3話目
「マズイ。このままじゃ陥落するのも時間の問題だわ……」
レナード兄さまの笑顔は、それはもう抜群の破壊力だった。頬は熱いし、心臓は未だドキドキと騒がしく脈打っている。
そもそも番という時点で本能的に惹かれてしまうのだ。このままだと先程のようにふらふらと魅了され、ハッと気づいた時には教会で愛を誓い合っている――――などという恐ろしい事態になりかねない。
非常に危機的なものを感じた私は、夜のうちに急いで荷物をまとめることにした。
レナード兄さまから物理的に距離を置きたい。
両親は、全然あてにならないどころか兄さまの味方である。明日にでも私を引き連れ隣家に行く気満々だし、彼の両親と顔合わせまで済ませてしまったら、さすがにもう引き返せない。
――――もたもたしている場合じゃないわ。
翌日。私はまとめた荷物を抱えて、朝一番で家を出た。
「え~、しばらく居座らせて欲しいって? 駄目よぉ、あたし今ゲイルと住んでるんだから」
「ええっ、もう一緒に住んでるの!? 番になったのって、確か先週じゃなかったっけ?」
「そうだけど、仕方ないじゃない。もう離れたくないんだもの。結婚式までなんて待てないわよ」
「そんなぁ……」
とりあえず友達の家に避難させてもらって、その間に具体的な対策を考えよう。
そう思ったけど……秒で断られてしまった。
「どうしたんだよ、ルナ」
「ゲイル! ううんなんでもないの、ちょっと友達が来てただけ」
「あぁ、ミーシャか」
友人のルナの後ろからひょこっと顔を出したのが、彼女の番であるゲイル。この2人は犬猿の仲で、学生時代は喧嘩ばかりしていたのに、今では手のひらを返したようにベタベタしている。
ちなみにルナが犬獣人で、ゲイルが猿の獣人だ。
ルナって、彼のお兄さんがカッコいいって騒いでたよね?
弟は意地悪で最低とか言ってたのに……どうして目がハートになってんのよ。
ゲイルもルナのこと、馬鹿とかブスとか色気がないとか散々こき下ろしていた癖に。甘い笑みを浮かべながら彼女の肩を抱きよせて、うなじにチュッと唇を落としてる。
あなたたち、本当にそれで納得してるわけ!?
ほんっと、番の強制力って恐ろしい……
「もう用は終わったのか? 早くさっきの続きがしたいんだが」
「あたしもよゲイル。そういうわけでミーシャ、ゴメンね~」
無情にも、扉はパタンと閉められた。
「これからどうしよう……」
公園のブランコに腰掛けて、ゆらゆらと揺られながら青い空を見上げた。
仲良く連れ添う2羽の鳥を羨ましく目で追いながら、途方に暮れる。
あれから他にも何人か当たってみたけれど、みんな番と出会ったらしく、すっかり出来上がった状態になっていて、泊まるどころか部屋に上げてすらもらえなかった。
このまま家に帰っても詰むだけだ。
昨夜だけでも痛感した。あの調子で迫ってこられたら、私は確実に逃げきれない。
……どうしてもレナード兄さまに惹かれちゃう。
正直、レナード兄さまのことは今でも好き。
でもこんな、納得できない気持ちのまま結婚なんてしたくない。
溜息をついていたら、知り合いがやってきた。
「よお、ミーシャ」
「……バート?」
「なんだよ、辛気くせぇ顔して。ただでさえ真っ黒なのに、顔面まで煤けて黒くなってんぞ。明るい時間で良かったな、夜だと気づけなかったぜ」
「ほっといてよ」
ニヤリと意地悪そうに笑ったのは、この冬まで同じクラスにいた虎獣人の男の子。
近所に住む悪ガキで、私のことを真っ先に真っ黒ミーシャと呼んで揶揄ってきた元凶でもある。
――はぁ。ただでさえ憂鬱なのに、嫌なやつに出会ってしまったなぁ。
バートは何故かそわそわした様子で、隣のブランコに腰掛けてきた。
「お前さ、この春に番が見つからなかったのか?」
「…………何よ、突然。あんたに関係ないじゃない」
相手をする気になれなくて、適当に返したら肯定だと解釈したらしい。バートが訳知り顔で深く頷いてきた。
「そうか、俺もだ」
勝手に仲間にしないで欲しい。
しかしこれ以上絡まれても面倒なので、訂正せず放置しておくことにする。
「なあ。番と結婚するなんて、馬鹿らしいと思わないか?」
「――――え?」
驚いてまじまじとバートの顔を見返す。
