2話目
あんなにはっきりと拒絶したのに、レナード兄さまは諦めなかった。
「こんにちは、ミーシャ。今日も会えて嬉しいよ」
「…………」
一体いつからそこにいるのか。今日も薔薇の花束を抱えるレナード兄さまが、我が家の前で待ち伏せていた。
今日は新作ケーキの発売日。
ウキウキしながら家を出たのに……一気に憂鬱になっちゃった。
「ねえ、好きだよミーシャ。僕と結婚して欲しい」
「無理」
「お願いだから、花束と指輪を受け取って」
「お断りします」
……もうこれで3日目になる。いつもツンツン塩対応を心掛けているのに、諦める気は皆無のようである。
あ~あ。どうしよう。
レナード兄さまにストーキングされながらケーキ屋に向かうか、それとも明日出直すべきか。悩ましい2択である。
「こっち向いてよ。ミーシャの可愛い顔が見たいんだけど」
……レナード兄さまは、すっかり以前の兄さまとは別人のように変わってしまった。
とにかく甘い。私の姿を見つけて嬉しそうに微笑む様は、大量のチョコを溶かしたミルクのように甘ったるい。昔のレナード兄さまと全然違う。私の知る彼は、もっと普通に笑ってた。
セリフも甘い。もちろん声もでろでろに甘い。誰だこれは。本当にレナード兄さまなのかと、空に浮かぶ白い雲に向かって何度も問いかけている。
「じゃあ、せめてケーキだけでも貰ってよ」
「………え、ケーキ?」
「うん、ミーシャの好きなチョコケーキだよ。苺のミルクレープも入っている。一緒に食べよう」
ひ、卑怯だわ……
箱には、今まさに思案していた洋菓子店のロゴが入っている。少し値段が張るけれど、ここのケーキはどれも絶品だ。後に残らない甘さでいくらでも食べられる。しかも苺のミルクレープは狙っていた新作だし、チョコケーキは永遠の最推しだ。
正直めちゃくちゃ食べたいけれど、ここで屈する訳にはいかない。断腸の思いで私は彼の誘惑を断った。
断った、のだが。
「まあ、素敵な薔薇の花束。あとでミーシャの部屋に飾っておくわね」
「ありがとうございます、おばさん」
「いやあね、レナード君ったら。お義母さんと呼んでちょうだい」
くぅ、最悪だわ……
上機嫌な母の声が憎らしい。和やかなやりとりを交わす2人を、後ろから恨みがましい目で見てしまう。
「どうして家の中に入れちゃうのよ……」
「あら。いつまでも外で待たせるなんて、可哀想じゃない」
涙を飲んで拒否していたのに、レナード兄さまはあっさりと家の中に入って来た。
帰宅した母が嬉々として招き入れたのだ。悲しいかな、我が家は私にとってまったく安息の地ではなかった。
「良かったわねぇ、ミーシャ。あなた昔っからレナード君のこと大好きだったものねえ」
「ちょっと母さま、余計なこと言わないで!」
「はいはい、分かってるわよ。あのねレナード君。玄関にウサギのぬいぐるみがあるでしょ?」
「はい、飾ってましたね」
「あれはミーシャが8つの時にね、『兄さまにお出迎えしてもらうの~』なぁんて言って、あそこに置いたものなのよ。この子もなかなか可愛いとこあるでしょ?」
分かってない。全っ然、分かってない!
