
「――――ッ!」
それに気が付いた途端、全速力でその場から離れた。恐怖で体が竦み、動けなくなる前に。走って、走って、走って辿り着いた自宅。転びそうになりながらも、家に押し入って鍵を掛けた。……この時の嫌な汗の感覚は今もはっきりと覚えている。
~~
翌日から■■君の姿がクラスから消えた。担任の先生曰く体調が優れないらしい。付け加えて、不審者に関する情報が共有され、特に帰宅する際には注意するよう喚起された。
と言った内容の朝礼後、自分や昨日公園に集まった友人達は呼び出しが掛かり、一連の出来事について根掘り葉掘り問い質された。その際警察関係者も同伴しており、学校側も事件性を疑っていることが伺える。
「取り敢えず、そういった怪しい電話には出ないようにね」
等と大人達から念入りに忠告され、解放された自分達は教室に戻ると今度はクラスメイトから質問攻めを喰らう羽目になる。それに辟易しつつ自分は、昨日の公園で見たあの足跡の事について話すかどうか考えた。
――――見えない何かが、■■君を追っている。
そんな非科学的な事を説明して、大人達に信用して貰えるとは思えなかった。ただ、このまま内心に留めるのも辛いので、一先ずは友人達に相談しようとこの場でその時の状況を説明する。
話題性もあり、多くのクラスメイトが自分の話に耳を傾けた。第三者目線の者は面白そうに、気の弱い者は半分怯えていたりと結果は三者三様。現場にいた友人達は、誰一人茶化すことなく真面目な表情で聞いていた。また、大人達に相談するかどうかに関しては。
「……言うだけ、言ってみてもいいんじゃね」
との事だった。
他のクラスメイト達も似たような意見らしい。彼らの後押しもあったので、この件は後で教師に報告した。その時の表情は何とも言い難いものであったが、公園には近付かぬよう彼女と約束した。
そんな異常事態に見舞われた自分達のクラス――――もとい■■君が再び学校にやって来たのは、足跡を見た木曜日から、8日後。翌週の金曜日になっての事。
彼は朝から学校に顔を出した。彼の周りには人だかりが出来、先週の自分達と同様に質問攻めに会っていた。
「うん。非通知電話は昨日も掛かって来たよ。でもね、もう大丈夫なんだ」
最後に見た彼の様相とは打って変わって落ち着いている。一見特に問題がないように見えた。
「ああ、それと▲▲さん。後でちょっと話したいことがあるんだけど大丈夫かな」
だが、何かが違う。
その口調と言い振る舞いと言い、以前の■■君とは少し離れた印象がある。人と積極的に関わる友好的な性分になったと言えば、聞こえこそ良いのだが。
けれども、一々指摘する程でもない為に変わってしまった■■君はその状態のままにしておく。こうして更に翌週の木曜日となった。
「なぁ、家にみんなで遊びに来ない?」
■■君は夕会が終わった後、何時もつるんでいた自分や友人達にそう言った。
「遊びにいくって……」
「ほら。前まで公園でさ、例の非通知電話に皆出てたでしょ? 今度は家であれやろうよ、あれ。まだ続きがあるからさ」
「……■■ん家は大丈夫なのか?」
そんな質問に対し、今日は他に誰も居ないから問題無い。そう言い切る彼。今日の今日までの振る舞いを見て皆は色々と思う所はあったが、放っては置けないと決断した。
校舎を出て暫く歩くと、二週間ぶりに■■君の家の前へ辿り着く。今回は家へ上がり、5人では少し狭い程度の広さの彼の部屋で、各々が座り込んだ。
自分の携帯を見てみる……時間は17時20分。
■■君の話と今迄の経験則から非通知が掛かって来る電話は18:00、18:20。そして先週は18:40らしい。つまり、一週間過ぎる度に20分ずつ掛かって来る時間が遅くなっているとの事。それで今日は恐らく19:00頃に電話が掛かる筈だ。
少々時間を持て余すので、■■君をゲーム等に打ち込んだ。……だがそれは一種のカモフラージュである。と言うのも、19時に近づくにつれて、彼の様子が学校よりも一層不気味さが増していた。
「ねぇねぇ。船ってさ、何人乗れるか知ってる? 導きってさ、不意に降りるものじゃないんだよね。呼べば来るものなんだよね。知ってる?」
「いや、知らない……」
「そうなんだよね! 爪を削いで、皮を削いで、削いでも足りないんだ! 取って張り付けても、船は沈んじゃったんだ! んだ! んだ! だ! だ! だ!」
言動が支離滅裂になっている。
■■君自身は会話をしているつもりなのかも知れないが、他の誰もが彼の意図を汲み取る事ができない。断言すれば薄気味悪いのだ。まるで得体の知れない何かが、彼の皮を被っているようで。……こんな状態の彼を放って置いて家族は何処へ行ったのだろう。というより、もうこの家から出た方が良いんじゃないのか。
皆は■■君に気づかれぬ様、持ち前の携帯を使って連絡を取る。当初は19時まで居ると決めていたが、嫌な悪寒がして来た為、それを待たず直ぐに帰る事を決意した。