だって、私の周囲にいる誰もが番であるレナード兄さまとの結婚を当然だと捉えていたのに。
――今、初めて真逆の意見を聞いたわ。
「このままこの街にいたら、番なんてわけわかんねーもんと無理矢理結婚させられちまう。俺、いっそ獣人のいない街に行こうかと思ってるんだが、ミーシャ。……その、お前も一緒に行かね?」
獣人のいない街に行く……
「それ、いいわね」
住み慣れた街を出るのは不安だけど、間違いなく彼とは距離を置ける。というか、これくらいしないとレナード兄さまから逃げられなさそう。
「ほんとか!? じゃ、気が変わらないうちに早速、出かけようぜ!」
「え、ちょっと待ってよ」
急にテンションの上がったバートにぐいっと腕を引かれて、ぎょっとする。
「一緒に行くなんて言ってない!」
「えぇ、いいって言ったじゃねーかよ」
「そもそもバート、あんた手ぶらじゃない。それでどうやって旅をするつもりなのよ」
「金さえあれば十分だろ。財布くらいは持ってる」
ドンと胸を叩いて、頼もしそうにしているけれど……
大言壮語で、後でヒィヒィ言ってばかりの彼の学生時代を思い出す。
「なあ、一緒に行こうぜ! 女の1人旅は危険だと思うぞ」
ジトっと半目で見た。
街を出るのはいい案だと思うけど、バートと一緒というのはちっともいい案じゃない。
でも1人だと心細いし、彼の言うように女の1人旅はどうしても危険がつきまとう。こんなやつでも一応男だし、気は小さいけど体はでかい。新しい街に着くまでは、見掛け倒しの用心棒として同行してもらう方が安全なのかも?
「そうね。一緒に行くというのも、まあアリね」
「だろ? だろっ!」
「だから腕を引っ張らないで! 痛いし!」
「あぁ、わりぃ」
じろっと睨むとようやく気が付いたのか、パッと手が離れた。唐突に手を放されて、今度は前のめりにつまづきそうになる。
バートに莫大な不安を感じつつ、ブランコの横に置きっぱなしの荷物を手に取った。
やっぱり、一人旅の方がマシだったかも……
早くも後悔しかけた、その時。
ふわりと風が吹いて。どこからか胸がギュッと切なく震えるような、愛おしい匂いが漂ってきた。
――――レナード兄さまだ。
「一緒に、どこに行くって?」
………………兄さま、よね?
彼のものとは思えない冷ややかな声色に違和感を感じつつも、振り返った先にいたのは間違いなく私の番であるレナード兄さまだった。え、なんでここにいるの?
「ふふ、どうしてそんなに驚いた顔をしているのかな。『探さないで』なんて書置きを見つけて、まさか僕がじっとしているとでも思った?」
そのまさかを期待してました。
だって! 何も言わずに家を出たら、騒ぎになると思ったんだもん。
「街じゅう探したに決まってるじゃないか。愛しいきみに朝から会いに行ったのに、部屋の中はもぬけの殻なんだから」
「そんな、大袈裟な……」
「間に合ってよかった。危うく、掠め取られるところだった」
そう言ってにっこりと笑う兄さまに、背筋がぞくりと粟立った。彼の口元は弧を描いているのに、目は全然笑っていない。普段はへにょりと垂れている淡い茶色の耳も、威嚇するようにピンと立っている。
これは……もしかしなくても、めちゃくちゃ怒っているのでは……
番が、逃げ出そうとしたから。
「な、なんだよお前。関係ない奴は引っ込んでろよ」
バートもさすがに不穏なものを感じ取ったのか、威勢のいいセリフを放ちつつも、じりじりと後ずさっている。
レナード兄さまが、怯む彼にふっと笑った。冷笑と言っていい類のものだ。
「彼女は僕の番だ」
「……え?」
「聞こえなかったかな。ミーシャは、僕のものだと言ってるんだけど」
――――ねえ、これは誰?
レナード兄さまは優しい顔立ちをしている。
髪質も色合いも全体的にふんわりしているので、穏やかで優しい印象を受ける。
中身だって静かな湖のように凪いでいる人で、嫌なことがあっても激怒したりせず、困ったように眉を下げている。そんな人が、絶対零度の目で笑っている。
兄さまの赤い瞳がすうっと細められる。
「ところで君は、僕の番とどういった関係があるのかな? ――――ちょっと教えてくれないかな」
彼の口から発せられたのは、ぞっとするほど低くて重たいものだった。