4話目
「ななななな、なんでもないっす!!」
バートは恐怖に顔を引きつらせ、覚束ない足取りでわたわたと逃げていった。
――待って、置いてきぼりにしないで!
レナード兄さまの静かな怒りが怖い。私も逃げようとしたけれど、それよりも早くがっちりと手を掴まれてしまった。
昨夜の遠慮がちな触れ方とはまるで違う。痛みはないけれど、どう頑張っても振りほどけそうにない力の強さからは、絶対に逃がすものかという彼の確固たる意志が伝わってくる。
どうやってこのピンチを切り抜けよう。
しばし逡巡している隙に、荷物までもが素早く取り上げられてしまった。こうなったらもう逃亡不可能だ。
ちらりと横目で見ると目が合って、彼がにっこりと不穏な笑みを浮かべた。
「さあ帰ろうか、僕のミーシャ」
がっくりと項垂れる。
運命の番――――それは決して逃げられない「運命」を指すのかも知れない。
★ ★
無言でスタスタ歩くレナード兄さまに連れられ、やって来たのは懐かしい彼の部屋だった。
木製のベッドにチェスト、本棚に、膝の位置ほどの低いテーブルが一つ置いてあるだけの、至ってシンプルな部屋である。けれど、どこか温かみを感じるこの空間は、主である彼を良く表していると思う。
充満する番の匂いに足を踏み入れた瞬間くらっときたけれど、内心とんでもなく怒っているであろう兄さまに対する不安と恐怖のおかげで、どうにか冷静でいられている。
むしろこれから何を言われるのか、別の意味でドキドキしてきた。
「ホットミルク、好きだったよね」
「…………うん」
柔らかなラグの上に座り、差し出されたマグカップに目を落とす。ファンシーな黒猫のデザイン。この部屋にそぐわないな、と苦い顔になる。
テーブルの上には、一口サイズのチョコがブラウンの木皿いっぱいに盛られていた。それを一つ手に取って、ホットミルクに放り込む。
このチョコは軟らかいので、温かい飲み物に入れるとすぐに溶けるのだ。スプーンでくるくるとかき混ぜると、ホワイトとブラウンの混じる綺麗なマーブル模様になった。
見た目も味も楽しめる、私の大好きな飲み方。しっかり把握されているのが、なんだか悔しい。
こくりと甘い液体を口に含んだところで、レナード兄さまが深刻な顔つきで問いかけてきた。
「ミーシャは、さっきの虎獣人が好きなの?」
「ぶふっ!!」
「僕と正反対なタイプだったね。大柄で逞しい体つきをしていたし、顔立ちも精悍で男らしかった。ああいうのが良くなった?」
「ちょっ。変なこと言わないでよ、吹いちゃったじゃない……」
「あ、ごめん。これで拭いて」
げほごほと涙目でむせながら、渡されたタオルで口元を拭う。とっさに手でガードしたから服や机は無事だけど、口の回りがミルクまみれになってしまった。まるで小さな子どもみたい。
ああもう、最っ低!
どうして初恋の相手に、こんな恥ずかしい姿を晒さないといけないのよ……
ぜんぶレナード兄さまが悪いっ!
怒りでふるふる震える手でタオルを握りしめ、シャー!と尻尾を逆立てた。
「バートが好きとかありえないっ! 確かに身体はでかいけど、それだけよ。小心者で頼りないし、顔だって粗雑な中身そのものって感じでちっとも好きじゃない。あんなやつ、私の好みと正反対のタイプだわ!!」
「正反対」
レナード兄さまが口元を手のひらで覆った。
「そう、正反対!」
「それって…………ミーシャは、僕みたいなタイプが好きってこと?」
「そうよ。ど真ん中よ!!」
「……………………ど真ん中、なのか」
――――はっ、しまった!
勢いよく答えた私に、レナード兄さまがじわじわと顔を耳まで赤くした。はあ、と熱い息を漏らして目を伏せる。
その盛大に照れた様子に、私まで顔が真っ赤に染まってしまう。
「って、やだやだ違う! 今のナシっ!!」
「あああもう、本当にミーシャは迂闊で可愛いな。悪いけど、なかったことにはしてあげられない。ミーシャはやっぱり、僕のことが好きだよね?」
彼がラグに手をついて、身を乗り出して私に顔を近づけてきた。
言葉に詰まる。
即座に否定されなかったことに気を良くしたのか、兄さまが嬉しそうに笑みを深めた。
「結婚しよう、ミーシャ」
「い、いや」
「嫌じゃないでしょ? だってほら、喜んでるよ」
レナード兄さまが私の頬に触れてきた。すり、と指先で少し撫でられて、黒い尻尾が甘えるように彼の身体に絡まろうとする。
ええい、この裏切りものの尻尾めっ!
