6話目
ごくりとのどを鳴らして、目の前にいる彼を凝視した。
レナード兄さまの様子がおかしい。にこやかに微笑んではいるものの、赤い瞳はじっと私を捕らえて離さない。口元だけ笑っていた公園での彼と様子が似ていて、ぶるっと身震いをしてしまう。
兄さま、もしかして怒ってる?
私の態度が……あまりにも冷たすぎるから。
「僕の大事な宝物、もっと見せてあげるね」
張り詰めた空気の中で、次にレナード兄さまが取り出してきたのは、一枚の紙切れだった。
「こ……これは?」
全く記憶にないものだ。
けれど、これが一体何なのか。なんとなく想像がついてしまった。
私の予想を裏付けるように、レナード兄さまはこちらを見てにっこりと笑っている。実に不穏な笑みである。
「覚えてないかな? きみが僕にくれたものだけど」
「お、覚えているわけないじゃない! これ……私がいくつの時に描いた落書きよ……」
「6歳の時だね。ふふっ、今でもはっきり覚えているよ。僕の方をチラチラ見ながら一生懸命描いているからさ、てっきり僕の絵を描いてくれたのかと思って見てみたら、ミーシャ本人の絵が描いてあったんだよね」
「ふ、ふーん……」
……どこが私なのかさっぱり分からない。
画用紙一面が、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。絵ともつかないシロモノである。
どうしてこんなの大事に取ってあるんだろう。真っ白なノートに挟んで保管してあったけど、正直そこまでして残しておく価値はないと思う。
「どうやら自分の代わりに、僕の部屋にこれを置いておきたかったらしくてさ。『これ、わたしだと思ってね』なんて可愛いこと言ってたっけ。6歳のミーシャはさ、ふくふくと美味しそうな薔薇色のほっぺをしていてね、大きな瞳で僕を見上げながら、パチパチと瞬きをするんだ。あんまり可愛いから、何度も食べちゃいたいと思ったよ」
「そ、そう……」
「もちろん小さなきみを悲しませたくなかったから、可愛い頭を撫でるだけで我慢したけどね」
にこっ。
レナード兄さまの極上スマイルが、怖い。
この頃から既に牽制を始めていた自分にも呆れるけれど、それ以上に彼の発言が妙に引っかかる。
そりゃ小さい子どもは可愛いよ。
食べちゃいたいくらい可愛いって、よく言うよね。
でもさ……レナード兄さまの目とか声とか、妙にうっとりしていてさ。
なんか、本気っぽいんですけど……
「こっちはね、5歳のミーシャに貰った花だよ。そのままだと枯れちゃうから、押し花にして栞にしておいたんだ。今でも引き出しの奥に、大事にしまっている」
ありふれた黄色の花びらは、どこからどう見てもその辺の道端に咲いているタンポポにしか見えない。
「す、捨ててよかったのに……」
「そんな勿体ないことするわけないじゃないか。きみから貰った、記念すべき初めてのプレゼントなのに!」
そんな、拳を握って強く主張しなくても。
私が口元を引きつらせていることに彼は気付いていないのか。もしくは気付かないフリをしているだけなのか、ニコニコと上機嫌に笑いながら、どうしてもゴミとしか思えないものを次々とテーブルに並べていく。
「これは8歳のミーシャが僕にくれた、手作りクッキーが入っていた袋とリボンだよ。中身は全部食べないと腐らせてしまうから、外側のラッピングだけ残しておいたんだ。これが9歳、こっちが10歳。これが11歳で、こっちが12歳の時のもの。13歳と14歳の時はケーキを焼いてくれたよね? ちゃんと写真を撮って、秘蔵のアルバムに入れてある」
「…………」
「この箱の中に入っているのは、全部きみから貰った折り紙なんだ。猫とうさぎが多いけど、チューリップやイチゴ、テントウムシといった赤いものも好んでよく折っていたよね。僕の瞳の色だからかなって、勝手に想像しては貰うたびに喜びをかみしめていた」
「…………ねえ」
「このファイルに挟んでいるのは、きみからの手紙やメッセージの類だよ。きみが字を覚えた6歳の時から、ちゃんと順番に並べて保存してあるんだ。きみと同じで、最初は丸くて可愛らしい字だったのに、だんだんすっきりとした綺麗な字になっていく。こうして眺めているとミーシャの成長も分かって、感慨深いものがあるよね」
「………に、兄さま?」
「だいすき、って書かれたものもたくさんあるんだよ。もちろんそういった意味じゃないんだろうけど、すごく嬉しくて胸がいっぱいになったな」
「ちょっ! そんなの、今すぐ捨ててよねっ!」
「駄目だよ、大事な宝物なんだから」
過去の私が書いた恥ずかしいメモの山を取り上げようとしたけれど、レナード兄さまにひょいっと避けられてしまった。
今の私なら分かる。
それ全部、そういった意味だった。
自覚したのは10歳の時だったけど、本当はもっと前からレナード兄さまのことが好きだったんだ。
先程までにこやかに笑っていたレナード兄さまが、ふっと表情を崩した。
「……ドン引きしたよね」
「レナード兄さま……」
「でも、これで分かっただろう? 僕が昔からきみのことを、大好きだったということが」
レナード兄さまはくしゃりと顔を歪ませ、縋るような目で私を見ている。
その今にも泣きそうな、悲しそうな彼の姿に、頑なだった私の心に動揺が広がっていく。
レナード兄さまも?
