フォニィ 10話 魔犬
陽が沈みかけていた。
廃墟の中は当然灯りなど無く、見間違えの可能性すらあった。
何かが階段を上がっていったんだ。そしてそれは犬だったと思う。
後ろ姿しか見えなかったけれど、今まで見た犬の中でもずば抜けて大きい。
『……魔犬』
心の中で30歳の自分が手を顎に当てながら呟いた。
魔犬? ……何だよ、魔犬って。
アレがあの不良をこんな目に合わせた?
壁一面にブチ撒けられた血痕に意識が向く。
この惨劇を実行した存在があの獣だと言うのなら
一刻も早く逃げださなきゃいけない。
絶対見つかっちゃダメだ。
魔犬は今3階に上がっていった。
今のうちに逃げるんだ。
うぁ! うわぁぁぁぁぁぁ!
悲鳴。
最初くぐもった悲鳴の後で絶叫。
さっき僕がノックアウトした奴だ!
絶叫は直ぐに途絶えた。喉に噛みつかれたのかも知れなかったし
首を噛みちぎられ頭と胴が離れ離れになっているのかも知れなかった。
い、行こう!
震える脚で階段を降りると
途中で何かに足を取られた。
ダン! と言う音に続いてキンと甲高い音。
転がっていた空瓶を踏んずけて尻もちをつき、
転がって壁に当たったビンが音を鳴らした。
3階から何かが動き出した気配。
と同時に立ち上がり階段を降り出口に向かって全力疾走する。
廊下を駆け廃墟出口に向かうともう一つの階段から巨大な獣の影が見えた。
暗くて良く見えないが魔犬に違いなかった。
獣が階段から顔を出し、こちらに顔を向けた瞬間。横に飛ぶ。
ガラスの貼られていない窓を抜け建物から飛び出す。
建物横のフェンスを【手】に手伝ってもらい素早く越える。
しかし獣は恐ろしいほど速かった。
直ぐにフォニィに追いつきフェンスを跳躍。
逃げようとした方向。フォニィの目の前に立ちふさがった。
トイレに行きたい。月明かりに照らされて僅かに見える獣を見て思った。
せめて死ぬときに尿意を催しながら死にたくは無いと思った。
15歳の自分は複雑な顔をして、30歳の自分は面白そうにしていた。
そんなことを考えている間に、獣が襲ってこないことに意識が向いた。
睨み合っているから? 理由は不明だがしっかりと獣を両目で捉える。
真っ暗で良く見えないがアイリッシュウルフハウンドの様な気がする。
図鑑で見た事ある。大きな犬。
図鑑で見たものより筋肉質な気がするが……
何だ? あのエネルギーの気泡みたいな。
粒子が体から立ち昇っている。自分の【手】もそうだ。
やはりこの巨犬は超常の存在なのだろうか。
少しだけ冷静になる時間があった。
お前と戦わなければいけないなら
只じゃ殺されないぞ! 何なら勝ってやる!
フォニィはそう思い始めた時。獣が唸り声をあげた。
エネルギーが振動を空気に起こしたように感じた。
圧倒される。声量はそこまでじゃなかった。
なのに肌がビリビリする!
後ずさる。周囲に少し靄が漂っているように感じた。
これも獣のオーラ?
いや有害な霧かも知れない!