「そんな過去の話、わざわざ口にしなくてもいーじゃない!!」
「あら。未だに飾ってあるんだから、現在進行形よね」
「ぐっ……」
しかも、レナード兄さまは母に会うなり早々に番のことをばらしてしまった。なんてことをしてくれたんだ。おかげで母はすっかりその気だし、舞い上がってしまっている。
――母さま、レナード兄さまのこと気に入ってるからなぁ……
「式場はどうするの? おうちは、隣に住むのかしら?」
「式に関しては、できるだけミーシャの希望に沿いたいと思っています。家は当面、アパートを借りて2人で住もうかと」
「……私、結婚するなんて言ってないけど」
「そうねぇ、新婚の間は2人きりの生活を楽しむのもいいわね」
私のツッコミを軽くスルーして、2人は話を続ける。
「だから結婚しないってば!」
「若いっていいわねえ。そうだわ、お隣に挨拶に行かなきゃ。レナード君のご両親は今、ご在宅かしら?」
「挨拶なんて必要ないの!」
「父が出張中ですが、明日の夜には帰ってきてると思います」
だめだ、どんどん退路を断たれている気がする。
その後、帰宅した父さまも話を聞いて破顔しているし……。兄さまの肩に手を置いてウンウン頷きながら、よろしく頼むと非常に満足そうである。
ちょっと、娘はやらないとか言えないわけ?
父親の癖に、防波堤の役割どころか喜んで差し出そうとしているしっ!
「寂しいが仕方ない。まあレナード君なら安心だな」
「ありがとうございます、精一杯幸せにしたいと思います」
「ミーシャの花嫁姿……綺麗だろうなぁ」
なに勝手に想像して涙ぐんでるのよ、父さま。
気が早いにも程があるわよ。
そもそも私、同意すらしていないんですけど!?
泊って行けばいいなどと不穏なことを言いだした母を秘蔵のお菓子で黙らせて、お言葉に甘えようとする彼の背をぐいぐい押して強引に家から閉め出した。ゼイゼイと息が切れたわ。
父は呑気にお茶をすすっている。
…………この家に私の味方はゼロ、了解。
★ ★
「今日は星が綺麗だね」
「…………」
せめて見送りくらいしろ、と母に言われてしぶしぶ家の外に出た。
辺りはすっかり暗くなっていて、幾つもの明るい星がキラキラと瞬いている。
レナード兄さまの言う通り、玄関の扉を背に見上げた夜空は息を呑むほど綺麗なものだった。こうして星を見るのは久しぶり。昔はよくレナード兄さまと一緒に星空を眺めたなぁ。流れ星を見つけて、慌てて願い事を言ったっけ。
昔を懐かしみながらロマンチックな景色に見とれていると、左手が温かいものに包まれた。
兄さまの手だ。レナード兄さまが、隣に並ぶ私の手を握っている。
ただそれだけのことなのに。ドクン、と心臓が跳ねた。
「この街は空気が澄んでいるからかな、星が綺麗に見えるね。この2年、いくつかの街を回ったけれど、この街ほど美しい星空の街はなかったな」
落ち着いた彼の声が、とても耳に心地よい。
隣からはたまらなく惹き付けられる良い匂いが漂っていて、ああ、やっぱり彼が私の番なのだと、嫌でも実感してしまう。
「新居は街中の方が便利かと思っていたけど、少し外れた場所でも良いかもね。きみと一緒に、毎日こうして星空を見上げたいな」
さっさと帰ればいいのに。
レナード兄さまは名残惜しそうに私の手を握ったまま、離そうとしない。
――いったい、何時まで一緒にいる気なの?