私と、同じ想いを抱えていたというの?
「まだ幼いミーシャのことが、僕はずっとずっと好きだった。自分でも、自分はどこかおかしいのだと思って悩んでいた。だって、みんなは同じクラスの女子に夢中なのに、僕だけが7つも年下の女の子に恋をしていたからね。幸い、ミーシャ以外の幼い女の子には全く反応しなかったから、そこだけはホッとしたけれど」
「ほ、本当に……私のことが好きだったの? そんな、小さな頃から……」
「そうだよ。好きで好きで、昔からずっとミーシャだけが欲しかった。きみが結婚しようと言ってくれた時、本当は胸が震えたよ。このまま、さらっていきたいと何度も思った」
「じゃあ、どうしてあんなこと言ったの!」
2年前、兄さまに言われた言葉が今でも忘れられない。
「私もレナード兄さまが、ずっとずっと好きだったのに! さらってくれたら、すごく嬉しかったのに!」
「できるわけないだろっ!!」
レナード兄さまの悲痛な叫び声に、ハッとして言葉が止まった。
「獣人にとって番と結ばれるのが一番幸せなことなんだ。それが分かっているのに、どうしてミーシャからその幸せを取り上げるようなことができる? しかもきみはまだ未成年だった。学校だって卒業していないのに、親元から切り離すような真似なんて出来るわけがない」
――――ああ。
今ようやくストンと腑に落ちた。つまるところ彼は大人で、私は子どもだったのだ。
私は、学校とか、両親のこととか、なんにも考えていなかった。
レナード兄さまと結婚することしか頭になかった。
でも彼は違った。
レナード兄さまは、ちゃんと私のことを考えてくれていたんだ……
「だから嬉しかったんだ。ミーシャが番だと分かって、やっと真っ直ぐきみに好きと言えるようになった。もう自分の気持ちを誤魔化さなくてもいいことがとても幸せで、最高に嬉しかったんだ」
レナード兄さまが赤い瞳を潤ませている。
痛いほど伝わって来た彼の気持ちに、たまらなく胸が苦しくなってきた。
今日は朝から様子が変だった。
ずっと怒っているのだと思っていた。
書き置き一つで番が姿を消したから。いつになっても結婚を承諾しようとしないから。だから、怒っているのだと思っていた。
違った。
レナード兄さまは悲しかったんだ。
私に逃げられて。自分の想いを信じてもらえなくて。ずっと、ずっと悲しかったんだ。
レナード兄さまが手元にある箱から黄色の折り紙を取り出した。
星の形に折られたそれには、つたない子どもの字で、『ねがいごと なんでもかなえます』と書いてある。
「お願いだ、ミーシャ。……僕の気持ち、これで信じてくれないかな?」
流れ星をイメージして作られたもの。
それは私が、7歳の時に彼に贈ったものだった。
★ ★
「え、実はずっと前から好きだった!?」
ビックリして思わず叫んでしまった私に、友人たちが揃って呆れた目を向けた。
「やだ、ミーシャまさか気づいてなかったの? どう見てもあの2人、好き合っていたじゃない」
「だ、だって! 毎日のように喧嘩してたよね!?」
「そうそう。2人とも素直になれなくて、つまんない言い争いばかりしてたよね~」
「どっちも後でがっつり落ち込んでるし、もうバレバレだったよね」
「いつになったらくっつくんだろって、クラスのみんなが生温い目で見守っていたわよねぇ」
「う、嘘……」
今日は友人であるルナとゲイルの結婚式である。あんなにいがみ合っていた2人だけど、一応番な訳だし、『おめでとう』でいいんだよね……?と、だいぶ微妙な気持ちで出席したのに。
衝撃の事実を知ってしまった。
「ミーシャったら鈍いわね~。両想いだと気付いてないのは本人たちだけだと思ってたわ」
「ちょっと、お喋りはそこまでよ。2人が来たわ!」
春の風がふわりと通り抜けていく。
赤い絨毯の向こうから、真っ白なウェディングドレス姿のルナと、グレーのタキシードを着たゲイルが、腕を絡めてぴったりと寄り添いながら歩いてきた。