獣から少し後ずさるだけで魔犬の身体は
夜の闇に包まれて見えなくなった。
月明かりでやっと見えていたのが見えなくなった。
相手も同じならいいけれど。
少しの間立ち尽くしていると唸り声がまた聞こえた。
また体がビリビリした。
前方を向きながら手を挙げると、身体がぐん!と浮かび上がる。
【手】に引っ張ってもらい体を
一息で背後のフェンスを越える。
塀の向こうにつくまでの間、目を見張って獣の居場所を探したが見つからない。
建物の壁際についてから再度【手】を使い2階、3階へと犬には難しい速度で上階へ。
屋上の扉が閉まっていることを確認してから魔犬を探したが、
もう獣の姿は見つからなかった。
たっぷり長時間探してから。
この建物の周囲にも有害な霧が現れはじめていたのに気づく。
獣が見えなくなってからその場にへたり込み。
腰が抜けそうになっていたことに気が付く。
よ、良かった。どっかへ行ったらしい。
呼吸が未だに乱れていた。
取りあえず、用を足せる場所を探そう。
あの犬が来なそうなところがいいけど…
結局屋上の排水溝で用を足し廃墟の屋上で一晩過ごした。
________________翌日
朝起きて最初に思ったのは毛布と食べ物、
歯ブラシなどが欲しいという事だった。
出来れば風避けの為の板や段ボールも。それに早速ボロボロになり
更には血まで僅かについている服もどうにかしたかった。
兎に角フォニィはもっとまともな環境を欲していた。
あの魔犬の存在は慣れ親しんだ路上での寝泊まりを心からしたくないと
思える程のトラウマをフォニィに植え付けた。
ノーホープの街に繰り出す。
今日の自分の心は昨日までとは違っているように感じた。
時たま粒子のような気泡のようなものが空気中に見える。
何時もよりもはっきりと。
まずは食べ物と住処だな。
そうだ、あの宝石屋の営業後に行って男を尾行してみても言い知れない。
___ノーホープの街 ブリッジ通り 午前5時45分
コンビニでサンドイッチを買ってリサイクルの鉄箱をまた見に行く。
今度は違う場所のだ。
枯草色のフード付きのパーカーとキャップを貰っていく。
昨日もう追いかけられた。昨日の戦闘でボロボロだし、
同じ格好はしていたくなかった。
帽子を深めに被りその上からフードを被って行く。
通りを歩いていると道の一角で警察がテープで囲いを作っていた。
コーンを置いてそれにテープを付けて繋げている。
殺人現場だろうか。早朝ではあったが野次馬が少し集まって来ていた。
まだ通報されたばかりなのか
テープの近くまで見に行くと被害者の遺体が運ばれていく所。
遺体を見ると見覚えのあるエプロン。
あの魚屋の叔母さんだった。
気分が悪くなってその場を離れる。
近くの大きめの公園に入り休憩。
________午前8時
頭が酷く重い。
ベンチで休んでいても直らないので兎に角街を歩いた。
ここら辺はまだ早朝という事も手伝って人気が無いのがせめてもの救いだった。
自分自身でも立て続けに色々あって憔悴しているのがわかる。
うな垂れていると15歳の自分が何か言ってる気がした。
何だ? またあの気泡だ。エネルギーの粒子…
道に少し漂ってる。
進んでいくと公共のゴミ箱の近くにも。
上を見上げると電線の上にカラスが停まっていた。
何となく不思議な気泡の動きを辿っていたらカラスがいただけなのだが。
見ていると目が合った。
互いに首を傾げながら見つめ合う。
しばしすると烏はぴょんとフォニィの足元に降りて来てきた。
どうしよう…屈んでみようか。
屈むと更にぴょんとホップするように距離が縮まった。
手をカラスに向けると手に乗った。
うわぁ。懐いちゃった。
どうしよう。かわいいし、嬉しいけど。心が癒されていくのが分かる。
鴉に懐かれて癒されるなんて思いもしなかったけど。
今の自分にとっては大きなことだった。
神経が休まっていくような感覚。
恐ろしく急速に細胞が癒され修復されていくように感じた。
何となくこのカラスに感謝して、
何か食べ物でも上げたいと思った。
近くにキャンディショップがあるのが目に入った。
酷く小汚い店で親子連れが寄り付くようには見えない様な店だった。
動物に甘いものやお菓子など上げるのもどうか。
でもカラスは何でも食べるし…
悩んだけど。横の野菜や果物が売っている店に行き
フルーツと野菜をほんの少し買った。
6ドル分くらい。
カラスがいる所に向かい路地まで誘導するとちゃんとついて来る。
そこで適当に野菜などを与えてみる。直ぐに食べ始めたのでほっとした。
烏は残飯などいつも食べているけど、具体的に何を好むのかが分からなかったのだ。
自分もカラスと一緒になって食べる。買ったトマトを取り出して掌に載せナイフで切り分ける。
トマトも一片だけカラスにやった。
一緒になって食べていると先ほどのキャンディ屋から誰か出てきた。