「悪い■■。俺達……もう帰るわ」
「帰る? マ、ポポ帰るよ。赤い道が帰り道。み んな 待ってる」
各々が持ち物を携えるなり背負うなりして、帰宅の準備をする。時間は18時55分。約束の時までは5分弱あったが……もう限界だった本能が警鐘を鳴らしている。此処に留まるべきでは無いのだと。
意味の分からない言葉を羅列する■■君。そんな彼をよそに玄関先へ向かうのだが、その途中インターフォンが鳴った。
「――――」
自分を含めた四人の足が止まる。不吉な音色だった。
恐る恐る玄関先を確認してみると……窓にうっすらと街灯に照らされた人影が見える。それも2mは優に超えていそうな。
逃げ道を防ぐように立つその影を見て硬直する自分達。また、自分の脳裏には先々週見た、あの足跡が過った。とても玄関を抜けた先に立つソレが人間とは思えなかった。
「あ――、あ――」
息が詰まるような沈黙の中、一つの気配が背後から近づいてくる。……■■君だ。彼が徐に玄関先へやって来たのだ。彼の首は座っておらず、大きく揺れたその歩みは彼の精神状態そのものと言っていいだろう。
一歩、また一歩。進んだ果てに玄関へ辿り着く。そして彼は玄関に頭を打ち付け始めた。ドアを軋ませ、鮮血で玄関の床を赤く染めていく。異常に次ぐ異常。そこへ畳み掛ける様に着信音が鳴り響いた。
場にそぐわない軽快な音の発信源は■■君の携帯電話。また、視界にギリギリ入っていた置時計を見ると、丁度19時を示している。無論、この場の誰もがその着信に応答する余裕は無かったのだが……不意に着信音が途切れる。
『1、――2、――8、――2、――4、――1、――0』
耳に入ったのは聞き覚えのある数字の羅列、読み上げる機械音声。それが見覚えのある携帯電話から発せられる。この誰もが恐れ戦き玄関から動けない。そんな状況下でだ。
『赤きコキュートス。は、道で、あるからにして――――。だいじょう、ぶ。ダイジョウブ。迎えます。得られま、す。あけり り り り り り』
ガラリ。と突如として開かれる玄関。思わず息が止まりそうになる。開かれた先に巨大な怪物が居る事を無意識の内に覚悟したのだが……誰も居ない。
■■君から流れ出た血溜まりが、玄関を越えてその先にへと続く。文字通りの血路と言うべき光景だった。そして、肝心の彼は特に目立った動きを見せない。只々立ち尽くしている様にも見える。
そんな中、友人の一人が腰を抜かして尻餅を付く。小さく床が軋む音を立ててしまった。
「……っ!」
その音で金縛りが解かれたかの様に皆の体が自由になる。また、自分達の様子に■■君は反応を見せた。一般的な人の可動域の限界を超え、首を180度回転させてこちらを見やる。顔からは血や涙液、涎が垂れ流されていた。彼は直立しながらもベキベキと関節を捻じ曲げ、こちらへと向き直る。
『 ま っ て よ 』
友人達と共にこの家から逃げる際、最後に見たのは■■君の恍惚とした表情だった。
二人は裏口から。自分ともう一人は■■君の自室の窓から飛び出る。夜の住宅街を靴も履かず全力疾走し、ボロボロになる靴下と痛む足裏。
息を整えつつ共に逃げた友人達三人と共に辿り着いたのは付近のスーパーマーケットだ。きっと、無意識のうちに人を求めていたからだろう。それになりに人が居るこの時刻。この程良い喧騒も訝しむ様な人の目線も今日だけは有難かった。
~~
翌日からやはりと言うべきか、■■君は行方不明となった。丸一日潰してまで、大人達に事の顛末を話した後、警察が学校や■■君の家とその周辺を調査したが、手掛かりは見つからなかった様だ。また、行方不明は彼だけでなく、その両親も同様らしい。
やがて、1ヶ月が過ぎた頃。一人減って27人となったクラスでは席替えが行われた。くじ引きの結果隣になったのは出席番号が一番最後の▲▲さん。
「ちょっと聞いてもいいかな……」
「……うん?」
そんな彼女と会話を交わす中で、一つ相談をしてきた。
「最近、木曜日の夕方に非通知の電話が掛かって来るんだよね。……これってさ、やっぱり――――」
「……」
不吉な予感に身を強張らせる彼女にはこう伝えた。決してその着信に応答しないようにと。そうすれば、視線を感じる事は無い筈なのだ。何かに追われる事も。全ては応答してから事が始まったのだから。
了承した▲▲さんはその様にしたらしい。事実、事が始まってから2ヶ月が経過しても彼女は無事だったのだ。……だがある日、メッセージアプリで彼女から連絡が来た。
『■■がきた』
■■月■■日。木曜日19時00分。そのメッセージを最後に彼女もまた、行方を晦ました。
彼女は合計5人となる行方不明者の内の2人目。
大人になった今も尚、あの日公園で沸き出た好奇心を憎み、思い返す度に後悔をし続けている。