「ルナ、ゲイル! 2人とも結婚おめでとう!!」
辺りには、たくさんの人たちが贈る祝福の花びらが、キラキラと空を舞っている。
幸せそうに微笑む新郎新婦に、赤い花びらを投げかけながら、私は、ここにいない人を思い浮かべてしまった。
レナード兄さま……
番は、年が近ければ近い方が選ばれやすい、と言われている。
それなのに、7つも年が離れた私たちが番になれた。それって……
「僕たちも来月が楽しみだね」
式が終わって、迎えに来たレナード兄さまが嬉しそうに私の手を取った。
あの後、真実を告げたことで兄さまは私に嫌われたのではないかと怯えていたけれど、そんな不安は杞憂である。
例の宝物については正直ちょっと引きはしたものの、私だって変わらないレベルで粘着していたのだ。今でも変わらず好きだと伝えると、涙ぐみながら改めてプロポーズをしてくれた。
お互いもう離れたくなくて。その日のうちに両親を連れて隣の家に行き、おじさんとおばさんに結婚の挨拶をした。
おばさんはチラリとレナード兄さまを見てから、本当に良かったわねぇ……としみじみとした口調で祝福してくれた。おじさんや、私の両親も感慨深い様子で頷いていたから、おそらく私たちの気持ちはお互いの両親に筒抜けだったのだろうと思われる。
いかにもなハンカチを20枚も贈った私はともかく、レナード兄さまは完璧に隠してたと思うのだけど。おばさん曰く、私と一緒にいる時の彼は表情があからさまに違うのだとか。
「あと一月もあるのかぁ。……待ちきれないなぁ」
黒い尻尾ですりすりと彼に甘えるように擦り寄れば、兄さまがぐっと何かを堪えるような顔をした。
「ミーシャ。あと一か月も先なんだから、ほどほどにね」
「分かってるけど寂しいんだもん。あ~あ、もう家についちゃった。離れたくないなぁ」
「分かってない……絶対に分かってない」
お互いの気持ちを確かめて、私はというと今まで我慢していた分が溢れるように、レナード兄さまに甘えるようになってしまった。
1日が終わって、こうして離れ離れになる瞬間は特に寂しくて甘えてしまう。
もう辺りは真っ暗だし、帰らないといけないと分かっているけれど……正直帰りたくないよ……。
今日もひたすら名残惜しくて、レナード兄さまの腕にぎゅっとしがみついたら、隣からぐうっと呻き声が聞こえてきた。
「ここでお別れが寂しいなら、うちで夕飯食べてく? ミーシャなら両親も大歓迎だしね」
「ついでに泊まってもいい?」
「それは駄目だ」
「じゃあ代わりに、さよならのキスとハグをして!」
「……したい。めちゃくちゃしたいけど、うっかり触れたら止まらなくなるから禁止にしよう」
「えぇえええっ!!」
逆に兄さまは、再会時の甘さが消えて昔の兄さまに逆戻りしてしまっている。
私を大事にしてくれている、というのは分かっているけれど。
ちょっと…………いや、かなり不満である。
「レナード兄さまのケチっ! あの日に一回してくれたきり、全然してくれないなんて酷いよ。私は兄さまと、もっとたくさんくっついていたいのにっ」
「まずい、ミーシャが可愛すぎる……! あぁあもう、どうしてそんなに聞き分けがないかなぁ」
「だって、レナード兄さまが大好きなんだもん」
泣きそうな顔で彼を見上げたら、おでこに柔らかな感触がした。
レナード兄さまが照れくさそうに前髪をかき上げている。
「僕もミーシャが大好きだ。……結婚したら毎日するから、覚悟して?」
胸にじわりと熱いものが広がっていく。
嬉しくて。
でもやっぱり、物足りなくて。
油断しているレナード兄さまに、隙アリとばかり顔を近づけた。不意をつかれた赤い瞳が大きく見開かれ、すぐさま幸せそうに細められていく。
視界の端で、キラキラと流れていく星が見えた。
「毎日、たっくさんしてね! ――――お願いだよ」
レナード兄さまは、私の大好きな柔らかい微笑を浮かべて、もう一度くちびるに触れるだけのキスをしてくれた。
完結です。
読了ありがとうございました。