「とにかく結婚はしません」
本能に従おうとする忌々しい尻尾を両手でガッチリ抑え込み、元凶から離れるべくテーブルを挟んで反対側までするりと逃げ込んだ。ここまできて未だ抵抗を試みる私に、レナード兄さまが困ったように耳を垂らし、首を傾げている。
「どうしてミーシャは僕を拒否するの? 番なのに」
「番だから何だってのよ。馬鹿じゃないの? 私のこと好きでもないくせに」
「そんなことないよ。好きだよ、ミーシャ」
「それは番だからでしょ!」
彼のことが好きだった。
ずっと、ずっと振り向いて欲しいと思っていた。
でもこんな風に――――無理矢理好かれたかったわけじゃない。
レナード兄さまの意思なんて関係ない。
彼は、私が番だから好きになってくれただけ。
それって、惚れ薬で好かれているのと同じようなものじゃない?
……分かってる。
一生、番に会えないまま人生を終える人もいる。
ルナたちのように、嫌っていた相手と番う人もいる。
好きな人と番になれるなんて、私はとても恵まれている。でも……
好きだからこそ、虚しい…………
「はぁ……、どうしてそんなに頑ななんだ。僕はミーシャが番で、嬉しかったのに」
「嘘っ!」
「嘘じゃない。ミーシャが番なら良いのにって、ずっと思っていたよ」
「はんっ、そんなの大嘘もいいとこよ。私知ってるもの。2年前のレナード兄さまなら、絶対にがっかりしていたわ」
「がっかりなんてするわけない。2年前の僕も、今の僕も気持ちは全く変わっていない」
「いいえ、180度変わっちゃってるわ。だって言ったじゃない。7つも年下の子どもなんかに、興味ないって!!」
「うぶっ!」
目の前にあったチョコレートを乱雑に掴み取り、レナード兄さまに向かって思いっ切り投げつけた。
甘いセリフも、優しい態度も、番を懐柔するために必死でしている行為なのだと思うと、猛烈に腹が立つ。
顔面にチョコレートをぶつけられ、レナード兄さまが痛みに顔をしかめた。
――こういうところが『子ども』なのだと、自分でも分かっている。
でも苛立つ気持ちがどうしても抑えられない。そんなに番が欲しいのか。番だったら、私でもなんでもいいのか。
そのまま、2度3度と、青ざめる彼にチョコレートを投げつける。
「ごめん、ちょっと浮かれてた」
「ばか! ばか! 兄さまなんて知らないんだから! 本当は私と結婚なんてしたくなかったくせに!」
「そうじゃない、ミーシャ」
「私は、番だって分かる前から好きだったのに!!!」
皿の上から投げられるものが無くなった。今度はベッドの枕を投げつける。すっかり頭に血が上っている私と違って、レナード兄さまは飛んできた枕を冷静にキャッチしていた。
……悔しい。
心がじくじくと痛む。
なぜかレナード兄さまの方が、私よりも傷ついたような顔をしている。
彼にくるりと背を向けた。
ああもう、何もかも最悪すぎる。
「……絶対に結婚なんてしないから」
全部知られてしまった。
私の気持ちも。
2年前とちっとも変わらない、幼稚なところも。
全部、全部、隠しておきたかったのに。
「そんなの受け入れられる訳がない。せっかくきみと番になれたんだ。……絶対に結婚する」
レナード兄さまが、背後から強い力で私をぎゅっと抱きしめる。
「離してよ」
「嫌だ、離したくない」
背中が熱い。隙間なく触れ合っているせいか、どくどくと逸る兄さまの心臓の音が、はっきりと聞こえてくる。
「……僕もだ。僕も、番だと分かる前からミーシャのことが好きだった。もちろん、1人の女の子としてだ」
レナード兄さまが私の肩に顔を埋めて、震えるように言葉を漏らした。
「だから結婚しないなんて言わないでくれ。お願いだ、ミーシャ……」
こんな風に好きだと言われて、2年前の私ならきっと嬉しくて泣いていただろう。
でも今は――――最高に腹が立つ。
だってそんなの、信じられるわけないでしょう!
「嘘嘘嘘っ! 騙されないんだから。レナード兄さまは、私のこと好きなんかじゃなかった!」
なによ今さら。
私から、逃げるように街を出たくせに……!
2年前の彼の態度は今とは真逆のものだった。
それが兄さまの本音で、答えなのよ。
甘やかな囲いから逃れようと身をよじらせる。けれども、想像以上に檻は強固なものだった。ジタバタと必死で暴れているのに、ちっとも彼の腕から抜け出せない。
遺憾の意をたっぷり込めてじろっと睨んで振り向けば、射貫くような赤い瞳と視線がかち合った。
私の心臓がどくりと音を立てる。
「僕の気持ちが信じられない? ――――わかった。それなら証明してあげる」