なぁんて。運命の番相手に、これほどの愚問も無いよね。2度と離れたくないと思ってしまう、それが番なのだから。
私も全然抗えていない。
温かな彼の手を振りほどいてやりたいと思っているのに、離れがたいと感じる気持ちが私の中にも確かにあって、そちらに負けてしまっている。……ああ悔しい。
むっつり黙っていると、レナード兄さまが困ったように眉を下げた。
「どうしたの、ミーシャ。なにが不満なんだい?」
「…………なにもかもよ」
結婚しないと言っているのに全然通じてないことも。
彼の隣にいて、歓喜している自分に抗えないことも。
彼の気持ちが、番に狂わされていることも。
ぜんぶ、ぜんぶ気に入らない。
レナード兄さまは変わった。
以前の妹に対するような態度とは明らかに違っている。彼の表情やちょっとした仕草のすべてが熱を帯びていて、1人の女性として心から愛されているのだと強く感じられる。
でもそれは、番になってしまったからだ。
番じゃなければ――――こんな風にレナード兄さまに求められることはなかった。
「私、結婚しないって言ってるのに」
「…………。ミーシャ、それ、さっきも言ってたね。どうして?」
レナード兄さまが身を屈めて、私の顔を覗き込んできた。
繋いだ手にきゅっと力が込められて、彼の不安が伝わってくる。
「心配しなくても大丈夫。仕事ならもう決まっていて、来週から働くことになっている。贅沢はさせてあげられないけど、きみを養うくらいの稼ぎはちゃんとあるよ」
「…………」
「家事だって、これでも一人暮らしをしていたからね。一通りのことは僕ができる。それとも、実家を離れるのは寂しい?」
そうじゃない。
眉間にぎゅっとシワが寄る。私が何故拒否しているのか、全く理解が出来ないのだろう。レナード兄さまは、さっきからずっと戸惑いの表情を浮かべている。
まぁ、普通はそうよね。
運命の番は、獣人にとって絶対の相手だ。
「やっぱり、怒ってる? 2年前のこと」
びくっと私の肩が揺れた。
「ミーシャに何も言わず出て行ってしまって、悪かったと思っている」
ああ、ああ、そっちじゃない。
核心から微妙に逸らされた解答に、イラっとくる。
「あの時は、ミーシャに会ってしまうと気持ちが鈍ると思った。ごめんね」
「……別に。兄さまがどうしようと、兄さまの自由でしょ」
確かにそれもショックだったけど。
私が今、腹を立てているのは、そんな些末なことじゃない。
だってそれは、彼が、彼の意思で決めたことだもの。
私だって納得している。
「ねぇミーシャ、今から僕の部屋に来て。お詫びに……という訳じゃないんだけど、きみに受け取って欲しいものがあるんだ」
「――え?」
「15歳と16歳の誕生日プレゼント。ほら、渡せなかったから」
「い、嫌よ。兄さまの部屋には行きたくない」
「ああ、家には母さんもいるから安心していいよ。ミーシャの意に反することは、誓ってしない」
「そういう問題じゃないの。とにかく無理だからっ!」
懐かしいレナード兄さまの部屋に、私のために用意された誕生日のプレゼント。
なにその最恐の組み合わせ。
無理無理無理。絶対ぐらっときちゃうじゃない!
「そう。じゃあ持ってくるから待っててくれる? 本当は中でゆっくり話をしたかったけど、また今度にするよ」
「持ってこなくていい。プレゼントなんていらないし!」
繋いでいた彼の手を、勢いよく払いのけた。パシン、と小気味よい音がして、ほんの少しだけスッとした。
でも次の瞬間、一気に後悔が押し寄せてくる。
レナード兄さまが振り払われた手を呆然と突き出したまま、赤い瞳を寂しそうに歪めて私を見ている。
「……ミーシャは僕に、物を贈ることすらさせてくれないの?」
なによ。
なにもそんな、悲しそうな顔することないじゃない。
心がぐらぐらと揺れる。
「っ、好きにしたら? 私はなにも用意してないけど、それでもいいなら貰ってあげる」
ツンと澄ました声が出た。自分でも呆れるほど可愛げのない態度だったのに。レナード兄さまは顔をしかめるどころか、強ばらせていた表情を見る間に綻ばせていった。
「ありがとう、ミーシャ」
――――ふわりと笑った彼に、不覚にもキュンと胸がときめいて。
焦りを感じた私は、くるっ!!と、ものすごい勢いで回転し、玄関の扉に手を掛けた。
「っっ、やっぱりプレゼントはまた今度ね! さよなら!!」
「え!? ミーシャ!」
なにこの笑顔、破壊力ありすぎぃ!!
最恐なのは彼の部屋でもプレゼントでもない。レナード兄さまの心からの笑顔だわ。
ぽかんとするレナード兄さまから逃げるように、私は慌てて家の中へと駆け込んだ。